第8話 今さら水が足りないと言われても困ります
「クロエ! いるのだろう、顔を出したまえ!」
穏やかな昼下がり。
特区の屋敷の玄関ホールに、聞き覚えのある傲慢な声が響き渡りました。
私はリビングでお茶を飲んでいましたが、その声に思わずカップを置きました。
心臓が嫌な音を立てて跳ねます。
扉が乱暴に開かれ、ずかずかと踏み込んできたのは、金髪の青年でした。
豪奢な白い礼服は土埃で汚れ、かつての整った顔立ちは焦燥で酷くやつれています。
私を追放した元婚約者、ジュリアス殿下でした。
「殿下……なぜ、ここに」
私はソファから立ち上がりました。
「迎えに来てやったぞ、クロエ!」
彼は私を見るなり、恩着せがましい笑みを浮かべました。
「君がこの国で惨めな生活を送っていると聞いてな。わざわざ私直々に迎えに来てやったのだ。喜べ」
惨めな生活?
私は自分の麻のワンピースを見下ろしました。
確かに高価な絹ではありませんが、清潔で動きやすく、私はとても気に入っています。
それに、毎日美味しいご飯を食べ、心から笑える生活が惨めなはずがありません。
「君が国を去ってから、ローゼン国では一滴も雨が降っていない。川は干上がり、作物は枯れ果てた。すべては君の呪いのせいだ!」
彼は鼻息を荒くして、私を指差しました。
「だが、慈悲深い私は君を許してやろう。今すぐ王都へ戻り、雨を降らせろ。そうすれば、追放の命を取り消し、ミアの下働きとして王宮に置いてやってもいいぞ」
私はぽかんと口を開けました。
彼は何を言っているのでしょうか。
私を「陰気な雨女だ」「商売の邪魔だ」と罵倒して追放したのは彼です。
それなのに、今度は水が足りないから戻ってこいと言う。
しかも、自分の落ち度を私の『呪い』のせいにして。
かつての私なら、彼の剣幕に怯え、泣いて雨を降らせていたかもしれません。
王太子の命令には絶対に従わなければならないと、自分を押し殺していたでしょう。
しかし、今の私は違います。
「おい、聞いているのか! さっさと荷物をまとめろ!」
彼が苛立たしげに声を荒らげた時、リビングの奥から大きな足音が近づいてきました。
「俺の婚約者に、気安く命令しないでくれないか」
低い、地を這うような声でした。
レオンハルト陛下が、静かな怒りを纏って私の隣に立ちました。
彼の大きな手が、私の肩をそっと抱き寄せます。
「こ、婚約者だと!?」
ジュリアス殿下は目を剥きました。
レオンハルト陛下の泥のついたシャツと、鋭い金色の瞳を交互に見比べます。
「貴様は誰だ! 私はローゼン国の王太子だぞ! こんな泥だらけの農夫風情が、公爵令嬢に気安く触れるな!」
「俺はアグリア国国王、レオンハルトだ。そして彼女は、我が国の次期王妃だ」
レオンハルト陛下の言葉に、ジュリアス殿下は息を呑んで後ずさりました。
しかし、すぐに顔を真っ赤にして怒鳴り散らしました。
「馬鹿な! こんな呪われた女を王妃にするだと!? 騙されているぞ、アグリア王! この女はすぐに泣いて天候を荒らす、忌まわしい化け物だ!」
「黙れ」
レオンハルト陛下の声が、空気を凍らせました。
しかし、彼が前に出るより早く、私は自らの意志で一歩前に出ました。
「陛下、少しお待ちください。これは、私の問題です」
私はレオンハルト陛下を制し、ジュリアス殿下を真っ直ぐに見据えました。
もう、怯える必要はありません。
私の言葉で、はっきりと伝えるのです。
「ジュリアス殿下。私を『陰気な雨女』として追放したのはあなたです。今さら水が足りないと言われても、私には関係のないことです」
「な、なんだと……!」
「私はこの国で、泥だらけになって働く喜びを知りました。美味しいご飯を食べて、心から笑えるようになりました。私の雨は、この国を潤す恵みだと喜んでいただきました」
私は背筋を伸ばし、はっきりと告げました。
「私はローゼン国には戻りません。お断りいたします」
ジュリアス殿下の顔が、怒りでどす黒く染まりました。
「この、生意気な女がぁっ!」
彼が振り上げた手が、私に向かって伸びてきました。
しかし、その手が私に届くことはありませんでした。
ガシッ!
レオンハルト陛下が、ジュリアス殿下の腕を片手で軽々と掴み上げました。
「ぐあっ……! は、離せ!」
「俺の愛する女性に、その汚い手を触れるな」
レオンハルト陛下は冷たく言い放ち、ジュリアス殿下の体を軽くひねって背を向けさせると、そのまま襟首を掴んで玄関へと引きずっていきました。
「放せ! 私は王太子だぞ! こんな扱いをしてただで済むと……!」
「他国の王妃候補に暴力を振るおうとした男に、かける情けはない。二度とこの国に足を踏み入れるな」
ドンッ!
容赦なく扉の外へ放り出される音が響きました。
魔法など使わずとも、レオンハルト陛下の物理的な腕力だけで十分でした。
屋敷に静寂が戻りました。
私は大きく息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜きました。
「大丈夫か、クロエ」
戻ってきたレオンハルト陛下が、心配そうに私の顔を覗き込みました。
私は彼を見上げ、今度こそ、心からの笑顔を向けました。
「はい。全く問題ありません」
過去のトラウマは、完全に消え去りました。
私は自分の足で立ち、自分の言葉で、大切なこの居場所を守り抜いたのです。




