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「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第3部 契約の鎖/監査の芽 第7章 条文で縛る者の正体

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第25話 曖昧な言葉を削る指先

 曖昧な条文は、たいてい弱い方から先に噛む。


 朝の宰相府はやけに静かで、だからこそ紙をめくる音がよく響いた。窓際の机に座った私は、昨日渡された誓約書を1条ずつ指で追う。必要に応じて。相当と認める場合。便宜上。やわらかい顔をした言葉ばかりが並んでいるが、柔らかいのは文面だけで、運用は硬い。こういう語ほど、あとで人を逃がさない。


「こちらは?」


 私が指先で示すと、法務係は咳払いを1つした。


「一般的な表現です」


「一般的、というのは便利ですね。誰の判断でどう一般的なのか、どこにも書かなくて済みますから」


 書記官の羽根ペンが1度止まった。止まったのを確認してから、私は次の行へ進む。面会制限。相談の報告義務。現場照合時の立会い。昨日の息苦しさは残っていたが、怒りは形を変えていた。怒っている暇があるなら、削れる言葉を削る方がいい。紙は感情より先に人を縛るのだから。


「必要に応じて、は削ってください」


「それは——」


「必要なら、必要な条件を書けば済みます」


 法務係の顔色が、じわりと悪くなる。私はそこで初めて小さく確信した。相手は条文そのものに自信があるのではない。曖昧な運用の余地に自信があるのだ。


 修正前の紙と、書記官が写し直した紙を重ねる。行間は同じ、文面もほぼ同じ。けれど署名欄の最後だけ、押し込みが不自然に強い。紙が少し沈み込んでいる。視線を動かさないまま、指先だけで触れる。ここだけ急いだ人間がいる。あるいは、ここだけ別の人間が触った。


 私が何も言わないでいると、法務係は机の上で両手を組み直した。緊張ではなく、時間を稼ぐジェスチャーだ。紙の上の違和感が、相手にも伝わっているのだろう。


「最後の行については、後の追記です」


「追記の時期は」


「申請の最終確認時です」


「では、その時点でのインクを見せてください。現在の署名欄のインク濃度と同じものが」


 詩的に言えば、言葉の選び合いだ。現実的に言えば、2つの可能性を並べて、相手に選ばせている。嘘をついて被せるか、沈黙して認めるか。法務係はどちらでもない返し方をした。


「こちらの保管内で色合いに差が出ることはあります」


 回廊に出ると、リュシアンが壁際で待っていた。昨夜より顔色が悪いのは、眠れなかったのだろう。私を見た彼は何か言いかけ、短く息を飲む。


「信じ——」


 そこで止まる。私はたぶん、ほんの少しだけ強張ったのだと思う。守るという言葉が、昨日の条文の匂いをまだ帯びていたからだ。信じるという言葉も同じだ。信じろという要求が、昨日の拘束契約に見えてしまう。


 彼は目を伏せて、言い直した。


「……任せてほしい」


 その1語だけで、胸の奥の固いところが少しだけほどけた。命令ではなく、申し出だ。守る側が先に言葉を選び直した。その事実が、紙の上の違和感より先に、私を沈黙させた。


 それでも次の瞬間には、私は余白に筆圧の違いを書き留めていた。ほどけても、見落とさない。そういう人間を、私はまだやめていない。


 彼の指が、ほんの少しだけ、私の手に触れた。触れるだけで、言葉を足さない。その触れ方が、さっき会議室で聞いた「任せてほしい」と同じ質感だった。


 廊下の奥で使用人が足音を立てないように歩いている。王都の静けさはどこまでも透明で、その透明さの中で、2人の間の距離だけが形を持つ。


「よろしく」


 彼が短く言う。それは約束ではなく、感謝だ。昨日、彼が言いたかったが言えなかった言葉が、今この瞬間に別の形をしている。


 仮執務机に戻ると、昨日の誓約書の控えが置かれていた。欄外に細い文字で削除箇所の一覧が付き、署名欄の筆圧について確認の需要ありと記されていた。リュシアンの字だ。整っているくせに、急ぐと最後の払いだけが少し短くなる癖。その癖が、ここに残っている。


 私は控えを手に取り、光に傾けた。紙越しに光を見ると、筆圧の跡がはっきり浮かぶ。確かに、最後の行だけ押し込みが違う。通常の署名より深い。焦りか、決意か。その両方か。


 夜中に紙を確認し、後から自分で追記したのだろう。だから筆圧が残った。だから私が気づけた。


 帳面に、その筆圧について書く。ただし、名前は書かない。「署名欄最終行の筆圧に後追加の兆候あり。時期不定。確認要」とだけ。


 窓の外の王都は、相変わらず綺麗だった。綺麗な街は、時に人を簡単に縛る。見た目だけでは、その縛りが紙の中身にあるのか、手順の不備にあるのか、判断できない。


 法務係の机で、砂入れが1つ新しく追加されている。乾かす紙が増えたのか。それとも、1度乾かしたものを、もう1度触り直す時間が増えたのか。


 その答えは、明日以降の修正案を見れば分かるだろう。相手がどこまで譲歩し、どこまで固執するのか。譲歩の先に何があり、固執の裏に誰がいるのか。


 昨日までは、拘束契約の文面を読むのに精一杯だった。今日は、その紙を誰がどう書き、後から誰が何を足したのかを追う力がついている。


 それは怒りからではなく、隣に立つ相手が「任せてほしい」と言った瞬間から始まっていた。


 2人で同じ紙を見ることになれば、見える世界も変わる。違和感は私だけの感覚ではなく、共有できる疑問になる。曖昧さは圧ではなく、崩すべき構造に変わる。


 帳面に最後の1行を加える。「筆圧の差異は改竄の可能性も含める」。


 推測だ。根拠のない予想だ。けれど現場を見てきた人間の直感が、ここで形を持つ。その直感が次に正しいと判明した時、それは証拠になる。


 その時まで、私は記録を止めない。

読んでいただき、ありがとうございます。


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