第9話 私の雨は、愛するこの国と私のためのものです
ジュリアス殿下を追い出してから、数時間が経ちました。
空は深い橙色に染まり、夕暮れの風が特区の畑を吹き抜けていきます。
私は少しざわつく心を落ち着かせるため、夕食用の野菜を収穫しに裏の畑へ出ていました。
さすがにあそこまではっきりと拒絶したのです。
王太子としての矜持があれば、己の無礼を恥じて国へ帰るはず。
私はそう信じ、丸々と太ったキャベツの根本にナイフを入れようとしました。
その時です。
「そこだ! その女を捕らえろ! 邪魔する者は切り捨てて構わん!」
畑の向こう側から、耳障りな声が響きました。
私は驚いて立ち上がりました。
夕闇の中、十数人の武装した男たちが、土足でズカズカと畑に踏み込んでくるのが見えました。
先頭で剣を振りかざしているのは、ジュリアス殿下です。
「殿下……! 何をされているのですか!」
私は声を張り上げました。
彼らは私が手塩にかけて育てた畝を無惨に踏み荒らし、実ったばかりのトマトや豆の苗をブーツで蹴り飛ばしながら近づいてきます。
「大人しく戻れと言っただろう! お前が意地を張るから、こうして力ずくで連れて帰ってやらねばならなくなったのだ!」
ジュリアス殿下は悪びれる様子もなく、私の畑を蹂躙し続けます。
無惨に潰されたトマトの赤い汁が、土に染み込んでいくのが見えました。
「やめてください! それは、村の皆さんが必死に育てた大切な野菜です!」
「たかが泥にまみれた草だろう! 王国の水不足に比べればゴミのようなものだ!」
ブチッ、と。
私の中で、何かが千切れる音がしました。
悲しみではありません。
恐怖でもありません。
それは、私自身も初めて経験する、激しい『怒り』でした。
太陽の光を浴び、水を与え、私がこの手で大切に育ててきた命。
私に「美味しい」という幸福を教えてくれた、この国の宝。
それを、自分の見栄と保身のためにゴミと呼んだ。
許せない。
絶対に、許してなるものか。
「……私の畑から、出ていきなさい」
地を這うような声が、自分の口から出ました。
「ははっ、女一人が何を強がって……」
ジュリアス殿下が嘲笑った瞬間。
ピカッ! ドドォォォォンッ!!
空が真昼のように閃光で白く染まり、耳を劈くような雷鳴が轟きました。
「な、なんだ!?」
私を中心に、空が瞬く間に漆黒の雲に覆われました。
悲しみの小雨でも、喜びの天気雨でもありません。
それは、私の『怒り』をそのまま形にしたような、猛烈な豪雨と落雷でした。
ザァァァァァァッ!!
バケツをひっくり返したどころではない、滝のような雨が私兵たちを直撃します。
足元の土はあっという間に濁流へと変わり、男たちは膝まで泥水に浸かって動けなくなりました。
「ひぃっ!? なんだこの雨は!」
「前が見えねえ!」
ジュリアス殿下たちがパニックに陥り、剣を取り落とします。
「私の居場所を、私の大切なものを、これ以上荒らすことは許しません!」
私が叫ぶと同時に、雷が彼らのすぐ傍の地面に落ちました。
バリバリと土が弾け飛び、男たちが悲鳴を上げて尻餅をつきます。
「撤退だ! 逃げろ!」
ジュリアス殿下が泥水の中で這いつくばりながら叫びました。
しかし、私が生み出した局地的な鉄砲水は、彼らを容赦なく飲み込みました。
泥水は波となって彼らを押し流し、特区の敷地外、国境の方向へと一気に押し流していきます。
遠ざかる彼らの無様な悲鳴は、すぐに激しい雨音にかき消されました。
「クロエ!!」
背後から強い力で腕を引かれ、私は硬い胸に抱きとめられました。
レオンハルト陛下でした。
彼は雨に打たれながら、私を庇うように抱きしめています。
「怪我はないか!」
「……はい」
彼に抱きしめられた途端、私の中で荒れ狂っていた怒りの炎が、すっと鎮まっていきました。
空を覆っていた黒雲が晴れ、夕暮れの光が再び畑を照らし出します。
「よくやった、クロエ」
レオンハルト陛下は私を離し、押し流されていったジュリアス殿下の方角を冷たく睨みつけました。
「他国の王妃候補の領地に武装して踏み込むとはな。ローゼン国とは、これで正式に国交断絶だ。奴らが干ばつでどうなろうと、もう我が国は一切関知しない」
彼の言葉に、私は深く頷きました。
もう、ローゼン国に未練は欠片もありません。
私は自分の足元を見下ろしました。
一部の作物は踏み荒らされてしまいましたが、激しい雨を吸い込んだ土は、力強く黒々と輝いています。
私の怒りの雨すらも、この大地は受け止めてくれたのです。
「陛下」
私は顔を上げ、彼を見つめました。
「私の雨は、愛するこの国と、私の大切なものを守るためのものです。もう二度と、誰かに奪わせたりはしません」
レオンハルト陛下は少し驚いたように目を見開き、やがて、誇らしげに微笑みました。
「ああ。君の雨も君自身も、俺がこの命に代えても守り抜く」
悪縁は完全に断ち切られました。
泥だらけの畑の真ん中で、私たちは手を取り合い、静かに笑い合いました。




