第47話 代役で足りる、と誰が言える
王都の灯りは明るいくせに、人の値踏みだけは影で行われる。
宴席前の控え間は、暖炉が入っているのに少し寒かった。火が足りないのではない。視線の温度が低いのだと、扉をくぐった瞬間に分かる。侍従が礼をする。貴婦人が扇を閉じる。若い官吏が、わざとらしく会話を切る。誰も失礼ではない。けれど、誰も歓迎していなかった。迎えられているのではなく、並べて見られている。皿の縁を指で弾いて、ひびの入り方を確かめるみたいに。
私の半歩前を歩いていたリュシアン様が、わずかに速度を落とした。守るための歩幅だと、今なら分かる。けれど、ここでそれに寄りかかれば、たぶん全部が終わる。辺境伯の庇護で立っている女、と見なされた瞬間に、私の帳面も、72冊も、20頁も、ただの口実にされる。
だから私は、彼の横に並ぶ代わりに、少しだけ後ろへ下がった。
「王都はお久しぶりですな」
そう声を掛けてきた貴族の笑顔は柔らかかった。柔らかいのに、刃のようだった。
「代役も一応は回しておりますよ。何も、記録係など1人でなければ務まらぬ仕事でもありますまい」
一応。
その2文字だけで、喉の奥が冷えた。
私は返事をする前に、会場の端へ目をやった。配膳机の脇で、見慣れない若い記録係が帳面を開いている。頁の折り目は浅い。筆記の置き方が整いすぎている。現場で擦れた手ではない。皿名を書き、給仕に合図し、次の品へ移る。その流れだけ見れば、確かに仕事は回っているように見えた。
けれど、その手が禁忌確認の札を、皿名のあとに見たのを私は見逃さなかった。
違う。
そこは逆だ。
先に見るべきものを後に回せば、皿は出る。出てしまう。誰も止められないまま。
「誰にでもできる、ですか」
自分の声が思ったより静かで、逆に驚いた。
貴族は笑みを崩さない。
「ええ。もちろん、あなたほど見栄えよくはないでしょうが」
見栄え。
そこでやっと分かった。この場で値踏みされているのは仕事の中身ではない。人に見せて使える札として、どれだけ都合がいいかだ。
回廊の小卓に寄ったとき、貴婦人たちの声が扇越しに届いた。
「辺境伯のお連れの方、やはり有能でいらっしゃるのね」
「引き合わせには丁度いいわ。あちらの家とも話が通る方だし」
「縁談の札にしやすいのよ、ああいう方は」
噂。縁談。紹介。引き合わせ。そういう形に切り分けやすい価値だけが、磨かれた言葉で机の上へ載せられている。私の帳面が、私の5年が、この場では1枚の社交札でしかない。
指先が無意識に札の並び順を正そうとして、止めた。ここは厨房ではない。
立会人たちが妙に多いことにも気づいていた。控え間の奥、回廊の曲がり角、後方席の端。数えなくても分かる。歓迎の布陣ではない。どこへ行っても目がある。誰かに見届けさせるための配置だ。
後方席に座ったとき、リュシアン様が隣に腰を下ろした。会話はない。けれど彼は、先ほどから1度も私に代わって口を開いていない。割って入らないのだ。
最初は冷たいのかと思った。
違う。待っているのだ。私の判断が通る余白を、黙って守っている。
そう気づいた瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。それは庇護ではなく、信頼の形だった。
けれど、今はその温度に浸かっている場合ではない。
配膳机の方に目を戻す。代役記録係が試食印をどの匙に押すのか、真顔で厨房番に尋ねていた。厨房番は匙を裏返して、「それは食べる方です」とだけ返した。代役は少しだけ頬を赤くして、帳面に目を落とす。
笑えなかった。
彼が悪いのではない。帳面に項目はある。札もある。けれど、それを誰がどの順でどこへ渡すかの線だけが落ちている。禁忌リストが現場に降りていないのだ。降りていないのに、回っているように見える。その見えるが、いちばん危ない。
その瞬間、代役記録係の手元で、1枚の札が裏返った。禁忌札だ。
私は笑わなかった。怒りもしなかった。
ただ、ようやく確信した。
代役で足りると言うのなら、この人たちは何が足りていないかを誰も知らない。
立ち上がる。
リュシアン様が一瞬だけこちらを見た。止めない。問わない。ただ、視線の奥に、「行け」と読める光だけがある。
私は配膳机へ向かった。代役記録係が顔を上げる。反発と、かすかな不安が混ざった目だった。
「帳面には、この順で」
彼は手もとの帳面を示す。
「ええ。だから危ないんです」
言ってから、少しだけ言葉を選び直す。
「あなたが、ではなく。この形が」
代役の目が変わった。怒りでも安堵でもない。たぶん、初めて形のせいだと言われたのだ。
私は禁忌札を指した。
「皿は似せられます。順番は、似せられません」
声は小さかった。けれど、代役記録係の手が止まった。厨房番も、匙を持ったまま動かない。一瞬だけ、配膳机のまわりが静かになった。
背後で、立会人の1人が互いの顔を見てから頷くのが気配で分かった。歓迎でも敵意でもない。ただ、軽視できないものがここにあると、空気だけが認めた。
私は机を離れ、席に戻る途中で回廊の窓に映った自分の顔を見た。怒ってはいない。泣いてもいない。ただ、冷えている。王都に戻ってきて、再評価されていると思った。けれど実際は、代わりが立つなら価値は配れる、という再搾取の場に呼ばれていただけだった。
席に戻ると、リュシアン様は何も言わなかった。ただ1枚の紙を、机の端に置いた。
今朝、宿で書いた索引の控えだった。私の字だ。私が並べた順番で、私が選んだ項目が並んでいる。
誰にでもできる、と言った人間たちへの答えは、ここにある。この字を書いた指を、この順番を知っている頭を、代わりに立てられるなら立ててみればいい。
けれどそれは言わない。言えば、感情になる。今の私に必要なのは、感情ではなく手順だ。
「代わりがいるなら、誰が止めるんですか」
小さく呟いたその言葉は、誰にも届いていないはずだった。
けれどリュシアン様の指が、紙の端をほんの少しだけ、私の方へ押した。
代役の帳面には、禁忌欄がある。項目も書かれている。なのに使えない。「書かれているのに使えない」形で残っている。
それが何を意味するのかは、明日になれば分かる。




