27 目覚め
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
アンナ:イーリン付きの侍女兼マクスウェル家の斥候
ピーター:マクスウェル家の庭師兼斥候
ファン:イーリンの兄クリスの従者、隣国の公爵ヴィルターの紹介でギーベル王国へ
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの元婚約者
ルイーゼ・ボンベルグ:イーリンの友人、辺境伯令嬢、実はイーリンの従妹
アルバート・ボンベルグ:ルイーゼの父、辺境伯
ノーマン:ボンベルグ領の軍医
──目の前に、ドレスの裾が見える。彼女が歩くたびに、ひらひらと動く。
彼女の真っ赤な唇は、私を魔女だと責める。
そして鼻をつくのは、あの香り……。
「い、いやっ。」
イーリンはたまらず叫んだ。
──いや、もう、怖いの。
「いや!やめて!来ないで!」
「イーリン様!?」
アンナの慌てた声がする。
「誰か!ファン様を呼んできて!」
「……おい、ファンを鎮静剤代わりに使うなよ。」
ピーターのあきれたような声がする。
──……ここは、王城ではないの?
(ここはどこ?)
うっすらと、視界があかるくなる。
パタパタと、誰かが走ってくる音が聞こえる。
「どうしたんですか?」
(あの声は……。)
「あ……。」
(何だろう、落ち着くにおい……。)
心配そうな顔のファンが、目の前にいる。イーリンはその方に手をのばした。
「目を覚まされたのですね。もう大丈夫ですよ。」
ファンがその手を取り、優しく語りかけてくれる。
イーリンは、だんだんと頭がはっきりとしてきた。
ファンの後ろにはアンナとピーター、そして、見慣れない侍女たちがいる。少し離れて、小さな茶色の瓶を持った年配の男性がいた。
「お嬢様!」
「お嬢様の意識が戻った!」
「ご主人様に、ご報告しなくては!」
皆、嬉しそうな顔をしている。アンナが、ここはボンベルグ領の館の中だと教えてくれた。
「え? あら……。」
とたんに、自分がファンの手を握りしめているのに気づき、イーリンは恥ずかしくなった。
「あ、あの……。」
その様子を見て、ファンは微笑み、そっと手を外した。
ピーターは、ちょっと白けた目で、2人を見ながら言う。
「何恥ずかしがってるんですか、いまさら。お嬢様は、何度もファンの腕の中でしっかり寝てましたよ。」
「ええ? あら、そんな……。」
イーリンは顔が赤くなる。何も覚えていない。いや、正確には、何となくそんなこともあったような気がするのだが、はっきりと自分が何をしたか覚えていないのだ。
「まあ、その話は追い追いしていきましょう。お嬢様は、目を覚まされたとはいえ、まだ身体を戻すことが必要ですから。」
アンナは、イーリンの意識が戻ったので嬉しそうだ。
茶色の瓶を持った男が、不思議そうに言う。
「まさか、気つけになってしまうとは……。申し訳ありません、うなされておられたので、どちらかというと鎮静に使うつもりだったのですが。」
「鎮静剤は、もうありますので。」
アンナが、ファンをちらりと見て言う。
「先生が言ってるのは、そういうことじゃないだろ。」
ピーターが、またあきれて言った。
イーリンは、ベッドの中で身体を起こした。少し、頭がくらくらとする。
「お嬢様、無理なさらずに。」
「いえ、あの……、お医者様でしょうか?私を診てくださったのですね。ありがとうございます。」
ぼんやりとだが、ファンたちに助けられ、その後、小屋で熱を出したところまでは覚えている。
(あら? そういえば、私、森でファン様に助けられたとき……。)
自分の行動を思い出し、ちらりとそばにいるファンの方を見ると、ファンはにっこりと笑った。
イーリンはまた顔を赤くする。
「おや、お嬢様。また熱が出ましたか?」
医者であろう男が慌ててイーリンの方に近寄ったが、ピーターは淡々と言った。
「いや、あれは違うと思いますよ。」
そうは言っても、と医者がイーリンを診察しようとしたとき、彼の持っている瓶の香りが、イーリンの鼻をついた。
「あっ……。」
イーリンは、少し身を固くした。
「どうされましたか?」
「いえ、あの……。この香りは?」
やはり、あの香りと同じだ。
「これですか?」
医者は、茶色の瓶をかざした。
「ええ。」
「これは、ウェナムと言いまして。痛み止めとか、鎮静に使うものなのですが……。」
「お薬、なのですか。」
「そうですね。手に入る量が少ないですし、量の加減が難しいので、あんまり上手に使えるものはおりませんが。」
自分はできるのだ、とばかりに、医者は少し胸を張った。
「まあ、貴重なものをありがとうございます。」
「いえ、医者として当然のことをしたまでで……。うむ、特に問題はなさそうですな。」
診察を終えた医者は、イーリンの病状について、簡単に説明してくれた。
医者は60歳を少し過ぎたくらいの男性で、名前をノーマンといった。普段は、ボンベルグ領で軍医として働いているが、今はアルバートの命で、イーリンの治療にあたっていた。
「地下牢の水が悪かったんでしょうな。身体が冷えたところに、悪いものが入り込んだんでしょう。」
容態はかなり悪かったらしい。ノーマンの調合した薬がよく効き、ボンベルグ領に着いて3日ほどで熱は下がった。しかし、それから数日経っても、イーリンの意識は戻らなかった。
「熱による消耗と、精神的な負担が原因かと。」
こういう状態のとき、病人は冥府との境をさまよっているという。
ファン、アンナ、ピーター、ルイーゼ、アルバートが、繰り返しイーリンに呼びかけ続けた。
イーリンは、少しずつ皆の声に反応するようになり、うっすらと目を開けることも出てきた。しかし、その分うなされることも多くなった。
ファンは、献身的にイーリンのそばについてくれた。助けられたときの印象が強いのか、イーリンはファンの声を聞くと、安心して眠りにつくことが多かったからだ。
ファンはまた、寝ているイーリンの周りで手を動かしていることがあった。何をしているのか尋ねると、「気を整えているのです。」と言った。
その意味は分からなかったが、確かにそれをすると、イーリンが穏やかに眠る時間が長くなるため、皆はそのまま見守っていた。
しかし、今日は少しファンを休ませてやろうということになり、その間、ノーマンが試しにウェナムを使おうとした、というわけだ。
(まあ、私ったら、ファン様が離れるのを嫌がったみたいに……。)
どれだけ甘えていたのだろう。後で、しっかりと謝らなければ、とイーリンは思った。
ただ、今は、ノーマンに聞きたいことがあった。
「あの……先生。その、ウェナムについて、もう少しお聞きしても?」
「お嬢様、何か気になることがおありなのですか?」
アンナが不思議そうに尋ねる。
「ええ……。以前に嗅いだことがあるの。」
「ふむ? 使ったことがおありで?」
「いいえ。その……人から……。」
晩餐会のキャサリンの顔が浮かび、イーリンは目を伏せた。
「人から、ですか……。先ほども言った通り、ウェナムはなかなか手に入らないものなのです。まあ、マクスウェルのお嬢様なら、珍しいものに触れる機会もあったのかもしれませんが……。」
ノーマンが、イーリンの顔色が悪くなったのに気づき、優しく言った。
「しかし、今無理をされるのは感心しませんな。私はいつでも時間を作ります。お身体がもう少し回復されたら、ゆっくりとお話ししましょう。」
「分かりましたわ。お願いいたします。」
ノーマンは「では、私はアルバート様に報告してまいりますので。」と言い、一礼して退出した。
イーリンは、アンナと侍女たちに身の回りを整えてもらい、また休むようにと言われた。
その後、なぜか皆が優しい目をして、ファンだけを部屋に残していった。ベッドのそばの椅子に座ったファンは、穏やかな笑顔を浮かべている。
イーリンは、身体を起こし、頭を下げてファンに謝った。
「すみません、私、その、色々失礼なことを。」
「そんなことはありませんよ。」
「でも私、……とてもわがままだったみたいで。」
「お助けしますと言いました。私が好きでやったことです。」
ファンは、おろおろとするイーリンを見ながら、にこにこと笑っている。
──彼女が回復してくれてよかった。
「よく、頑張られましたね。大変だったでしょう。」
「……今も、ここにいるのが夢みたいですわ。」
『天が私に味方したならば、生き延びるやもしれません。』
死を覚悟しながらも、アーサーたちの前で、彼女は凛としてそう言い切ったという。
この華奢な身体のどこに、そんな強さがあったのだろう。その場にいて、守ってやりたかった、とファンは思った。
ファンがじっと見つめるので、イーリンはもじもじと恥じらっていたが、何かを思い出したように声を上げた。
「あら、いけない。忘れていたわ。私、ファン様にお礼を言わなくてはならないのです。」
「私にですか?」
「私、これまでずっと、あのときいただいた『気』に支えていただいていたのです。心が折れそうなときは、このあたたかさを思い出していたのですわ。」
イーリンは、胸をそっと押さえて言う。ファンは驚いた。
「あのときの……。」
「ええ、中庭で……。」
そうして、イーリンは穏やかな顔でファンに微笑んだ。
「ありがとうございます。ずっと、そばについていてくださったのですね。」
胸の中のあたたかさだけではない。ぼんやりする頭の中で、ずっと同じあたたかさを感じていた。
彼は私が倒れてから、どれほどそばにいてくれたのだろう。彼のあたたかさはとても心地がよくて……
──もっと、そばにいたい。
こんなことを考えてしまって、どうしようかしら、私は甘えてばっかりで、などと思っていると、ふわりとファンが近くなった。
「あ……。」
目の前に、ファンの胸がある。いつの間にか、ファンの腕は、イーリンを優しく包んでいた。
「これからも、ずっとおそばにおります。」
ファンの声が、頭の上から聞こえる。頭の後ろに回された大きな手は、あたたかい。
「ファン様……。」
──うれしい。ほんとうに?
「ああ、申し訳ありません。あなたのお身体に障る。」
思わず抱きしめてしまったことを謝り、ファンはすぐに離れようとした。
「いいえ、いいえ。」
イーリンは、首をふるふると振り、ファンを見つめた。紫色の瞳にとらわれ、ファンが動きを止める。イーリンの手が、ファンの服をきゅっとつかんだ。
「お願い、もう少しだけ……。」
イーリンは頬を赤く染め、手を震わせている。知らず知らず大胆な行動に出てしまい、恥ずかしくなったのだ。
ファンは優しく微笑み、さっきよりもしっかりと、イーリンを抱きしめた。
お読みいただいてありがとうございます。次もお付き合いいただけると嬉しいです。




