第43話 高くなった理由、言える?
止まった荷より先に、腹は減る。
補給庫の脇に組まれた仮の作業台には、立派とは言えない材料ばかりが並んでいた。乾いた豆。塩漬けの肉。少ししなびた根菜。香りを補うための葉物はもう底が見えている。
けれど、足りないものを数えても皿は出ない。私は袖を留め、木箱の上へ帳票と食材を同時に並べた。
「火口は2つだけ借ります。温かいものを先に回します。香り役は後ろへ」
補給係が面食らったように目を瞬く。困っている時、人は「何がないか」を報告したがる。けれど現場を動かす時に要るのは、「何なら回るか」だ。
塩抜きの時間は削れない。削れば別のところで詰まる。煮込みを短くして、とろみを先に作る。乾いた豆は崩して使う。根菜は形を揃えない。揃える時間があるなら、温度を保つ。
頭の中で順番だけが速くなる。手は、むしろ静かになる。
補給係がこちらの作業を眺めている。眠たげな目がわずかに開いた。私の手つきが、通常の配膳職とはまったく違うのだと気づいたのかもしれない。
けれど彼は何も言わず、ただ保管札の束をもう一度数えた。責任線から身を引く人間の、自分の持ち場への向き合い方だ。
向こうでリュシアンが木箱を机代わりにして、荷受け控えと価格表を広げていた。彼は私の方を見ない。見ないまま、必要な紙だけをこちらへ滑らせてくる。
余計な言葉はない。けれど、合わせてくれている。守るために前へ出るのでなく、私の手順に場所を空けている。そのことが、火口の熱とは別の温度で喉に残った。
紙を整理する彼の指先が少しだけ強く机の端を押さえる仕草。それは彼が、この場所で何が起きているのかをもう理解しているということだ。
鍋が鳴る。塩気の立つ匂いに、補給係たちの空腹が動く気配がした。
数歩離れた窓際で、荷運び人が上目遣いに火口を見ている。止まった倉庫での待ちぼうけ、延びた移動時間、昨日からの薄い給与。体が声より先に反応している。もう食べるのを待ちきれない顔だ。
「最初の1皿は、倉庫の番の人へ」
私が言うと、補給係が息を吸い込んだ。配膳の優先順位が逆だ。現場の人間が最後になるのが通例なのに。
けれど私は既に煮込みの中身を確認し、塩気の立ち方を舌で測っていた。
できあがるまで、あと何分。
倉庫前を往復する番人たちの時間帯。それを動かすのは、まず腹だ。温かさだ。冷え込む朝、誰かが温かい1皿を持ってくれば、その人間の手順が全体を動かし始める。
火口の前で、私の手だけが次々と動いた。豆を崩す。肉を削ぐ。根菜をざっくり煮る。香り役の葉を後ろへ置く。
全部、足りないことを前提に組まれている。それなのに、できたものは実に静かに完成に向かっている。
「1皿、こちらへ」
補給係が受け取った深い器は、湯気を立てていた。その手つきで、彼の中の何かが少しだけ変わった気がする。
「保留」と告げた時の声音から、もう少し重さが戻ってくる。
運び人の元へ向かう補給係の背を見送ってから、私は木箱の側へ身体を近づけた。
「受領額、確認させてください」
リュシアンが一枚の控えを指先で叩いた。発注額のすぐ下に、別の欄が書き足されていた。補給係から受け取った紙か、それとも宿場で見た控えか。その由来まで追う時間はない。
「冬が理由なら、ここまで揃わない」
彼の声は低い。ただの指摘ではなく、確認だ。
私は価格表を手に取り、1行ずつ追った。小麦粉の上げ幅。塩漬め肉の上げ幅。乾燥豆の上げ幅。すべて同じだ。
商会が異なれば、仕入れ地が違えば、相場の上下は不規則になるはずだ。けれどこの並びは、まるで上から一定量を掬い取る手が最初から決まっていたみたいに揃っている。
「この数字、違う」
声に力を込めすぎた。リュシアンが少しだけ顔を上げ、私を見た。
「何が」
「上がり方が。商会ごとに、品目ごとに、ばらばらのはずです。冬だから跳ねる。それは分かります。けれど、この跳ね方は――」
言葉を探しながら、紙を引きよせた。左手の指で数字の列を押さえ、右手で別の欄と比較する。水の張った目で見ても見ても、規則性は崩れない。
「同じです。全部、同じ率で増えている」
リュシアンが残った控えへ手を伸ばす。彼は紙を読むのが私ほど速くない。
けれど今は、押さえる場所を間違えない。風でめくれそうになる端を押さえ、私が数字を追い直す余白を空ける。
倉庫の方から、足音が戻ってきた。荷運び人だ。あるいは補給係か。誰かが皿を空にした。食べた。
それだけで顔の強ばりが少しだけ緩むのは、こうした場所では実に珍しい。
補給係が新しい皿を確保に動く。その動きを見守りながら、私は言葉を整えた。
「高いことと、必要なことは、同じではありません」
リュシアンが顔を上げた。
私はそのまま木箱へ身を寄せ、価格表をもう一度開いた。
「足りないことも、必要ないことも、別です。この献立は足りません。けれど、回っています。一方、この数字は――」
指先で上乗せ欄を押さえた。
「必要でない上乗せです。止まった現場に、温かい1皿は必要です。けれど、このタイミングでの価格跳ね方は、必要ではない」
リュシアンがそのまま黙って、私を見つめた。自分へではなく、現場へ向かった言葉が、今は違う意味で彼の中で止まったのだろう。
足りない前提で組み直した献立は、みじめではない。むしろ、止まった現場がまだ回ると証明する。そして、その証明があればこそ、数字の不自然さは隠れない。
木箱の机の上で、控えの束が整然と並んでいた。右手で押さえられた原本。左手で確保された写し。中央に展開された価格表。
誰が組んだわけではない。自然と、そういう形になっていた。
「冬だから高いのではない」
私は低い声で言った。
「なら、誰がこの差額を食べている」
リュシアンが目を上げた。私たちは同じ線を見ていた。それは恐ろしく確かなことだった。
補給庫の脇で、2人だけが凍った形で立ち止まる。背後では荷札が整然と積まれ、倉庫では温かい匂いが人を動かし始めている。その現場の中で、数字の嘘だけが私たちの両目に映っていた。
かつて記録室の棚で、帳面の重さを見上げたあの瞬間のように。
誰かが、どこかで、この差を掬い取っていた。そして、その手に心当たりがある気がした。
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