第61話 供給を絞る手は、何を狙う
朝の市場は、荷車の軋む音で目が覚めるような場所だ。
まだ陽が高くなる前だというのに、石畳には昨日の泥が乾ききらずに残り、魚屋の桶と香草売りの籠が細い通りを埋めていた。いつもなら、その雑多な匂いの向こうに、王宮へ回る荷の木箱がもっと積み上がっている。
山ほどあるわけではない。ただ、毎日同じくらい、迷わない量がある。食卓は、その「同じくらい」で回っている。
けれど今朝は、その高さが足りなかった。
私は荷札の色を数え、次に荷車の車輪の泥を見た。遠くから来た泥ではない。市内だけを回った浅い色だ。つまり、途中で遅れたのではなく、最初から積まれていない。
「少ないな」
横でリュシアン様が短く言った。
「ええ」
それ以上は言わず、私は空箱の角へ指を置いた。妙にきれいだった。急いで降ろした擦れ方ではない。最初から軽かった箱の角だ。
荷運び人が困ったように帽子を取り、「今日は集まりが悪くて」と言いかける。
私はその言葉の途中で、箱の紐が新しいことに気づいた。昨日結び直したような、まだ硬い繊維。古い木箱に、新しい紐。
集まりが悪いのではない。回し方が変わっている。
搬入口を出て、私は手帳を開いた。
荷の量、木箱の状態、紐の色、荷運び人の言い方。書くのは事実だけ。感情は後でいい。先に順番を掴む。
「商会へ行きましょう」
私が言うと、リュシアン様は市場の奥を1度だけ見た。彼なら、この場で別口を押さえることもできる。値を積み、複数の仲買を当たれば、今夜の食卓だけなら守れる。けれどそれをすれば、高くしたい側が、そのまま得をする。
彼もそれを分かっている顔だった。
「先に、顔を見るか」
「ええ。値段より先に」
通り沿いの札には、今朝も平静な値が書いてある。けれど裏へ回れば、王宮向けだけが別の紙になる。そういう手は、いつも表からは見えない。
商会の帳場は、通りから1本奥の路地にあった。
扉を開けると、帳場係が顔を上げた。慣れた顔だ。見慣れた顔と、慣れた距離感。しかし今日の私が見ているのは顔ではなく、机上の紙の重ね方だ。
「王宮向けの直近3日分の納品記録を見せてもらえますか」
「今日ですか」
「今日です」
帳場係が少し間を置いてから、束を出す。その間が、ひと呼吸より長い。
紙を開くと、数字はある。全部埋まっている。けれど埋まり方が、妙に整っていた。量の増減が、日ごとに滑らかすぎる。不作や調達の変動で揃う波ではない。誰かが天井を決めてから、逆算して埋めたような揃い方だ。
「この3日間、油の仕入れ値が上がっています」
「市場の動きですから」
「他の商会と比べましたか」
帳場係の眉が少し動いた。
「……比べてはいませんが」
「同じ率で上がっていれば、市場の動きです。ところが昨日の段階では、どこも同じ率でした。今日だけ揃っています」
私はそこで手帳を閉じた。数字を読み上げるためではなく、場の空気を止めるために。
「1日で揃うのは、市場の動きではありません」
沈黙が落ちた。
その隙に、リュシアン様が机の端を指先で押した。
別の束がある。控えの山の裾から、違う紙が半分だけ覗いている。紙の質が違う。繊維が粗く、端の処理が宮廷調達の書式ではない。
私は視線だけをそちらへ向けた。
あの封だ。補填帳に混じっていた、別商会の封と同じ紙質だ。
帳場係は気づいていない。いや、気づかせないように積んでいる。けれど積み方が甘かった。
私は何も言わなかった。今は手帳の端に印を1つ書くだけでいい。
帳場を出ると、路地の石畳に朝の光が伸びていた。
「同じ封です」
私が言うと、リュシアン様は歩みを止めた。
「確かですか」
「紙の繊維と端の処理が一致します。60話の補填帳で若手書記官が見つけたものと」
短い沈黙があった。
王宮の外から来た供給線と、王宮の内側の改竄線が、同じ商会を経由している。口封じに使われた支給品も、改竄に使われた封も、供給を絞った手も――全部が、同じ利益線に乗っている。
「誰が止めるほど得をするか、見えてきましたか」
私が聞くと、彼はしばらく路地の先を見た。
「……見える。だが、まだ言えない」
「ええ。今日のところは、それで十分です」
足りない荷の理由は分かった。しかし今日の目的は、値段を下げることでも、食材を確保することでもなかった。
誰が、止めることで得をするのか。
その輪郭だけを掴んで、今日は戻る。
手帳に書いた印が、次の問いの入口になる。
食卓を守るためには、供給を絞っている手だけでは足りない。その手を動かしている利益線そのものを、白日の下へ引き出さなければならない。
それが見えた今、市場の朝は少しだけ違う顔をしていた。




