第4話 思い切り泣いていい国で、初めての土いじり
アグリア王国の首都近郊にある農業特区。
そこは、私のような外国人を滞在させるための簡素な屋敷と、見渡す限りの広大な畑が広がる場所でした。
青々とした葉を広げるキャベツ。
ツルを力強く伸ばす豆の苗。
土の香りと草の匂いが混ざり合った風が、心地よく吹き抜けていきます。
私は与えられた客室の窓から、農夫たちが働く姿をじっと見つめていました。
屋敷に案内された際、レオンハルト陛下は私に言いました。
『君はこの国の恩人だ。好きなだけここでくつろいでくれ。何もしなくていい』
彼は私に、美しいドレスではなく、動きやすい麻のワンピースを用意してくれました。
しかし、私は落ち着きませんでした。
祖国ローゼンでは、常に完璧な公爵令嬢としての振る舞いが求められました。
役に立たない者は容赦なく切り捨てられる。
「何もしない」という状態は、私にとって恐怖でしかありませんでした。
何より、私はあの村で温かいスープをいただきました。
その恩返しをしたいのです。
私は窓から離れ、麻のワンピースの裾を少しだけ持ち上げました。
足元は、歩きやすい革靴です。
私は深呼吸をして、屋敷の裏手にある畑へと向かいました。
「あの、私にも手伝わせてください」
畝の間にしゃがみ込み、雑草を抜いていた年配の農夫に声をかけました。
農夫は驚いたように顔を上げ、私の身なりをじろじろと見ました。
「お客人かい? ここは泥だらけになるし、日差しも強い。お嬢さんがやるような仕事じゃないよ」
「お願いします。少しでも、役に立ちたいのです」
私は頭を下げました。
農夫は困ったように頭を掻き、やがて小さくため息をつきました。
「……なら、そこの畝の草むしりでも頼むか。作物の根を傷つけないようにな」
私は頷き、農夫に教えられた通りに土の上にしゃがみ込みました。
両手で雑草の根元を掴み、力を込めて引き抜きます。
ブチッ。
草は途中でちぎれ、私の手には土がべったりと付きました。
爪の間にも黒い泥が入り込みます。
公爵令嬢の教育では、決して経験することのない感触でした。
私は黙々と作業を続けました。
太陽が容赦なく照りつけ、額から汗が流れ落ちます。
しゃがんだ姿勢はすぐに腰を痛くさせ、手首はだるくなりました。
それでも、私は雑草を抜き続けました。
自分の手で土に触れ、作物を守る。
その確かな手応えが、少しだけ私の心を落ち着かせてくれました。
「……あ」
立ち上がろうとした時でした。
麻痺したように足が痺れており、私はバランスを崩しました。
ドサッ。
私は無様に尻餅をつき、泥だらけの畝の間に倒れ込んでしまいました。
ワンピースは泥で汚れ、髪にも土がこびりつきました。
「痛っ……」
擦りむいた手のひらから、じんわりと血が滲んでいます。
私は慌てて立ち上がろうとしましたが、足がもつれて再び土に顔を突っ込んでしまいました。
情けない。
ただ草をむしるだけのことすら、まともにできないなんて。
公爵令嬢として完璧に振る舞えなかったから追放されたのに。
ここでも私は、不器用で役に立たない人間のままです。
悔しさが、胸の奥から込み上げてきました。
私は自分のダメなところを隠そうと、必死に感情を押し殺してきました。
でも、もう我慢できません。
ポタッ。
手の甲に、温かい雫が落ちました。
私は下唇を強く噛み、泥だらけの顔を覆って泣き出しました。
ザァァァァッ。
空から、局地的な雨が降り始めました。
私を中心とした半径数メートルの範囲だけ、バケツをひっくり返したような激しい雨です。
私の悔しさに呼応した雨が、私の体を打ち付けます。
「おいおい、また降らせたのか」
背後から、呆れたような声が聞こえました。
私はビクッと肩を震わせ、振り返りました。
そこには、視察に来ていたらしいレオンハルト陛下が立っていました。
彼もまた、私の雨の範囲に入り、肩口を濡らしています。
「申し訳ございません! 私、また失敗をして……」
私は泥だらけの手で顔を覆い、しゃくり上げながら謝りました。
こんな無様な姿を見せたら、呆れられてしまう。
居場所を失ってしまう。
しかし、レオンハルト陛下は怒りませんでした。
彼は大股で近づいてくると、私の前にしゃがみ込みました。
「泣くほど悔しかったか」
彼は大きな手で、私の髪に付いた泥を無造作に払い落としました。
その手つきは、少し乱暴ですが、とても温かいものでした。
「失敗くらい、誰でもする。俺だって、初めて鍬を持った時は足の指を切り落としかけたぞ」
彼は楽しそうに笑い、私の泥だらけの頬を指の背でそっと拭いました。
「それに、君の雨のおかげで、この畑はまた潤った。結果オーライだ」
「……結果、オーライ?」
「ああ。失敗して泣けば雨が降る。この国にとって、それほどありがたいことはない。だから、君は好きなだけ失敗して、好きなだけ泣けばいい」
彼は私の手を取り、立たせてくれました。
完璧でなくてもいい。
失敗して泥だらけになっても、呆れられることはない。
私の感情の高ぶりは、ここでは「恵み」として全肯定される。
張り詰めていた心の糸が、するりと解けていくのを感じました。
「……ありがとうございます」
私は、まだ少ししゃくり上げながら、小さく笑いました。
私の上に降っていた雨は、いつの間にか穏やかな小雨に変わっていました。




