表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第3部 契約の鎖/監査の芽 第7章 条文で縛る者の正体

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/58

第28話 空白を作れる手は、誰

 夜の記録室は、昼よりも正直だ。


 人がいなくなると、紙は黙る代わりに匂いを立てる。革、埃、乾いたインク。昼の応接で漂っていた香油や茶の匂いが消えたあとでは、記録だけがここに残っているのだとよく分かる。


 鍵番から借りた鍵を差し込み、扉をわずかに開ける。重い。重いのは木ではなく、ここに積まれたなかったことにされなかったもののせいだ。


 今夜は証人名簿の差し替えだけを追うつもりだった。けれど私は最初から、もう少し奥の違和感を探していたのだと思う。帳面の空白は、たいてい自然にはできない。


 棚の中段、事故日周辺の記録がまとまった列を抜く。頁をめくる指先に、ほんの少しだけ引っかかりがある。紙繊維が逆立っている感触。


 私は息を止めて、その頁を灯りへ傾けた。


 行が1本、削られている。消されたのではない。削られたのだ。砂で散らした修正ではない。刃先か、硬い先端で、繊維ごと薄くさらわれている。


「……これ」


 声は小さかったのに、隣のリュシアンには十分届いた。彼が私の手元を覗き込む。私は頁の端を押さえたまま、削り跡を指でなぞらない。触れば、その跡まで私のものになる気がした。


「私は、残すために消します」

 自分でも唐突だと思う言葉が出た。


 彼は意味を問わなかった。問わずに、ただ削り跡を見て、低く返した。

「これは違うな」


 それだけで足りた。


 私の消し方は、あとで戻すための消し方だ。文字を丸ごと捨てない。紙を傷めない。書けなかった一行を、せめて未来に渡すための手つきだ。


 けれどこれは違う。無かったことにするための削り方だ。誰かが、空白そのものを作った。


 廊下の向こうで足音がした。2人同時に帳面を閉じる。灯りが揺れ、鍵穴に薄い金色が走る。見つかりかけた、というより、ここに長くいればいずれ見つかる。けれどもう十分だった。


 署名だけではない。封蝋だけでもない。帳面の空白まで、誰かの手が届いている。


 宿舎へ戻る廊下で、リュシアンが短く言った。

「明日、順に追う」


 私は頷いた。言葉は少ない。けれど今夜見た空白は、もう2人の間で同じ形をしている。


     ◇


 部屋に戻り、机に向かう。灯りを寄せ、あの頁をもう一度思い出す。削り跡の深さ。繰り返した刃の跡の重なり方。


 1度では落ち切らなかったのだ。何度も、何度も、繰り返されたのだ。


 指が無意識に、余白のメモに削り跡の位置を記す。帳面の第7冊。事故日からぴったり3日後。


 3日――それは追補条項の署名から日没までの間だ。署名を見た者が、翌日に帳面を削った。そう考えるのが自然だ。署名の前ではない。署名の直後だ。


 胸の奥が少し冷える。公の場で通った紙の直後、誰かは夜中に帳面へ手を入れた。追補が通った安堵の裏側で、記録を削った。


 窓の外は深い。王都の灯りも廃れ、この時間は誰も歩かない。


 私だけが、この机で削り跡を追い、誰の指がここまで伸びたのかを考える。


 法務係の手では、ない。


 彼は署名の場に全員いた。若い書記官も。倉庫番も。ボルドーも。リュシアンも。


 では、誰が。


 それとも、削ったのは夜ではなく、もっと前か。提示された時点では既に削られていて、私たちはそれに気づかなかったのか。帳面の厚さ、積み重なった頁数。1冊の中に何度も削られた痕があるとしたら。


 私は立ち上がり、再び帳面の列を思い浮かべる。第1冊から第7冊。季節ごと、事件ごと、失敗ごとに分かたれた記録。


 どの冊にどの痕があるのか。何が消されたのか。何が残されたのか。


 そして、これまで誰も気づかなかったのはなぜか。


 答えは簡単だ。帳面は読む前に、既に信用されていたからだ。紙が綺麗なら、中身も綺麗だと。文面が揃っていれば、事実も揃っていると。削られた行をわざわざ探す人間は、この宮廷にはいなかった。


 だから削り跡は、安全に隠れていたのだ。


 机に戻り、控えの帳面を引き寄せる。その1ページを、別の紙に透かして見る。繊維の荒れ具合。光の透り方。もしも同じ痕があれば、複数の帳面にまたがる削り跡の大きさが見える。


 やはり、複数ある。


 証人名簿の改竄だけではない。倉庫の受領記録の一部も。厨房の食材出納欄も。どれもが、同じ時期に、同じ手で削られている。


 心臓が少し早くなる。それは怒りではなく、見える景色が一気に広がる時の、その感覚だ。


 隠す手は一つではなく、複数だった。署名の改竄だけではなく、帳面そのものが段階的に改造されていたのだ。


 そして、その全部が、公の前では通ってしまった。


 廊下の時計が、深夜の鐘を打つ。1つ、2つ、3つ。


 どうして今なのか。どうしてこの時期なのか。追補条項で責任欄が増えることが分かってから、帳面を削ったのか。それとも、追補が通る前から、既に消す準備をしていたのか。


 私は机に伏せ、目を閉じる。


 怖いのだ。紙が自分を守ったことは、これまで1度もない。むしろ逆だ。紙ばかりが忠実に、事実を積み重ねてくれた。だから私は、帳面に自分の観察を預けてきた。紙なら、嘘をつかないと信じて。


 けれど今、その紙自体が削られていたのだ。


 帳面は、もう信じられない。だから、頼るべきは別の地図だ。削り跡の位置。封の切られ方。筆圧の違い。署名の改竄。これらが1本に繋がるなら、その線を追えばいい。


 ノックが、静かに響いた。


「入ります」


 リュシアンが、書類を1枚持って入ってきた。追補条項の署名者一覧。提示された時刻。確認者の記録。彼は机の端に置き、何も言わずに私の横に立った。


「これと照合してください」


 彼の声は、命令ではなく、提案だ。自分も一緒に見る気配を残したまま、私の選択に委ねている。


 私たちが並べた2枚の紙の上で、時系列が重なり合う。午後の署名時刻。夜中の帳面照合まで、わずか6時間。その間に誰かは封を切り直し、証人名を改竄し、記録を削った。


「同じ人の仕業なのか、複数か」


 彼が呟く。判断ではなく、問いだ。私の観察力を、信頼している。


「複数の手です」


 私は確信を持って答えた。


「筆圧が違う。削り方も。1人で6時間で全部は、無理です」


 リュシアンが黙る。その沈黙は、怖れだ。公の手続きの中で、複数の人間が同じ目的で動いていた。それは、偶発ではなく、計画だったのだ。


 窓の外の夜はもう、明け方に近い。王都は静かなまま、朝が近づいている。


 夜明けには、この事実を誰に、どう伝えるべきか。


 けれど今は、まだ暗い。


「明日、1つずつ追います」


 私は机の上の2枚の紙に手を置いた。控え。署名者一覧。削り跡の位置。全部が、同じ話を言っている。


「空白は勝手にできません。誰かが、意図を持ってこの帳面に触れました」


 彼は頷く。言葉ではなく、同じ手順を見る相棒として。


 廊下へ出て行く際、リュシアンが立ち止まる。彼の横顔は、決めた人間の顔だ。


「この線を追えば、誰が守ろうとしたのか。何を守ろうとしたのか。全部見える」


 そうだ。紙を削った理由。署名を改竄した理由。追補の直前に動いた理由。全部が、誰かの立場を守るためにある。


 そして、その守り方は、私たちの見方を確認させてくれた。


 削られた行の向こうにあるのは、もう誰かの秘密ではない。それは、次の章で晒される罪の証拠になるのだ。

読んでいただき、ありがとうございます。


よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ