その1 『歯磨きをしないと』
私は地面に座り込んで、草をちぎりながら考えていました。ここはどこなんだろう、ということをです。
目の前に広がる景色は、新鮮で綺麗なものでした。放課後にたまに寄る河原よりもずいぶん広い、向こうに何も見えないくらいの原っぱ。
すごく遠くに、使いかけの消しゴムみたいな、山らしい何かがあります。『果てしない』という言葉を使うときがきたようです。
少し先にピンク色の何かが飛び跳ねていて、あれはきっと、うさぎさんです。何匹かが一緒になってお散歩をしています。
しばらく見つめていても、こちらには気づかない様子でお散歩を続けます。少しずつ距離が離れていきました。
空にはオレンジの太陽が激しめに光っています。いつもならちょうど給食を食べているときくらいの空の様子。汗が流れるほどの暑さではなくて、風もそこそこ吹いているから、快適な場所でした。
少なくとも、男子たちが騒がしい教室よりはね。
平和な夢だな、なんて考えていたのは、ここへ来てすぐの間だけでした。何にも考えずに、ただただ暇つぶしに景色を使っていて……。
しばらく座り込んでいるとだんだん頭が冴えてきて、いまようやく色々なことに気づき始めたのです。
向こうに見える動物はうさぎさんだと思っていたけれど、そういえばピンク色の子は物語の中でしか見たことがありません。本物を一度だけ見たことがあるけれど、割と茶色で驚いたことを覚えています。
それに、太陽だってオレンジなはずがなくて。目を瞑って想像してもこれといった色はなくて、眩しい白色の太陽を思い浮かべられます。いま見えているあれは、やっぱりいつもと違うみたい。
どうやらここは私に馴染みのある場所ではなさそうだぞ、そう思い始めていました。
少なくとも家の近所ではなくて、もしかすると日本でもないのかもしれない。目が覚める前のことを考えても、ここにいる原因に心当たりはありません。
強いていえば、こっそりお菓子を食べては、歯磨きをせずにそのまま寝たことくらいです。
間違いなくベッドで寝たのだから、原っぱで起きることなんてありえません。運ばれたのなら、少し自信はないけれど、目が覚めるはずです。
自分の格好を見直しても、おかしな場所は見当たらない。お気に入りのパジャマを着ているだけでした。
そうすると夢を見ているということになりそうですが、これが夢じゃないということは自信を持って言えました。なぜなら、宿題のことを考えられるから。
夢というのは、毎日が大変なみんなの為のご褒美なのだと聞いたことがあります。たまにはいい思いをさせてやろうという、神様の優しさらしいのです。楽しんでもらうことが目的なら、宿題なんてすっかり忘れさせてくれるはず、というわけ。
私がいま「宿題から解放されたぞ」なんて考えている時点で、これが夢じゃないことを説明できちゃうのです。
ということはこれは、神様が気まぐれで旅行させてくれている、ということでしょうか。
そりゃあたしかにお出かけは好きですが、せめて予告くらいは欲しいところ。どのくらいの時間ここに居ていいのかも、なんにも教えてもらってないんだから。
ということで、いつ帰っちゃうのかわからない今、贅沢に時間を使うことにしました。時間を余計に使うことだって、ときには大事だから。
はじめての公園に来たみたいな気持ちで──遊具も何もないけれど──もう一度、周りを見渡しました。
お腹が鳴ってはじめて、そういえばご飯が欲しかったことを思い出します。
ちょうど今ちぎった雑草は捨てて、遠くに見えるうさぎさん(みたいな)動物を追いかけることにしました。まさかあの子たちを食べるわけじゃないけれど、ずっと座り込んでちゃ、いつまで経っても変わらないから。それに、どんな顔をしているのかも近くで見たくて。
「待てえい」
もうすぐ追いつきそうだぞ、というくらいの近さになると、あの子たちははっとしてこちらを見ます。目が合うと鳴かれて、ちょっとだけ悲しい。そのまますごい勢いで逃げられるものだから、もっと悲しい。
「足が、早いわ!」
そりゃあ私は、運動会のときに厄介者扱いをされるくらいには足が遅いけれど、それにしてもあの子たちの足が早さには参ります。さっきまでのお散歩が遊びだったことがよくわかるように、あっという間に遠くへ行ってしまいました。
この辺りには背の高い植物はないし、地面もあんまりでこぼこしていません。どれだけ離れても、小さく姿は見えました。どんどん小さくなっていくだけで、手は届きません。
気づけば、さっき雑草をちぎっていたところから、かなり離れていました。息があがって、喉が乾きます。でも水筒なんか持っていないし、川も見当たりません。
空は雲一つなく、雨が降るようすでもありません。どうしたものか……。
私はほどよく柔らかい地面を探して、とりあえず座ります。
なんてこった、喉が乾いただけです。お腹も空いているというのに。
「かみさまあ……はっ」
もし、この旅行が神様の仕業なのだとしたら、このまま一人にさせるはずはないではありませんか。
ある日突然、一人で別の場所に行っちゃうだなんて、さらに腹ぺこで死にそうだなんて──それってとっても恐ろしいことじゃない? そんな罰を受けるほど、私は悪い子ではありません。
歯磨きをしないで寝たのは、とってもというほど悪いことではないはずですし。
そんなことを考えていると、だんだん甘い匂いがしてきます。ほらやっぱり、神様は意地悪をしないんだ。
ただ、見渡してもどこからそれが来ているのかがわかりません。匂いは強くなっていくのに、何も見えない。そしてすぐ目の前にあるみたいに、甘さに包まれたときでした。
「あままぁ……あままぁ……」
「きゃあ!」
私のすぐ足元の地面から、のそのそと何かが出てきたのです。
茶色のボールのような、生き物に見えないそれ。たったいま生まれてきたみたいに、ちょっとずつ声を大きくして、頑張って出てきます。
「あままぁ……あままぁ……」
なんだか足が引っかかっているみたいだけれど、こちらに手を伸ばしてきて必死です。
私は目を話さないまま、後ろに進みます。ようやく地面から抜け出してきたのは、茶色でまん丸の身体に、手足だけが生えたモンスター。
顔がありそうな場所には、小さな穴が三つ、ボウリング玉みたいに空いています。かなり不気味。夢でさえ見たことのない変な見た目です。
いきなり襲ってくることがなくて良かった。私は怖くなって、ようやく背中を向けました。一歩目は転んで、まずは手が汚れました。パジャマのおかげで膝は擦りむきません。
まだ空が明るいおかげで、それにモンスターが一人だけなこともあって、なんとか逃げることに集中できました。喉が痛くなりながら、腕を大きく振ります。先生が言っていました。走るときは腕を大きく振るといいって。
「はあ、はあ」
そろそろ良いんじゃ、と振り返ると、モンスターの姿はきれいに無くなっていました。よかった、逃げ切れた。
安心したはいいものの、全く見えないことがおかしいことに気づきます。隠れる場所なんてないはずなのに──。
「あままぁ!」
目の前、目が触れちゃうくらい近くに、突然それは現れました。地面に隠れて追いかけていたんだ。声を出すよりまず、手が突き出ました。茶色のそれは、跳ね飛ばされて転がっていきます。甘い匂いは離れません。
変な着地をしたのか、モンスターは痛そうに苦しんでいます。
「こうげき、しなきゃっ!」
どうしたらいいのかわからなくて、とにかく雑草やらを投げつけます。でも全然効かなくて、土を投げたりもしました。やっぱり意味はないみたい。
モンスターはまさに起き上がろうとしています。どうしよう、どうしよう……。
すると、少し離れた場所に、とげとげした植物を見つけました。花びらが白色の髪の毛みたいになっていて、まるで、歯ブラシみたいな。
走ってそれを手を伸ばしては、抜き取ります。根っこは意外と短くて、簡単に採れました。投げつけようとして、腕から一滴、血が垂れているのを見ました。きっと花びらに触れて切れたんだ。これなら効くかもしれない。
「いけええ!」
歯ブラシ花は、まるで槍みたいにまっすぐ飛んで、モンスターへと向かっていきます。そして穴のうちの一つ、口のありそうな場所を通って、身体に入りました。
その瞬間です。救急車のサイレンと同じくらいに大きな声で、それは叫んで、
「あままぁあ!」
さらに膨らんで、爆発しました。何かが飛んでくるようなことはありませんでした。風船が割れたみたいに、ただ破裂しました。
「ああ……」
よかった、倒したんだ。足は震えているけれど、身体が勝手に動きます。モンスターがいた場所に歩いていました。甘い匂いが強くなって、地面に残るそれを見ました。
さっき投げつけた歯ブラシの花──だと思ったのに、そこにあったのは、意外な匂いの正体でした。
「……チョコレート?」
見慣れた赤色のパッケージ。私の大好きな板チョコだったのです。




