第3話 泥だらけの王様と、涙の塩気より美味しいスープ
村に雨を降らせてから数時間が経ちました。
空は薄暗い茜色に染まっています。
雨はすでに上がり、土の湿った匂いが心地よく漂っていました。
村の広場には焚き火がいくつも焚かれ、パチパチとはぜる心地よい音が響いています。
私は村長に案内され、広場の中央にある丸太の椅子に座らされていました。
周囲には、明るい笑顔を取り戻した村人たちが集まっています。
彼らは私を「女神様」と呼び、大切に取っておいたという木の実や乾肉を持ち寄ってくれました。
その時、広場の入り口から騒々しい足音が聞こえました。
「おい! この村に雨が降ったというのは本当か!」
野太い声とともに、一人の青年が大股で歩いてきました。
私は目を丸くしました。
青年の背は高く、肩幅も広くてがっしりとしています。
金色の短い髪は汗で額に張り付いていました。
何より驚いたのは、その服装です。
彼が着ている麻のシャツとズボンには、赤茶けた泥がべったりとこびりついていました。
顔にも泥が跳ね、大きな手は土で真っ黒に汚れています。
過酷な肉体労働を終えたばかりの農夫にしか見えません。
「おお、陛下! よくぞおいでくだすった!」
村長が慌てて立ち上がり、深々と頭を下げました。
他の村人たちも一斉に膝をつきます。
陛下。
その言葉が耳に届き、私は息を呑みました。
彼が、アグリア国の国王なのですか。
私の知る王族とは、豪華な絹の礼服を着て、宝石を身につけ、香水の香りを漂わせる存在です。
祖国のジュリアス殿下は、靴の先に少し泥が跳ねただけで激怒していました。
泥だらけで汗の匂いをさせる王族など、見たことがありません。
「頭を上げてくれ。それより、雨を降らせたというのは……」
青年の鋭い金色の瞳が、広場を見渡しました。
そして、焚き火のそばに座る私を真っ直ぐに捕らえます。
「君か」
彼はズカズカと私に近づいてきました。
その圧倒的な存在感に、私は思わず後ずさりました。
心臓が早鐘のように鳴り始めます。
王族です。
私の「雨」を異端の力とみなし、不気味だと蔑んだ者たちと同じ身分です。
この泥だらけの王様も、事情を知れば私を糾弾するに違いありません。
村の天候を勝手に変えた不審者として、捕らえられるかもしれません。
「も、申し訳ございません!」
私は立ち上がり、咄嗟に頭を下げました。
足元にあった自分のトランクを両手で強く握りしめます。
「私はローゼン国を追放された身です。勝手に雨を降らせてしまい、大変失礼いたしました。今すぐこの村から立ち去ります」
早口で言い終え、私は彼に背を向けようとしました。
これ以上、誰かに蔑まれる前に逃げ出したかったのです。
ガシッ。
私の右手首が、強い力で掴まれました。
驚いて振り返ると、泥だらけの大きな手が私の腕をしっかりとホールドしています。
「逃げるな」
低く、落ち着いた声でした。
「俺はレオンハルト・ヴァン・アグリア。この国の王だ。君を責めるつもりなど毛頭ない」
レオンハルト陛下は、私の目をじっと見つめました。
その瞳には怒りも軽蔑もありません。
ただ、真剣な熱が宿っていました。
「君の雨が、この村を救った。干上がった川に水が戻り、枯れかけた作物が息を吹き返したんだ。感謝こそすれ、追い出す理由がどこにある」
私は言葉を失いました。
彼の手から、熱い体温が伝わってきます。
私の力は、感謝されるようなものなのでしょうか。
「さあ、座ってくれ。客人をもてなすのがこの国の流儀だ」
彼は私の手を離し、隣の丸太にどっかりと腰を下ろしました。
私は躊躇しました。
ここで彼から逃げることもできます。
でも、彼の真っ直ぐな言葉には、私を引き留める確かな誠実さがありました。
私は自分の意志で、再び丸太の椅子に座ることを選びました。
「お嬢さん、温かいスープができたよ。さあ、食べておくれ」
村の女性が、湯気を立てる木のお椀を運んできました。
お椀を受け取ると、ふんわりと野菜の甘い香りが漂いました。
澄んだスープの中には、細かく刻まれたカブやニンジンがたっぷりと入っています。
干ばつのため、形が悪くひび割れた野菜たちです。
木のスプーンですくい、ゆっくりと口に運びました。
「あ……」
口の中に、野菜の濃厚な旨味が広がりました。
少しの塩だけで味付けされた、素朴なスープです。
でも、太陽の光を浴び、村人たちが必死に守り抜いた野菜の味が、優しく胃袋に染み渡っていきました。
美味しい。
王宮で食べていた複雑なソースのかかった肉料理よりも、ずっと。
「美味しいです」
ぽつりと呟いた瞬間、視界がぼやけました。
私は美味しいご飯を食べるために、この国に来ました。
誰も私を蔑まない場所で、自分のために生きようと決めたのです。
その願いが、今、温かいスープとともに満たされていくのを感じました。
大粒の涙が、お椀の中にこぼれ落ちました。
私は慌てて目元を拭いました。
ポツ、ポツリ。
頭上の木の葉を打つ音が聞こえました。
焚き火の光が照らす空から、細い雨が降り始めました。
私の嬉し泣きに呼応した、穏やかで優しい小雨です。
「また降らせてしまいました。申し訳……」
「謝るなと言っただろう」
隣でスープを飲んでいたレオンハルト陛下が、低く笑いました。
「いい雨だ。乾いた土には、まだ水が足りない。君の感情がこの国を潤してくれるなら、俺はいくらでも君を笑わせ、喜ばせよう」
彼は空を見上げ、降り注ぐ雨を顔に受けて目を細めました。
「ローゼン国で何を言われたかは知らない。だが、君の力は美しい」
私の魔法を、美しいと言ってくれた。
その事実が、冷え切っていた私の心を静かに溶かしていきました。
「クロエと言ったな」
陛下が私を見下ろしました。
「王都の近くに、俺が直轄する農業特区がある。君さえよければ、そこに来ないか。水と土を愛するこの国は、君を大いに歓迎する」
彼の提案は、あまりにも唐突でした。
しかし、彼の目には一片の嘘も見えません。
「美味しい野菜が、たくさんありますか?」
私が尋ねると、彼は目を丸くし、やがて声を上げて笑いました。
「ああ。君が泣いてしまうほど美味い野菜を、俺が保証しよう」
王都の農業特区。
そこに行けば、もっとたくさんの美味しいものに出会えるかもしれません。
私は小さく息を吸い込み、温かいスープをもう一口、喉に流し込みました。




