13 あの香り
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
ヘンリー・マクスウェル:イーリンの父、公爵
マリア・マクスウェル:イーリンの姉、隣国貴族と婚姻予定
クリス・マクスウェル:イーリンの兄、マクスウェル家跡取り
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの婚約者
キャサリン・パー:男爵令嬢、王太子のお気に入り
リーデン伯爵:キャサリンの後見
エリザ・リーデン:リーデン伯爵夫人
マーガレット・リーデン:伯爵令嬢
エリザは服を整え、椅子に座り直すと話を始めた。
エリザの話は次のようなものだった。
「まず、私と夫のことなのですが。」
元々、リーデン伯爵とエリザは、それなりにうまくやっている夫婦だった。2人で協力し、息子を申し分のない跡取りに育て上げた。
あとはマーガレットの縁組である。マーガレットは兄と歳が離れているため、1年ほど前まではほとんど領地で過ごしていた。そろそろ王都にも連れ出し、社交界に出るための準備を進めようとしていたところだった。
そこで、キャサリン男爵令嬢が突如現れた。
夫と娘はすっかりキャサリンに心酔し、夫はキャサリンを養女にして、王妃の座を狙うと言い出した。
エリザからすれば、意味が分からない。
すでに王太子には、イーリン嬢という立派な婚約者がいる。
それに、自分の娘を婚約者候補にと考えるのならともかく、それを放り出して、よその娘にかかりきりとなっている。
そして、何よりエリザはキャサリンが気に入らなかった。
彼女は無知な人間に対して、平気で都合のいい嘘をつく。人の隠し持った虚栄心を刺激し、歯が浮くようなお世辞を平気で言う。
責任感などとは全く無縁で、嘘を指摘されれば、またしれっとした顔で嘘を重ねるのだった。
エリザは『あの黒髪の娘』という表現をし、いかにも腹立たしいと言った様子でキャサリンのことを話した。
「けれど、夫が簡単に騙されたことが、私には信じられなかったのです。」
年若い娘が、甘い言葉に乗せられるのは仕方がない。
しかし、リーデン伯爵はいい大人であるし、有力貴族の1人として、領地の経営や政治にも関わってきた。
年甲斐もなく、息子より若い年齢の娘にのぼせているのか、と情けなく思い、エリザは夫の身辺を詳しく調べ始めた。
すると、夫の様子がどうもおかしいことに気づいた。
「夫から、妙な香りがするのです。」
「妙な香り……。」
「甘いような、少し……臭いような。身体から匂うこともあれば、服から匂うこともあります。」
「まあ……。」
「その香りが強いときは、夫はぼんやりとしたり、怒りっぽくなったりします。」
そんな時は、ぶつぶつと「キャサリンを王妃にするのだ」と繰り返し、エリザが話し合いをしようとしても、聞く耳を持たないどころか、まともに話すらできなかった。
静かな室内に、エリザの声が響く。イーリンは、いつの間にか両方の手を握りしめていた。
「ある日、私はマーガレットを連れ、ある方の家で催された宴に出席しました。」
その頃はまだアーサーは謹慎中ではなく、キャサリンも堂々とあちこちに顔を出していた。
キャサリンはエリザを見つけると、すぐに寄ってきて挨拶した。
「まあ、リーデン夫人。お久しぶりでございます。今度、私のためにお時間を取ってくださいませ。マーガレット様とも一緒に、ゆっくりお話ししたいですわ。」
馴れ馴れしい態度に嫌気がさしながらも、エリザは一応挨拶を返した。そして、名残惜しそうなマーガレットの手を引き、その場を去ろうとした。
そして、キャサリンのそばを通り抜けようとしたとき、ぴくりと嫌な感覚があった。
(夫と同じ香りがする……。)
香水ではない、独特の香り。
キャサリンは、それをわざとつけてきたわけではないようで、香り自体はかすかなものであった。
問いただしたい気持ちをぐっとこらえ、エリザは何とも思っていないふりをして、そのままキャサリンから離れた。
しかし離れる直前、キャサリンの赤い唇がにい、と笑った気がして、エリザは背筋に寒気を覚えた。
館に戻り、その足で夫の部屋に向かった。夫は留守で、部屋の中には、あの香りが充満していた。
机の上にはキャサリンからの手紙の束が置いてあり、そこから滲み出すように強い香りがしていた。香りに当てられ、頭がくらくらとしてきた。
エリザは窓をおもいきり開け、手紙の束を掴んで投げ捨てた。そうしてやっとまともに息ができるような気がした。
帰ってきたリーデン伯爵は、エリザがキャサリンの手紙を捨てたことで怒り狂った。
あの娘は何かがおかしい、あなたの考えを否定するわけではないが、少しの間だけでもキャサリンと距離を置いてほしい、と頼んだが、分からないやつだと怒るばかりで、聞き入れてくれなかった。
イーリンが療養に入り、アーサーが謹慎になっても、伯爵の様子は変わらなかった。
頻繁に家を空け、あの香りをさせて帰ってくる。
ぶつぶつと言う回数も増えていった。
キャサリンを養女にしろ、この機会を逃すなと何度も強く迫られたが、エリザはそれだけは譲らなかった。キャサリンが王妃になる可能性を、万に一つも与える気はなかった。
リーデン伯爵は徐々に荒れ、物を投げるなどの粗暴な行為も見られるようになった。
幸いにもリーデン領は王都に近く、伯爵が落ち着かないときには、マーガレットと共にすぐ領地に避難した。
そんなときは、跡取りである息子からも伯爵に意見するのだが、やはり変わることはなかった。
マーガレットは、まだキャサリンを慕っていたが、キャサリンのために両親が争っているのを知っていた。キャサリンと会う機会も減ったため、少しずつ母親や兄の言うことも理解できるようになってきていた。
「同じ香りがする、というだけで、他に確かなつながりを見つけたわけではありません。けれど……。」
エリザは確信している。
キャサリンは何やら怪しげな薬を、夫に使っているのだ。そうやって、夫のまともな判断をする力を奪った。
しかし、いくら筋道立てて説明しても、情に訴えても、夫にはもはや届かない……。
エリザはため息をつき、
「夫婦の片方が違う方向を向いているというのは、なかなかに辛いことでしてよ。」
と、寂しそうに微笑んだ。
イーリンにも分かるような気がした。
人間がみな同じでないことは分かっている。
しかし、親しくあるべき人とは、少しくらいは心を通じ合わせたいものだ。それなのに、全く心が通じ合わなければ、どうすればよいのか。
努力した側が襲われる孤独感や絶望感は、堪え難いものだった。
リーデン伯爵夫妻においては、かつて通じ合っていたものが失われたのだ。それは、エリザにとって、どんなに辛いことだっただろう。
「エリザ様、ここまでお話ししてよいのですか。」
マリアが心配そうに言う。
「うふふ、よく口の滑るお茶でしょう。」
エリザは、しっかりした顔つきに戻った。そして、イーリンとマリアをまっすぐに見つめて言った。
「私ね、これでも人を見る目はあると思っているのです。本日のお二人のご様子を見せていただいて、信用に足る方々だと分かりました。イーリン様は、決して魔女などではございませんわ。」
緊張する娘を気遣い、娘に合わせた内容でお喋りをしてくれた。エリザの入れたお茶にも、ためらわず口をつけた。
2人が娘を邪険に扱い、お茶に口をつけなければ、エリザは何も話さず、そのまま帰ってもらうつもりであった。
人柄はさりげない行動に出る。そして、毒を盛られているのでは、と疑う者は、同じことを他人にする腹づもりがあるものだ。
「今日はつまらない話をたくさんお聞かせしました。次は、本当に美味しいものでもご用意いたしますわ。」
苦いものはもうお腹いっぱいですものね、とエリザは笑った。
「また、お会いしましょう。」
と言って、エリザは2人の帰りを見送ってくれた。マーガレットも出てきて、2人に手を振ってくれた。
館までの帰り道、イーリンとマリアは、エリザについて話していた。
「お母様とはまた違って、強くて賢い方ね。」
「そうですね。立派な方でした。」
『魔女などではございません』と、断言してくれた、エリザの心意気が嬉しかった。
またお会いしたい、と心から思ったが、お互いの立場を考えると、なかなかに難しいだろう。
婚約が無事解消され、アーサーにしかるべき婚約者がきまったら、いずれエリザとも心置きなく会えるだろうか。
そのとき、リーデン伯爵はどうなっているのだろうか。
イーリンは胸にそっと手を当て、エリザの優しい眼差しを思い出していた。
春になり、婚姻の日が近づいてきたため、マリアは領地に戻ることとなった。
嫁いでいってしまえば、めったに会えなくなる。イーリンとマリアは涙ながらに別れを惜しんだ。
夫婦揃って式典に参加するため、ヘンリーもいったん領地に戻らなければならなかった。イーリンを1人にしないために、公爵夫妻がハーフェンに発つまでの間、兄のクリスが王都に来てくれることとなった。
「何だかんだと王都は久しぶりだな。イーリンに連れて行ってもらわないと、私の方が迷いそうだ。」
「お兄様ったら。」
1週間も経てば、クリスも領地に戻ってしまう。
しかし、アーサーも最近は強硬手段に出ることはなくなったし、キャサリンと顔を合わせたとしても、挨拶程度ですんでいる。
このような状況であれば、イーリンは一人でも対処できるようになってきていた。
イーリンは、少しずつ自信を取り戻していた。
お読みいただいてありがとうございます。お兄ちゃんが王都に来てくれました。次もお付き合いいただけると嬉しいです。




