74.「冬への扉」
見上げても視界に全てを収められないほど巨大な書架に、大小様々な書物がぎっちりと詰め込まれている。それが見渡す限り延々と続き、どこか現実離れした雰囲気を醸し出していた。
ここが、この場所こそが王国書庫だ。極一部の限られた人々しか立ち入ることの許されない、王都地下深くに秘匿された叡智そのものである。
誰もが言葉を失い、ぼんやりと放心して眼前に広がる光景を眺めていた。しばらくして、衝撃から立ち直ったカレンが今しがた通ったばかりの扉を振り返り、また立ち並ぶ書架を見て、再び振り返って扉を見つめ、言った。
「思ったより、こう……広いですね」
「……ふっ、なにそれ」
“見たままを伝えました”と言わんばかりの発言に、メイベルが小さく笑った。
語彙力をどこかに落としたのか、とあなたはカレンの身を案じたが、ちゃんと自分の足で立てているようで安心した。
「だって、言葉が見つからなくて」
「気持ちは分かるわ。魔術的に空間を拡張してるんでしょうけど……見事よね」
無学極まるあなたでさえ、ある種の畏敬を覚える光景なのだ。魔術探求家を名乗るメイベルに――魔術師に与える衝撃は如何ほどか、想像することもできない。
現に、殆ど感情を露わにしないルフィナが、今はその双眸に少女のような眩い輝きを灯している。年相応の振る舞いではあるのだが、普段の彼女を多少なりとも知る身にとっては俄かに信じがたかった。
ひょっとして、かなり珍しいものを見ているのではないだろうか。呑気なあなたの思考は、カレンが激しく咳き込んだことで中断された。
背を折って苦し気に喘ぐ背を撫で、ひとまず鎮痛剤でも飲ませるかとポケットを探るあなたを、「大丈夫です」とカレンは短く制止した。そう言う口の端からは、唾液に混じって薄くなった血が流れている。
「肋骨にヒビが入っただけですから」
「大丈夫じゃないわよ。安静にしないと……」
メイベルがカレンの纏う革鎧の上から患部を触診する。シロアッフの強烈な一撃は辛うじて剣で防いだものの、全ての衝撃を受け止めるには不十分だった。革鎧を着込んでいるといえども、骨折に至らなかったのは幸運である。
「確かに折れてはないけど、明日血尿出るかも」
「ちょ……こんなとこで言わないで下さいよ」
「デリカシーないって? 賞金稼ぎなら慣れっこでしょ」
どうやらカレンはあなたとアローンに聞かれるのが気に食わないらしい。言葉の分からないアローンはいいとして、あなたも聞いたところで何とも思わないのだが。ここは“デリカシー”とやらに従って耳でも塞いでやるかと思った、その時。
『――侵入者を検知』
清潔感のあった白い照明が、一瞬で攻撃的な赤に変わる。分かりやすい警告色に続き、合成された女性の無機質な声が何処からともなく響く。
「ちょっとルフィナ!」
「別に何もしてませんが。何故私を疑うんです?」
『六名、閲覧許可無し』
空間に魔法陣が出現したかと思えば一瞬で解れ、半透明の女性的シルエットが編み上げられる。それは書架に負けないほど巨大で、遥か高みからあなたたちを睥睨していた。
『王国法に基づく物理的排除――中止』
息の詰まりそうな圧迫感は、照明が元に戻ったことであっさりと霧散した。ホログラムのような女の存在を除けば、全て元通り。独りでに何かが始まって、終わったのだ。
『閲覧許可を確認――ようこそ、王国書庫へ』
無機質なのは変わらないが、僅かに親しさを込めたような声で女が言った。瞬く間に巨体を一般的な人間と同じ大きさに縮めた女は、呆気に取られるあなたたちを前に丁寧なお辞儀を一つ。
『私は王国書庫の司書です。御用があれば何なりと』
「そうですか。では書物の無制限持ち出し許可を」
『申し訳ありませんが、現在管理下にある全ての書物は持ち出し禁止となっております。併せて申し上げますと、ルフィナ様。私はあなたとの一切の接触を禁じられています』
「ほう、つまり?」
『どうか話しかけないで下さい』
あなたが思うに、これは二年半に渡って延滞したルフィナに対する制裁処置だ。王国書庫保安部は、彼女の名を所謂ブラックリストに乗せたのだろう。
閲覧許可を出されただけでも奇跡的なのに、その上無制限持ち出し許可を求める彼女の根性にはあっぱれと言うよりほかない。
「カチンと来ましたね、殺しますか。生物なのか定かじゃありませんけど」
「バーカ、自業自得よ」
「そう言えばメイベル、あなたさっき理由もなく私を疑いましたね。まだ謝罪の言葉を聞いていませんが」
「あんたこそ、シロアッフに謝ってくれば?」
どうしてこうも魔術師連中は喧嘩っ早いのか。ここ最近、魔術師とはちょっとお上品になったレイダーなのではないかとあなたは思い始めている。もしルフィナなどがウェイスランドに行くことになれば、魔術結社と称したレイダー団を結成してもおかしくない。
「ちょっとちょっと、今は喧嘩してる場合じゃないですよ!」
「あって当然の謝罪を待っているだけです」
「はいはいすいませんでした。さて、本題に入るわよ……」
カレンの一言でどうにか場は収まった。ルフィナはまだ不満気だがそれはさておいて、そろそろ本題に取り掛からなければならない。
世界を隔てる壁を破るには何が必要で、どうすればいいのか。それを知る者はアローンだけだ。彼の言葉をあなたがメイベルとルフィナに通訳しなければならないが、残念ながら魔術は専門外。複雑な専門用語を出されると困る。
その旨をアローンに伝えると、彼は紙切れを取り出して何かを書き綴り、故障した代理演算装置と共にメイベルへ手渡した。
「生憎壊れてしまっているが、おかげで内部構造が見えるようになった。それと渡したメモで頭を捻ってくれないだろうか。幸い、数字は世界共通みたいだしね。そう伝えてくれ」
メイベルが代理演算装置を弄っていると、ルフィナが横から首を突っ込んだ。二人でああでもないこうでもないと議論を重ね、しばらくして受け取ったメモの裏に見慣れない言葉をびっしりと書き連ねると、司書に声を掛けた。
「ねぇ司書さん……で、いいのかしら。そこにいる?」
『はい、私はいつでもここにおります』
「この紙に書いた内容を含んでそうな魔術書を片っ端から持ってきて欲しいんだけど。それと、この子を休ませたい」
『はい、直ちに。あちらに椅子と机がありますので、そこでお待ちください』
司書の言葉に従い奥へと進むと、大きく開けた空間へ出た。書架に遮られて見えていなかったが、巨大な円卓と十分な数の椅子が備えられている。まずカレンを座らせて、司書が戻るのを待った。
「閲覧室とかないのかしら」
「普通の図書館ならまだしも、ここは王国書庫。一般人の利用は想定していないのでしょう」
しんとして、自分の心臓の音が聞こえそうなほど静かだった。無数の書物と隙間なく敷き詰められた絨毯が、深雪のように音を吸収しているのだ。
無駄に音を立てるのが何故か罪深く思えて、あなたはじっと静かにしていた。それほど間を置かずして、半透明の司書が音もなく戻ってくる。大量の魔術書を衛星のように従える司書は、腕の一振りで円卓に書物の山を積み上げた。
『お持ちしました』
「ありがとう。さてルフィナ、当然手伝うわよね」
「ええ勿論。生きた人間を別世界に飛ばすなんて経験、そう出来るわけじゃありませんから」
メイベルは片っ端から魔術書に眼を通し、ある物は半ばで開いて円卓に置き、ある物は閉じて端にどけてゆく。選別作業の傍らで、ルフィナが円卓に大量の数式を書き始めていた。
『ルフィナ様、落書きは止めて下さい。あなたは王国法に抵触しています』
「後で消しますよ……私の部下が」
『少しでも筆跡が残っていた場合、あなたに清掃費を請求します』
司書の当たりがやたらと強いのは、相手がルフィナだからだろうか。それともやはり、あなたが落書きを始めたら同じように怒られるのだろうかと考えた。
その間にも、高速で作業は進められていた。蝶の標本のように開かれた魔術書は円卓いっぱいに広がり、数式は最早数えるのが億劫な桁に到達している。司書が冷ややかな視線を向ける中、ルフィナが小さく声を漏らした。
「ふむ……問題が三つ」
「奇遇ね、私も同じ結論よ」
二人の視線が交差して、メイベルが話すことになったようだ。
「一つ、一応実現可能な魔術っぽいけど、この場の全員が協力しても魔力が足りない。二つ、仮に成功したとしても一人しか通れない。三つ、この魔術は一度しか使えない」
「質問は受け付けません。捕捉すると、あくまでも実現可能であって成功するとは言っていませんので」
一人しか通れない。つまり、あなたとアローンのどちらか一人だけがウェイスランドへ帰れる。肝心の不確実性よりも、その問題の方があなたの心に刺さった。
「で、どうする? どっちが戻るの」
「詳しい事情は存じませんが、決断はなるべくお早めに。シロアッフが復活するかもしれません」
重要な決断に限って、与えられる時間は少ない。あなたは今、それを身を持って実感していた。アローンと眼が合う。覚悟に満ちた、強い眼だ。必要となれば、あなたを殺してでも帰還を果たそうと、彼の碧眼が語っている。
『急かすつもりはありませんが、退館時間が迫っています』
「は? 何ですって?」
『メイベル様、あなた方に与えられた滞在時間は三十分です』
「……あと十分も無いじゃないの!」
あなたとアローンを置き去りにして、慌ただしく作業は最終段階へと突入した。明確な手段を確立しないままに、手探りの不確かな不安が心に満ちる。
『お手伝いしましょうか? 微力ながら魔力は多少備えておりますし、必要なら演算補助も可能です』
「助かるわ。詳しくはルフィナが書いた数式でよろしく」
司書が加わり、役者は揃った。メイベルがあなたを見る。
「いい? 始めるわよ」
あなたの頷きを確認して、不確実な魔術が走り出す。
空間に描かれた途方もなく大きな魔法陣の中に、更に魔法陣が組み込まれる。数えきれないほどの処理を組み上げ、無限の入れ子構造が次元を歪め、周囲の空間を巻き込んだ。
空気は極彩色に染まり、オーロラを吐き出し、盛大な火花を上げた。世界と世界が擦れ合った結果のスパークだ。歪みは際限なく大きくなり、やがて弾けた。
一瞬の吸い込まれるような感覚の後、猛烈な突風があなたを襲った。肌身離さず携行していたガイガーカウンターが懐かしく、不吉なノイズを奏でる。
雪と灰が混じった、冷たい死の気配。
ウェイスランドの風が吹いている。
空間に開いた大穴の向こうに、あなたは故郷を見た。




