第五話
(逃げないと)
グラシアがまず考えたのは、その場から離れることだった。アズーロのことも、アズーロが一方的に言いつけてきた約束も、グラシアの頭の中からすっかり消えさっていた。
リモンシェラ子爵代筆の「うちの娘はそちらの息子には興味がないので放っておいてください」文は滞りなくシャノン侯爵に渡り、双方の関係に波風を立てることなく受理された。なにか言われるか食い下がられるか陰口を叩かれ評判が悪くなるかと身構えていたが呆気ないほどになにもなかった。グラシアは肩の荷が降りた、とほっとしたものである。
だが次第に、グラシアはふとした瞬間にウィルフレッドのことを考えるようになっていく。すっかり忘れてしまっても問題ないはずなのに、むしろ忘れまいとするかのように、頭に浮かぶのだ。
グラシアの一番大切な妹の相手として認めてもいい、というのは、最大級の褒め言葉。
侯爵家子息との見合い、結婚話がなくなった結果、ウィルフレッドというひとりの人間としての彼がグラシアの中に興味の対象として、仲良くなりたい相手として残ってしまったのだった。無自覚だったそれに気がついてしまったグラシアは、自分自身を嫌悪せずにはいられなかった。侯爵家の子息への、または侯爵家への興味ならいい。豊かな侯爵家とつながりを持つのはリモンシェラ子爵領に益をもたらすであろうから。だが、グラシアの中に芽生えたそれは、淡いその思いの向かう先は、自分の揺るぎない信念である”子爵領を豊かにする”こととは同一ではないのだった。
参加者の多い王宮のパーティでウィルフレッドと目が合うなんてことは考えていなかった。いや考えないふりをしていた。人相書きも、ウィルフレッドの調査資料もすべて燃やした。目につく所にウィルフレッドのものがなければ、そうして、以前のように、”無難な貴族の次男か三男を婿にとろう”と強く思い込めば、彼のことはゆっくりゆっくり忘れられる、忘れられなくとも薄れていくと思っていた。シェイラのことが何よりも大切。当然、自分よりも。そう、胸を張って言い切れる自身がある。
(それなのに、それなのに)
姿を見せるなんて反則だ。
無我夢中で足を動かしていたグラシアは、名を呼ばれて立ち止まった。振り返れば去年仲良く話をさせていただいた老夫婦が微笑んでいる。
「ごきげんよう、グラシアさん」
「お久しぶりです。リトーウェン伯、リトーウェン夫人」
「本当に、お久しぶりですこと。お元気そうね」
「はい。おかげさまで」
足を止めることに躊躇しなかったとはいわない。しかし、よくよく考えてみれば、一瞬目が合っただけ。ウィルフレッドが自分のことを追いかけてきている、なんてことはありえない。思いがけなく、監視の目からも遠く離れてしまったのだから、もうきっと何をしたって従兄弟から文句を言われるのは間違いがない。であれば、このまま、自分の好きなように、好きなことをしたほうが有意義だとグラシアは思った。
リトーウェン夫妻とは半刻ほど、たわいのない話をして過ごした。グラシアは社交界の時期を除けばほとんど大勢の人の前に姿を現すことはない。ほとんどの時間をティバーに教わりながらリモンシェラ子爵領の政務を執ることに費やし、暇があれば書物とにらめっこするか、お忍びで街へ出て何か変わったことや問題がないかを気にしつつ散策するか、といったところである。その生活に不満はなく、むしろ喜びを覚えているグラシアであったが、穏やかで優しいリトーウェン夫妻のような心安らぐ人たちと過ごす時間も大切に思っている。とはいえ、王都で流行っている演劇の情報よりも、リトーウェン伯爵領の今年の農作物の生産量のほうが興味があったりはするのだが。夫人からの「今度わたくしたちの王都の屋敷でティーパーティを開くの。招待状を送るのでよかったらいらしてね」というお誘いに笑顔で頷き、二人とは別れた。
もうすぐ会場に流れる曲の曲調が変わる。アップテンポで明るく華やかな曲からゆったりとした静かで美しい曲へと。「もう若い時のようには踊れないけれど、ダンスを踊るのが大好きなの」と可愛らしい笑顔を浮かべたリトーウェン夫人は、夫の腕を取り、会場の中央へと進んでいくのだろう。
少しの間テーブルに盛りつけられている食べ物やワインに口をつけていたグラシアであったが、そろそろ帰り支度を始める者もではじめており、何かを始める時間はない。短い逃亡劇であったが、従兄弟の元へと戻ろうかと考えた時だった。
「グラシア嬢」
後ろから、自分を呼ぶ声がした。
初めて聞く声。だが、グラシアの第六感ともいえる部分が、即座に相手の名前を導きだす。ウィルフレッドだ、と。
声をかけられてしまえば、逃げることなんてできない。
ゆっくりと振り返ると、予想通り、ウィルフレッドが自分を真っすぐに見つめていた。
そうして、
「ダンスのお相手を、お願いできますか?」
手を差しだされる。手をとらなければならないことを理性は理解しているが、相手が相手なだけに、どうしても躊躇してしまう。
(諦めない、ということかしら。いいえ、そんなはずはないわ。わたしはどう考えても相手のプライドを傷つける行為をしたのだもの)
自分に都合のいい解釈に、苦笑がこぼれる。あくまで、心の中で、だ。ダンスを申し込まれているこの状況で、表情を崩すなどということは、貴族の子女として許されることではない。
ウィルフレッドも待たされているというのに、絵に描いたような好青年の笑みは崩れない。当然ではあるのだが、女性からダンスを常に申し込まれている彼が、ダンスを申し込み、返事を待たされる状況というのはめったにないだろう。それなのに、身じろぎ一つせずじっとグラシアの行動を待ってくれている。勘違いしたってしょうがないじゃないか、と、煩いくらいに早鐘を打つ心臓を抑えるために一呼吸すると、自分の手をウィルフレッドの手にあわせた。
ちょうど狙ったようなタイミングで会場の曲が切り替わる。よく動くため、自分の足下、周りの動き、相手の動きなどあちこちに気を配らなければならないアップテンポな曲とは異なり、ゆったりとした曲は、相手の動きのみに気をつけていればいい。相手の男性がダンスに慣れているのであれば、女性は基本的なステップを踏みさえすれば他はすべて相手に任せてしまっても問題ない。密着度が高いため、初対面の相手よりは、パートナーや友人と踊る方が多く、あちこちで楽しそうな話し声が聞こえる。グラシアにとっては最悪なタイミングとしか言いようがなかった。
手袋越しだというのに、繋いでいる手、背中にまわされている手のかすかな温もりに意識を持っていかれてしまう。ウィルフレッドの目を見ることができず、失礼と知りながら、襟元ばかりを見つめていた。
初めは気持ちの余裕などないグラシアであったが、ウィルフレッドのリードが大変上手で安定しており、必要以上に近づいきたり話しかけてこないことがわかると、一曲の半分に差し掛かる頃には、ずいぶん気持ちは落ち着いてきていた。だがそうなると、ちらちらとこちらを見ている目が視界に入るようになってくる。周りのパーティー参加者は、見合いを申し込んだ相手がシェイラではないと知った時点で興味は下がったであろうが、子爵家が侯爵家の見合いを断るというあまりない事態に、無視を決め込むことはできないようだ。
「周りの目が気になりますか?」
「い、いいえ」
小声での問いかけに、否定の意を示した。その他大勢の視線など簡単に振り払ってしまえるグラシアである。グラシアが戸惑ったのは、好奇の視線ではなく、ウィルフレッドへの罪悪感である。どんな理由を並べ立てたとしても自分の行ったことは、ただの我がままなのだ。我がままで相手、しかも目上の相手に迷惑をかけ、いかほどかはわからないが傷つけたということは、一生忘れることはできない。
「なら、よかった。ああ、わたしは少しも気にしていませんから」
噂も、噂の内容も。そう囁かれ、グラシアは見ないように見ないようにとしていたウィルフレッドの顔を見上げてしまう。ウィルフレッドは目が合った一瞬、笑みを深くしたが、それ以外は会話をする前と後で何も変わりはしなかった。ステップが乱れることはなく、まるでお手本のようにきちんととられた二人の距離も詰められることはない。グラシアの方は、上げた顔を下げることができず、頬を染めることがないようにだけ気をつけながら、なんとか一曲を踊りきった。
「リモンシェラ子爵に、『シャノン領で生産したワインの買い取りを依頼する文を送りました。良い返事を待っております』とお伝えください」
ウィルフレッドは繋いだ手をそのまま自然な所作で身体の前に持ってくると、手の甲に口づけるように頭を下げた。そうして、リモンシェラ子爵への言付けを告げたのだった。