36 森へ
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
アンナ:イーリン付きの侍女兼マクスウェル家の斥候
ピーター:マクスウェル家の庭師兼斥候
ファン:イーリンの兄クリスの従者、隣国の公爵ヴィルターの紹介でギーベル王国へ
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの元婚約者
キャサリン・パー(リーデン):王太子の現婚約者、元男爵令嬢、現在はリーデン伯爵の養女
ブラム・バクスター:侯爵、王妃マデラインの兄
ルイーゼ・ボンベルグ:イーリンの友人、辺境伯令嬢、実はイーリンの従妹
アルバート・ボンベルグ:ルイーゼの父、辺境伯
セリーナ・ボンベルグ:ルイーゼの母、辺境伯夫人
ノーマン:ボンベルグ領の軍医
調査に出発してから3日後、ノーマンはボンベルグ領に戻ってきて、現在のバクスター領と、かつての研究室の様子を報告してくれた。
今の領主であるブラム・バクスター侯爵は、領地の管理を雇った者に任せていた。そのため、バクスター城は主が不在のまま、使用人たちが好きに使っているようだった。城下町は、かつての繁栄が嘘のように寂れてしまっていた。
城下町の一画にあった研究室は、20年前のまま、誰に手入れされることもなく放っておかれていた。木の扉や床は朽ちるがままであったが、室内が荒らされた様子はなかった。
しかし、ウェナムの試作品は、そこには見当たらなかったとのことだった。
「侯爵家が、王都の館の方で保管されているのかもしれません。」
試作品のウェナムとはいえ、多くの費用と人材を用いて作成されている。侯爵家にとっては、捨てがたく、貴重なものであったはずだ。盗まれた様子もなく、人任せにした城に置きっぱなしにしているのも考えにくいとなれば、王都に運ばれている可能性は高い。
それはすなわち、バクスター家が持つ試作品が、キャサリンに悪用されている可能性もまた、高くなったということである。
「我々が、あのとき、ちゃんと処分を見届けるべきだったのです。」
ノーマンは、悔しそうな表情で言った。
その翌日になり、突然王家からの使者が、ボンベルグ領を訪れた。
『罪人が逃げ込んだ可能性があるから、捜索に協力するように』との伝令のために。
使者が帰ってから、ボンベルグ領主、辺境伯アルバートを始め、イーリン、ファン、ピーター、アンナ、ルイーゼは、またボンベルグ城の一室に集まっていた。
「とうとう来ましたね。」
緊張した顔で、ピーターが言う。
「ああ。しかし、うちが積極的に疑われているわけでもなさそうだ。どうも、いくつかの領地を順に調べていくつもりらしい。」
アルバートは、使者を非常に丁寧にもてなした。辺境までの旅でへとへとに疲れていた使者は、美味しいワインと食事で気分を良くし、口が軽くなった。
今回は使者のみで、およそ3日後に調査のため、王都から50人ほどの兵を送ってくるとのことだった。捜索範囲には城も含まれ、協力しない場合は反逆とみなす、との高圧的な内容だった。
「王太子というのは、本当にお子様なんだな。それも頭が悪い。」
アルバートは、ふう、とため息をついた。
50人もの兵に、国中を回らせれば、王家の負担は大きい。ただでさえ、マクスウェル領や街道を見張るのに、かなりの数の兵を割いているはずだ。
「義兄上……、いや、クリスかな? それを狙っているのか……。」
「お父様、ここが疑われているのではないのなら、イーリン様は、まだ出発する必要はないのではないですか。調査隊がいる間だけ、身を隠していただいていたら……。」
ルイーゼが心配そうに、アルバートに提案する。
「いいえ。」
きっぱりと、イーリンは言った。
「申し訳ありません、ルイーゼ様。これ以上、ボンベルグの皆様にご迷惑をおかけするわけにはいきませんわ。私、マクスウェル領へ出発いたします。」
「イーリン様……。」
今回の使者はすぐに帰ったが、50人もの人数をよこすのであれば、調査隊はボンベルグ領の隅々まで調べるつもりだろう。イーリンが安全に隠れられるところは、そう多くはない。
イーリンが見つかってしまえば、王家はボンベルグ家を敵とみなすだろう。そうなれば、王都にいる辺境伯夫人セリーナに、何をされるか分からない。
……今回の、イーリンのように。
「それに、いつかは動かないといけませんわ。それが、今だ、というだけです。」
「……わかった、イーリン。すぐに準備を進めよう。」
アルバートがそう言うと、皆は頷き、すぐに準備に取り掛かった。
イーリンは、ルイーゼから動きやすい服を借りた。森の中はドレスでは歩けない。
きらきらと輝くプラチナブロンドの髪は、革ひもで後ろに結わえた。
「ルイーゼ様。色々とお貸しいただいて、ありがとうございます。」
微笑んで健気に言う姿が、一層痛々しい。何の罪も犯していないのに、イーリンは命を狙われ、これから何が起こるか分からない、森の中の道を行かなければならない。
(森の主様、どうか、イーリン様をお願いいたします。)
ルイーゼは、心の中で祈った。
ファンやピーターも、それぞれの武器を取り、準備を終えた。アンナも、イーリンを助けに来たときのような、狩人のような格好に着替えた。
全員が準備を終えて集合すると、そこにはノーマンの姿があった。ノーマンもまた、旅に出る格好をしている。
「先生も、一緒に行かれるのですか。」
ピーターが驚いて尋ねた。
「ウェナムを使われた人間の治療ができる者は、この国でもそうおりません。少しはお役に立てるかと思います。」
「でも、戻ってこられたばかりですのに。」
ノーマンは、つい先日バクスター領の調査に行ってきたところである。60代のノーマンは、年齢にしては頑健な身体つきをしているが、今から森へ向かうのは、負担が大きいように思われた。
「こんな年齢ですが、体力には自信があります。軍医として、この国の訓練にも付き合いますからな。……それに、私も、見届けたいのです。あのウェナムが、どうなったのかを。」
「……なるほど。」
ファンは、ノーマンの真剣な眼差しを見て、ぼそりと言った。
イーリンは、アルバートの方を向いて尋ねた。
「よいのですか。叔父様。」
イーリンたちにとって、医者であり、ウェナムに詳しいノーマンが同行してくれることは、この上なくありがたい。しかし、ノーマンはボンベルグ領で一番の腕を持つ、貴重な医者ではないのか。
「はは、ノーマンがしっかりと弟子を育ててくれているおかげで、こちらは大丈夫だ。それよりノーマンが、仕事に集中できないんじゃ困る。ぜひとも、連れて行ってやってくれ。」
アルバートは笑って答えた。ノーマンの心残りを、慮ってくれたのだろう。
アルバートは、ノーマンの他に、ボンベルグの兵を2人同行させてくれると言った。
そのまま一行は城を出て、アルバートが用意してくれた馬車で、森の入口へと向かった。
ボンベルグ領の北にある森の中を進んでいくと、ある地点から木々が太く、背が高くなり、『昏き森』につながっていくらしい。それまでの比較的明るい場所までは、時々人が入ることもあり、かろうじて細い道はあるとのことだった。
アルバートとルイーゼは、森の入り口まで一緒に来てくれた。
アルバートは、イーリンを抱きしめ、別れの挨拶をした。
「イーリン、気をつけて行っておいで。森の中が危なかったら、すぐに戻ってくるといい。そのときは、何としてでも守ってあげるから。」
「ありがとうございます。この御恩は忘れません。叔父様。」
ルイーゼも、イーリンと抱き合って別れを惜しんだ。ルイーゼの目は潤んでいる。
「イーリン様……。どうか、ご無事で。」
「ええ、ルイーゼ様も。また、一緒にお散歩しましょうね。」
少女たちの様子を見て、アルバートのお付きの者たちも、目を赤くしていた。
アルバートは、ファンたちとも一人ずつ握手をした。
「頼んだよ。」
「もちろんです。」
ファン、アンナ、ピーターは、アルバートの目を見て、しっかりと返事をした。
「では、行ってまいります。」
イーリンが最後に言うと、一行は森の中へと歩き出した。
アルバートたちは、その背中が見えなくなるまで見送った。
イーリンたちが枝葉を踏む音もまったく聞こえなくなり、森の静寂だけが残ったころ、ルイーゼは、森の方を見つめたまま言った。
「お父様。どうして、イーリン様は、このような過酷な運命なのでしょうか。」
アルバートもまた、森の方を向いたまま答えた。
「……ルイーゼ。それは、考えても仕方がない。」
「……。」
「イーリンの運命は、イーリンのものだ。お前とて、今後何があるかわからない。」
「……そうですね。」
「……お前は、よくやった。」
「お父様……。」
──もっと、何かできなかったのか。大好きな従姉であり、大切な友人のために。
涙を流し始めたルイーゼを、アルバートは優しく抱き寄せた。
「お前が責任を感じることは、何もない。」
(責任を感じなければいけないのは、我々大人だ。)
歯車がほんの少し違えば、イーリンの処刑までには至らなかったはずだ。しかし、最悪の事態が起きてしまった。悪いことが起きるとき、というのは、そういうものではあるが、本来、どこかで誰かが止められたはずなのだ。
「お父様、イーリン様は、無事にマクスウェルまで着きますわよね。」
「ああ、きっと大丈夫だ。あとは、イーリン自身と、ついていった彼らを信じよう。」
しかしまた、イーリンを救ったのも奇跡の連続だ。どれかがうまくいかなければ、すでにイーリンは命を落としていただろう。
イーリンの運命は過酷だが、天は彼女に味方しているのかもしれない。かつてイーリン自身が、処刑を宣告された場で、アーサーに対して言ったように。
お読みいただいてありがとうございます。いよいよ森の中へと進んでいきます。次もお付き合いいただけると嬉しいです。




