20 昏き森
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
アンナ:イーリン付きの侍女
ピーター:マクスウェル家の庭師
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの元婚約者
キャサリン・パー(リーデン):王太子の現婚約者、元男爵令嬢、現在はリーデン伯爵の養女
一方的な「協議」が終わると、イーリンはまた地下牢に入れられた。
昨夜と違い、夜になってもあの男の叫び声は聞こえなかった。どうやら発作的に叫び出すものと思われた。
イーリンはまた、藁のベッドの上で薄い布にくるまった。
刑の宣告は終わった。おそらく、明日にでも刑を執行するため、ここを出発するだろう。
王城から昏き森までは、馬車で2日はかかる。
父ヘンリーが隣国から帰国し、王城にたどり着くまでに、イーリンの刑が終わっていないといけないのだから。
自分の生命が2日後には終わるかもしれないと思うと、無性に悲しくなった。
しかし、自分で選んだことだ。それに、たとえ幽閉に落ち着いたとしても、アーサーたちが自分をそのまま生かしておくとは思えなかった。
絞首刑や斬首刑などと違い、今回の刑で実際にイーリンを殺すのは獣たちだ。特に勝算があるわけではなかったが、王都で殺されるより、外に出て、少しでも領地に近くなるなら悪くないと思った。
イーリンは、深いため息をついた。
アーサーやキャサリンを見るのは、正直今でも怖いし、つらい。でも、今日は何とか頑張れた。
イーリンはまた、そっと胸に手を当てた。このあたたかさを、死ぬまで忘れずにいたい、と思った。
イーリンの刑は、静かに進められていった。
イーリンは、王太子の婚約者として有名な貴族令嬢であり、可憐な少女でもある。
それが無惨に処刑される姿を見せられれば、いくら王都の民でも、さすがに王家への反発が起きる。そこは、アーサーもしぶしぶと貴族たちの意見を聞き入れ、表向きには幽閉と発表するようだった。
地下牢から出されると、イーリンは処刑用の簡素な白い服に着せ替えられた。王城内の広場に引き出され、諸侯の前でアーサーが刑を宣言したあと、イーリンは見届けの兵士や執行人たちと一緒に、粗末な馬車に押し込められた。
馬車は王都から離れ、ガタガタと音を立てながら昏き森へと向かった。
道中、兵士や執行人たちは、イーリンをできるだけ丁寧に扱ってくれた。おそらく罪悪感のためだろう。
一部始終を聞かされている彼らにとって、イーリンの冤罪は火を見るより明らかであった。だからこそ、王太子に命じられた無実の令嬢の処刑は、非常に嫌な仕事のようだった。
二晩を野営で過ごし、3日目の昼に、馬車は目的地に着いた。眼前には鬱蒼とした森が広がっている。マクスウェル領に似た緑の匂いに、イーリンは何となく懐かしさを感じた。
執行人たちはイーリンを森の手前の草むらに連れて行き、座らせた。イーリンは抵抗せず、執行人たちのするがままに後ろ手に縛られ、目隠しをされた。
執行人たちは、この貴族の少女の哀れな姿を見て、ひどく心が痛んだ。魔女だと言われ、殺されようとしているのに、この少女は自分たちと一緒にいる間、ずっと優しかった。
最後に執行人たちは、皮袋に入った赤黒い液体をイーリンの周りに撒いた。生臭さが鼻をつく。
(うっ……。)
イーリンは吐き気を催した。
「本当は、あんたにぶちまけろと言われた。でもなあ。」
撒かれたのは、動物の血だと言う。血の匂いで獣たちをおびき寄せるためだった。
アーサーたちの命令だろう。その底知れない悪意に、イーリンは身震いした。
執行人の1人が、イーリンの状態をもういちど確認する、と言って近づいてきた。そして、さりげなく目隠しと腕の縄をゆるめ、こっそり耳打ちをした。
「馬車の音が聞こえなくなるまで、頭を振ってはいけませんよ。」
イーリンは、小さな声でお礼を言った。
執行人たちは、「ご幸運を」と言って、足早に去っていった。見届け人の兵士が、最終確認が終わったと声を上げ、馬車に乗り込んだ。鞭の音がして馬がいななき、馬車は出発した。
音が聞こえなくなると、イーリンは頭を振り、目隠しを落とした。頑張って身体をよじっていると手の縄もほどけた。
(ありがたいわ。でも、これからどうしようかしら……。)
イーリンは、親切な執行人に感謝した。そして、まずは安全な場所へと移動しなければと思い、立って周りを見渡した。
すると突然、少し離れた岩の陰から、3人の男たちが現れた。
「悪いね、お嬢様。」
男たちは、街に住む平民のような格好をしていた。しかし、どことなく卑しい感じがし、下品な笑いを浮かべていて、とてもまっとうに生きている人間には見えなかった。
「きゃっ……。」
「普段なら捕まえて売り飛ばすんだがね、雇い主の命令で、あんたには死んでもらわないとね。」
アーサーかキャサリンからの刺客だろう。
王家の兵には見えず、どうやらならず者を雇ったようだった。
イーリンは走り出し、男たちから逃げようとした。
少女一人、簡単に捕まえられると思っているようで、「捕まえたらどうする?」「少しはお楽しみもあっていいだろう」などと言う言葉が聞こえてきた。
(何とか、逃げなくては……。)
イーリンは、どの方向に逃げるか迷った。草むらでは、いつまでたっても身を隠すことができない。でも、前に広がるのは「昏き森」だ。
男の1人に、もうすぐで追いつかれそうになったところで、その男が草に足を引っかけて転んだ。
⦅美しい人、こちらへおいで。⦆
森の奥から、声が聞こえる気がする。
今ここにいても、刺客たちに狙われるばかりだ。イーリンは森の中に逃げこんだ。
男たちは、イーリンをののしりながら追いかけてくる。しかし、イーリンが木々の間を抜けると、その後ろにばさりと枝が降りてきて、男たちの行手を邪魔するかのようだった。
2人の男が、森の中までイーリンを追いかけてきていた。イーリンは足がもつれて倒れそうになり、とっさに木につかまった。イーリンの足が止まったのを見て、男たちが迫ってくる。
ざざ、と音がしたかと思うと、横手から、銀色に光る毛を持つ狼が現れた。狼は、イーリンと刺客たちの間にするりと入り込んだ。
イーリンは襲われることを覚悟したが、狼は尻尾をイーリンの方に向け、刺客たちを威嚇するように唸っていた。
(守ってくれているの……?)
根拠はないが、そう思えた。
男たちは狼を恐れ、それ以上進むことができないでいたが、じりじりとイーリンに近寄ろうとしている。
イーリンは狼に背を向け、森のさらに奥の方へと走り出そうとした。
そのとき、懐かしい声が聞こえた。
「イーリン様!」
(あの声は……。)
「アンナ!?」
「イーリン様、どちらにいらっしゃるのですか?」
木々の向こうに、アンナの姿が見えた。いつもの侍女の姿ではなく、狩人のような格好をしているが、その顔は確かにアンナだった。
イーリンは、思わず声を上げてしまったことに後悔した。なぜアンナがここにいるのかは分からないが、このままでは、アンナまで襲われてしまう。
「来てはだめ、アンナ、危ないわ!」
男たちは少し悩んでいたが、狼と戦ってイーリンを追いかけるより、仲間の女を先に始末する方を選んだようだった。
踵を返し、声のする方に走っていく。
「やめて!」
イーリンは狼の脇を抜け、男たちを追おうとした。
すると突然、男の一人が倒れた。
(えっ……。)
男の胸には、矢が刺さっている。
少し遠くから、ピーターが弓矢を構えているのが見えた。
そして、もう一人……。
「ファン様!」
あの、優美な動きだった。ファンの剣が一閃すると、残った男はすぐにくずおれた。
周囲にもう敵がいないことを確認すると、ファンは、イーリンの方に走ってきてくれた。
「イーリン様、無事でしたか。」
「はい……。」
しかし、イーリンはもう足に力が入らなかった。
「失礼します。」
ファンはためらわず、イーリンを両腕で抱きあげた。
ファンの胸はあたたかく、イーリンはぽろぽろと涙を流した。怖かったのだ。ここ数日、ずっと。
「大丈夫ですか。」
回廊で会った時と同じ顔で、ファンが焦っている。
イーリンは、たまらずファンの首筋にしがみつき、泣きながら言った。
「ファン様、ファン様。お会いしたかった。」
そして、そのまま泣き続けた。
すると、イーリンは、自分を抱く手に力が入ったのを感じた。ファンの落ち着いた、穏やかな声が聞こえる。
「……イーリン様、私もです。」
ファンは、イーリンを抱いたまま、アンナやピーターのところまで連れて行ってくれた。
「イーリン様、お身体は大丈夫ですか?」と心配してくれる、親しい人たちの声が心地よかった。
イーリンは次第に身体から力が抜け、意識が遠くなっていった。
(……狼さんにも、お礼を言わなくちゃ……。)
狼はいつの間にかいなくなっていた。
周りの景色が霞む中、イーリンはまた、さっきの声が聞こえた気がした。
⦅美しい人、もう大丈夫だ。⦆
それは、とても優しい声だった。
⦅また、あなたはここに来る。その時まで待っているよ。⦆
お読みいただいてありがとうございます。24話までで、いったん第一章終了とさせていただく予定です(その後も更新は続けます)。23~24話は回想になる予定ですので、よろしければ、皆様のきりのいいところで、ご感想やご評価などいただけると大変嬉しいです。




