第2話 国境を越えたら、雨女が女神になりました
追放を言い渡されたあの夜会から、数日が経ちました。
ガタゴトと揺れる辻馬車の中で、私は膝に置いたトランクを強く握りしめていました。
国境の検問は、持っていた路銀を少し多めに渡すことで、驚くほどあっさりと通過できました。
どうやら、ローゼン国から追放された「悪役令嬢」であることは、ここまでは伝わっていないようです。
「お嬢さん、ここがアグリアの最初の村だよ。俺の馬車が行けるのはここまでだ」
御者の声に促され、私は馬車を降りました。
太陽がじりじりと肌を焼き付けるような、強い日差しでした。
空には雲一つありません。
祖国ローゼンであれば「最高の商売日和」と喜ばれるような、完璧な晴天です。
しかし、私の目の前に広がる光景は、想像していた「農業大国」の豊かな姿とはかけ離れていました。
「……ひどい」
思わず声が漏れました。
見渡す限りの畑は、ひび割れた茶色い土の塊と化しています。
青々としているはずの麦や野菜の葉は、水分を失って黄色く変色し、力なく地面に倒れ伏していました。
風が吹くたびに、乾いた砂ぼこりが舞い上がります。
村の入り口にある小さな井戸には、数人の村人が力なく集まっていました。
彼らの服は薄汚れ、その顔には深い疲労と絶望の色が濃く滲んでいます。
私はトランクを下げたまま、ゆっくりと畑に近づきました。
しゃがみ込み、枯れかけた小さな野菜の苗に触れます。
カサカサと音を立てて、葉の端が崩れ落ちました。
「もう何十日も、一滴の雨も降らねえんだ……」
背後から、嗄れた声が聞こえました。
振り返ると、腰の曲がった村の長老らしき老人が、杖をついて立っていました。
その目には、諦めの色が浮かんでいます。
「川も干上がっちまった。このままじゃ、今年の冬を越す食い物すら育たねえ。村は、おしまいだ」
老人の言葉に、他の村人たちも重い溜息をつきました。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられました。
私は、美味しい野菜のスープが飲みたくてこの国に来ました。
本で読んだ、青々とした畑と豊かな実りを思い描いて。
それなのに、目の前の大地はカラカラに乾ききり、人々は飢えの恐怖に直面しています。
一生懸命に育てたであろう作物が、ただ日差しに焼かれていくのを待つしかない。
それは、どれほど無念なことでしょう。
「可哀想に……」
枯れた苗を撫でる私の手から、ぽろりと雫が落ちました。
同情と、悲しみ。
抑えきれない感情が、私の目から涙となって溢れ出しました。
両手で顔を覆っても、涙は指の隙間からこぼれ落ちていきます。
ポツリ。
私の頬を打ったのは、私の涙ではありませんでした。
空から落ちてきた、冷たい水滴です。
「あっ……」
私は慌てて顔を上げました。
やってしまった。
感情が乱れたせいで、また私の魔法が発動してしまったのです。
あっという間に空は分厚い灰色の雲に覆われ、ザァザァと激しい雨が降り始めました。
ひび割れた大地が、みるみるうちに雨水を吸い込んでいきます。
枯れかけていた苗の葉に水滴が弾け、土の匂いがふわりと立ち昇りました。
「ご、ごめんなさい……!」
私は後退りしながら、村人たちに向かって頭を下げました。
晴れた空を台無しにしてしまった。
こんな時に、陰気な雨を降らせて迷惑をかけてしまった。
また「商売の邪魔だ」「気分が悪い」と罵倒されるに違いありません。
「すぐに立ち去りますから! どうか、怒らないで……」
私はトランクを持ち上げ、逃げるように踵を返そうとしました。
祖国で何度も経験した、冷たい視線と罵声を覚悟しながら。
「……雨だ」
老人の震える声が聞こえました。
「あ、雨だぁぁぁっ!!」
背後で、爆発するような歓声が上がりました。
私は驚いて振り返りました。
村人たちは、泥水がはねるのも構わず、両手を広げて天を仰いでいました。
ある者は涙を流して笑い合い、ある者は土にひれ伏して雨の恵みを噛み締めています。
怒っている人は、一人もいません。
「あんた……あんたが、降らせてくれたのか?」
老人が、雨に打たれながら私にすがりつくように近づいてきました。
その目には、怒りではなく、深い畏敬の念が宿っていました。
「えっ? あ、はい。私の特異体質で……ご迷惑をおかけして……」
「迷惑なもんか! 奇跡だ! 天の恵みだ!」
老人は私の手を取り、しわくちゃの顔をくしゃくしゃにして泣き出しました。
「水だ! 畑が生き返る! 村が救われたんだ!」
周囲の村人たちも、次々と私の周りに集まってきました。
「ありがとう、お嬢ちゃん!」
「なんて神々しいお姿だ。豊穣の女神様だ!」
「女神様のお通りだ! 村一番の家にお通ししろ!」
「えっ? め、女神様……?」
私は目を丸くしました。
私が降らせる雨は、陰気で忌まわしい欠点ではなかったのでしょうか。
祖国では誰もが眉をひそめたこの力が、ここでは感謝されている。
「奇跡だ」と拝まれている。
困惑で頭が真っ白になります。
村人たちに囲まれ、私はトランクを持ったまま、半ば強引に村の奥へと案内されていきました。
降り続く雨の中、枯れた大地は少しずつ、確かな生気を取り戻し始めていました。




