第1話 悪役令嬢の降る雨は、追放の合図
王宮の大広間は、眩いばかりのシャンデリアの光に満ちていました。
着飾った貴族たちがグラスを片手に談笑しています。
美しいドレスの擦れる音。
甘い香水の匂い。
軽やかな弦楽器の調べ。
祖国ローゼンは商業の国です。
晴れ渡る空のもとで取引を行うことが縁起が良いとされ、人々は太陽の光を何よりも愛しています。
だからこそ、王宮の夜会も常に明るく、華やかに彩られていました。
「クロエ・フォン・ローゼンバーグ! 前へ出たまえ!」
音楽を断ち切るように、鋭い声が大広間に響き渡りました。
声の主は、私の婚約者であるジュリアス王太子殿下です。
金髪碧眼の彼は、今日も見事に仕立てられた白い礼服を着こなしています。
しかし、その顔には明らかな怒りが浮かんでいました。
私は静かに息を吸い込み、人垣を抜けて彼の前へと進み出ます。
「はい。お呼びでしょうか、殿下」
「白々しい態度をとるな! 君のその陰気な顔を見るだけで、場の空気が淀むようだ!」
ジュリアス殿下の隣には、私の義妹であるミアが寄り添っていました。
桃色のふんわりとした髪を揺らし、殿下の腕にすがりついています。
彼女の目は少し潤んでおり、怯えたように私のほうを見ていました。
「君がミアに対して行った数々の悪逆非道な振る舞い、すべて調べはついているぞ!」
殿下は声を張り上げました。
周囲の貴族たちが一斉に私へ視線を向けます。
ヒソヒソと囁き合う声が、波のように広がっていきました。
「ミアのドレスを切り裂き、階段から突き落とそうとしただろ!」
「……私は、そのようなことは一切しておりません」
私は事実をありのままに口にしました。
ドレスを切り裂くような鋏を持ち歩く習慣はありません。
階段から突き落とすような野蛮な真似も、公爵令嬢として受けた教育に反します。
何より、私は彼女の行動に干渉する理由がありませんでした。
「嘘をつくな! ミアが泣いて私に訴えたのだぞ。君のように感情が欠落した冷たい女には、彼女の繊細な心が理解できないのだろうな」
ミアが、殿下の腕の中で小さく身を縮めました。
「お義姉様……あたし、とても怖かったです。でも、もう許してあげますから、怒らないでくださいねぇ……?」
甘ったるい声でミアが言います。
彼女の口元が、一瞬だけ得意げに歪んだのを私は見逃しませんでした。
私はいじめてなどいません。
ですが、私が何を言っても、彼らが信じることはないでしょう。
ジュリアス殿下の瞳には、私への嫌悪しか映っていません。
胸の奥が、冷たく締め付けられました。
婚約者として、彼のために完璧な令嬢であろうと努力してきました。
国が求める「明るく華やかな王妃」になるため、自分の感情を押し殺して。
けれど、その努力はまったく無意味だったのです。
悲しみが、喉の奥から込み上げてきました。
ポツリ。
窓ガラスを叩く音がしました。
ポツ、ポツリ。
音は次第に数を増し、ザーザーという激しい雨音に変わりました。
大広間がざわめきます。
先ほどまで星が瞬いていた夜空が、分厚い雨雲に覆われていました。
窓の外は、あっという間に土砂降りの雨です。
「またか! 君が感情を乱すから雨が降ったではないか!」
ジュリアス殿下が忌々しそうに舌打ちをしました。
私の魔法。
それは、感情の昂りに連動して天候を変え、雨を降らせてしまうという特異体質です。
悲しい時、苦しい時、私は雨を降らせます。
晴天を愛するこの国において、それは忌むべき欠点でした。
「本当に陰気な雨女だ。商売の邪魔になるばかりか、私の気分まで害する」
殿下の言葉が、冷たい刃のように私に突き刺さります。
周囲の貴族たちも、露骨に眉をひそめて窓の外を見ています。
「君のような呪われた悪役令嬢は、次期王妃にはふさわしくない! 私とミアの輝かしい未来のため、君との婚約を破棄する!」
大広間に沈黙が降りました。
雨音だけが、絶え間なく響いています。
「そして、君をこのローゼン国から永久追放とする。今すぐ王都から立ち去りたまえ!」
追放。
その言葉を聞いた瞬間、私の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れました。
悲しみは、もうありませんでした。
代わりに訪れたのは、深い静寂と、不思議なほどの解放感です。
私は、息を吐き出しました。
ずっと我慢してきました。
雨を降らせないために、泣くことも、笑うことも、怒ることすら禁じてきました。
でも、もうやめよう。
私は背筋を伸ばし、ジュリアス殿下の目を見据えました。
「……承知いたしました、殿下」
私の声は、驚くほど澄んでいました。
殿下がわずかに目を丸くします。泣きすがるとでも思っていたのでしょうか。
「私への婚約破棄、ならびに国外追放の命。確かに承りました」
私は両手でドレスの裾をつまみ、完璧なカーテシーを披露しました。
公爵令嬢として、最後の挨拶です。
「ミア。殿下をお支えし、素晴らしい未来を築いてくださいね」
「えっ……あ、はい。あたし、頑張ります」
ミアが戸惑ったように瞬きをしました。
「では、私はこれにて失礼いたします」
私は踵を返し、大広間の扉へと向かいました。
貴族たちが、まるで道を開けるように左右へ退いていきます。
誰の目も合わせず、私はまっすぐに歩き続けました。
もう、感情を殺す必要はありません。
私は、私の人生を、私自身のために選び取ります。
*
王宮から公爵家の自室へ戻った私は、すぐに荷造りを始めました。
持ち出すのは、最低限の着替えと、母の形見の小さな宝石箱だけです。
豪華なドレスも、王妃教育で使った分厚い本も、すべて部屋に残しました。
もう、私には必要のないものばかりです。
「お嬢様、本当に……本当に行かれるのですか?」
古参のメイドであるマーサが、涙ぐみながら尋ねてきました。
「ええ、マーサ。王命ですから」
私はトランクの留め金をカチンと鳴らしました。
「それに、私はもう疲れましたの。これからは、もっと自由に、美味しいものを食べて、自分のために生きたいのです」
「お嬢様……」
マーサから、路銀の入った革袋を受け取ります。
公爵家からの手切れ金のようなものでしょう。
私は彼女に深く頭を下げました。
「今まで、ありがとう。お元気でね」
雨が降りしきる中、私は公爵家の裏口から質素な辻馬車に乗り込みました。
御者に、隣国アグリアの国境へ向かうよう指示を出します。
馬車がゆっくりと動き出しました。
車窓から、雨に煙る王都の街並みが見えます。
冷たい雨です。
私の心を映したような、悲しみの雨。
でも、不思議と寒さは感じませんでした。
トランクを抱きしめる私の胸の奥には、小さな温もりが灯っています。
これからは、我慢しなくていい。
食べたいものを食べて、泣きたい時に泣いていいのです。
私は窓ガラスに額をつけ、暗い夜道を見つめました。
国境を越えた先にある隣国アグリア。
農業が盛んだと本で読んだことがあります。
(美味しい野菜のスープが、飲みたいな)
私は小さく息を吐き、静かに目を閉じました。
馬車は泥水を跳ね上げながら、夜の闇の向こうへと進んでいきます。
私の新しい人生が、今、始まりました。




