第6話「月を追え」
ケンの唇から、白い息がゆっくりとこぼれた。顔に触れる刺すような冷たさに、ケンは静かに目を開けた。
空から、無数の白い粒が降っていた。そのうちのいくつかがまつ毛に触れ、体温で溶けていく。
ケンは再び目を閉じ、深く息を吸った。冷たい空気が肺の奥まで流れ込んできた。
(……ここは、どこだ?)
まるで見覚えのない場所だった。ゆっくりと上体を起こし、辺りを見回す。すると、すぐそばに横たわる小さな身体が目に入った。
「……リョウタ!」
弟は黒い剣の向こう側で、身動き一つせずに倒れていた。ケンは慌てて両手を雪につき、立ち上がろうとした。
しかし、その瞬間、奇妙な感覚に襲われた。
身体が、思っていたよりもずっと軽かったのだ。ほとんど力を込めていないにもかかわらず、身体は驚くほど簡単に持ち上がった。ケンは思わず動きを止めた。
(……何だ、これ?)
手足の感覚がおかしい。いや、おかしいというより、以前とは明らかに違っていた。
だが、今はそれどころではなかった。
ケンはすぐに弟のそばへ駆け寄った。雪の上に膝をつき、両腕を伸ばす。冷え切った小さな身体を慎重に抱き上げると、身にまとっていた黒いコートの前を開き、リョウタを胸元へ引き寄せた。少しでも冷たい風から守ろうとするように、強く抱きしめる。
そのとき、ふと自分の服装に目が留まった。
「……待てよ」
黒いコートを見下ろす。
「俺、いつからこんなものを着てたんだ……?」
今まで着ていた服とは、まるで違っていた。
ケンは片腕でリョウタを支えながら、もう片方の腕へ視線を向けた。指をゆっくりと開く。そして、握りしめる。もう一度、同じ動きを繰り返した。
以前なら意識することもなかった、ただそれだけの動作。
それなのに、筋肉の動きも、指先に伝わる感覚も、何もかもが違っていた。
「身体が……」
ケンは自分の手を見つめた。
「前とは、違う……」
数秒間、動かなかった。やがて、顔を上げた。
「おい……!」
返事はなかった。
「俺に何をした!?」
雪に覆われた森へ向かって叫んだ。その瞬間、頭の奥に聞き覚えのある声が響いた。
『礼の一つも言えないのか? 人間』
冷たく、相手を見下すような声だった。
『この世界で、以前のお前の肉体がどれほど持つと思っていた? 愚か者め。進化の結果を黙って受け入れろ』
ケンは歯を食いしばった。その声の主が誰なのか、考えるまでもなかった。
『眼』だった。
ケンは腕の中のリョウタへ視線を落とした。弟の目は閉じられたままだった。かすかに呼吸はしているものの、その身体はひどく弱々しく見えた。
「……それで」
ケンは小さく息を吐いた。
「俺は、これからどうすればいい?」
返事はなかった。しばらく待った。
「おい、聞いてるのか?」
沈黙。
「どこへ行けばいいんだよ……?」
答える声はなかった。ケンは苛立ったように眉をひそめた。
「……くそっ」
足元にあった黒い剣へ手を伸ばし、拾い上げる。数秒間、漆黒の刃を見つめた。
「まさか……この中にいるのか?」
返事はなかった。ケンは深いため息をついた。
周囲を見回す。見渡す限り、雪に覆われた木々が続いていた。枝には厚く雪が積もり、ときおり吹きつける風によって、白い塊が音もなく地面へ落ちていく。どちらへ進んでも、同じ景色が広がっているように見えた。
道らしい道もない。
人の気配もなかった。
ケンは腕の中のリョウタを抱き直し、森の奥へ向かって歩き始めた。弟の口元から漏れる弱々しい息が、白い霧となってケンの顔に触れた。
「……あの馬鹿眼、どこに行きやがった」
足元の雪を踏みしめる。
「行き先すら分からないってのに……」
ケンは顔を伏せ、弟を見つめた。リョウタは、まだ眠ったままだった。
「……頑張れよ、リョウタ」
小さな顔に、そっと目を向ける。
「絶対に、暖かい場所を見つけてやるからな」
しばらく歩いたところで、ケンは大きな木のそばに足を止めた。冷たい風が、容赦なく吹きつけてくる。ケンは慎重にしゃがみ込み、弟を雪の上へそっと横たえた。
そして、自分が着ていた黒いコートを脱いだ。片手でリョウタの身体を支え、もう片方の手でコートを広げる。冷気が入り込まないよう、弟の身体を丁寧に包み込んだ。露出していた部分をできる限り覆い、再び抱き上げる。
「……これで少しはましだろ」
ケンは周囲を見回した。風を避けられる場所を探す。
しかし、視界に入るのは雪と木々ばかりだった。どこまで歩けば森を抜けられるのかも分からない。
そのときだった。
遠くから、かすかな音が聞こえてきた。ケンは顔を上げた。
(……何だ?)
耳を澄ませる。何かが、こちらへ近づいていた。最初は風の音に紛れていたが、次第にはっきりと聞こえるようになった。
重い車輪が雪を踏みしめる音。
そして、一定の間隔で響く蹄の音。
(……馬?)
ケンはリョウタを片腕で胸元へ抱き寄せ、もう片方の手に持った黒い剣を音のする方向へ向けた。まだ、何も見えなかった。
しかし、音は確実に近づいてきていた。ケンは素早く近くの木の陰へ移動した。弟をしっかりと抱きしめたまま、慎重に顔をのぞかせる。
そして、目を見開いた。
そこには、大きな馬がいた。
力強い脚と堂々とした体格を持ち、雪の積もった道を進んでいる。その後ろには、荷物を積んだ大きな荷車がつながれていた。重い車輪が雪を押し分けながら回り、馬は白い息を吐きながら進んでいく。
「……馬車?」
ケンは思わずつぶやいた。こんな森の中で、まさか馬車に出会うとは思ってもいなかった。しばらく、木の陰から様子をうかがった。
荷車がすぐそばを通りかかろうとした、そのとき――
ケンは木の陰から姿を現した。
「おい! ちょっと待ってくれ!」
声が雪の森に響いた。馬が驚いたように頭を上げ、荷車が急停止した。ケンは剣を下ろした。
やがて、荷車から一人の少女が降りてきた。
白い髪をした少女だった。
ケンの胸に、わずかな安堵が広がった。この見知らぬ森で、ようやく人と出会えたのだ。弟を抱いたまま、少女へ向かって数歩近づく。しかし、少女の表情が険しくなった。
ケンの姿を見た瞬間、彼女は数歩後ずさった。そして、背負っていた弓を素早く手に取る。矢をつがえ、ケンへ向けた。
「そこで止まって!」
ケンは足を止めた。少女は弓を構えたまま、鋭い声で問いかけた。
「私たち一族の領地で、何をしているんですか? 名乗ってください!」
ケンは何も言わなかった。片腕で弟を抱きしめ、空いている手を強く握りしめた。額の中心に、かすかな熱が集まり始める。胸の奥から、怒りがこみ上げてきた。
だが、ケンは目を閉じた。深く息を吸う。そして、ゆっくりと吐き出した。
今は、争っている場合ではなかった。
ケンは少女へ顔を向けた。
「……驚かせて悪かった」
少し間を置き、続けた。
「俺は佐藤ケン。ずっと遠い国から来たんだ」
弟をさらに胸元へ抱き寄せる。そのとき、頭の奥に、あの声が響いた。
『……ほう』
『眼』だった。
『これは面白い。実に純度の高い生命のエッセンスだ』
ケンの視線が、一瞬だけ少女へ向かった。
『弟を生かしておくために必要なものが、目の前にあるぞ。人間』
ケンは答えなかった。少女が再び声を上げた。
「その腕に抱えているのは、何ですか?」
弓の弦が、さらに強く引き絞られる。少女は一瞬たりともケンから目を離さなかった。しかし、ケンの意識はすでに『眼』の言葉へ向けられていた。
(……あの子の生命のエッセンスを?)
ケンは眉をひそめた。
(待てよ……)
少女を見つめる。
(もし、あの子から生命のエッセンスを奪ったら……)
胸の奥が、かすかに締めつけられた。
(あの子は、それでも生きられるのか?)
『眼』の声が、冷たく響いた。
『人間よ。そのようなことを聞いて、何になる?』
ケンは唇をかみしめた。
『あの程度の命に、そこまで気を遣う必要があるのか?』
(……質問に答えろ)
短く、強い言葉だった。『眼』はしばらく沈黙した。そして、面倒くさそうに答えた。
『この世界の人間は、お前たちの世界の人間とは違う。生命のエッセンスによって生を維持している』
ケンは黙って聞いていた。
『たとえそれをすべて奪われたとしても、すぐに死ぬわけではない』
一瞬、間が空いた。
『……一年だ』
ケンの目がわずかに見開かれた。
『生命のエッセンスを失った者も、あと一年は生きられる』
(……一年)
その言葉が、頭の中で繰り返された。ケンは弟を包むコートの端を、強く握りしめた。
(……ほかに、方法があるはずだ)
『眼』が低い声で答えた。
『お前の弟に残された生命のエッセンスは、ほとんど尽きかけている』
ケンの呼吸が、わずかに乱れた。
『時間はないぞ、人間』
ケンは何も答えなかった。やがて、ゆっくりと顔を上げた。目の前では、少女がまだ弓を構えていた。
「……俺が抱いているのは、弟なんだ」
ケンはコートを少し開き、リョウタの顔を見せた。
「弟は病気で……ずっと目を覚まさない」
少女の目が、わずかに動いた。
「助ける方法を探しているんだ。頼む……力を貸してくれないか?」
少女は、ケンを頭から足元まで見つめた。見慣れない服装。
抱きかかえられた小さな子供。そして、必死に助けを求める男の表情。しばらくして、少女が口を開いた。
「……西方の都市から来た人たちみたいな格好ですね」
彼女はリョウタへ視線を向けた。
「その子を、もう少し近くで見せてください」
ケンは数秒間ためらった。少女の顔を見つめる。それから、慎重に数歩近づいた。
少女はリョウタの顔をのぞき込んだ。その頬に、かすかな赤みが差した。やがて、ゆっくりと弓を下ろす。
「……この子、どうしたんですか?」
ケンは弟を見下ろした。
「事故に遭って……それからずっと、目を覚まさないんだ」
小さく息を吐いた。
「助けが必要なんだ」
少女はもう少し近づいた。そして、弓を背中へ戻した。警戒を完全に解いたわけではなかったが、その視線は次第にリョウタへ向けられていった。
少女はそっと手を伸ばし、指先でリョウタの頬に触れた。その顔を見つめたまま、しばらく動かなかった。やがて、何かを決意したように顔を上げた。
次の瞬間、少女は踵を返して荷車へ走っていった。
「……え?」
ケンは何が起きたのか分からず、その背中を見つめた。少女は荷車に乗り込み、積まれていた荷物を探し始めた。しばらくすると、大きな毛皮の外套を抱えて戻ってきた。少女自身が持つのにも苦労するほど、厚く重いものだった。
「こんな寒いところで、どうしてそんな格好をしているんですか!」
少女は外套をケンへ差し出した。
「これも、その子にかけてあげて! 早く!」
ケンは差し出された毛皮を受け取った。片腕でリョウタを支えながら、もう片方の手で厚い毛皮を広げる。そして、弟の身体を丁寧に包み込んだ。少女は荷車を指さした。
「早く乗ってください!」
ケンは小さくうなずいた。
「……ありがとう」
弟を強く抱きしめ、荷車の後方へ向かう。足元に気をつけながら乗り込み、リョウタを抱いたまま腰を下ろした。
しかし、少女はすぐには乗らなかった。まず周囲を見回した。雪に覆われた木々の間へ、慎重に視線を巡らせる。何かを確かめるように、しばらく森を見つめていた。
やがて、深く息を吸った。そして、荷車の前方へ回り込み、手綱を握った。
「ストームカッター!」
少女の声が、静かな森に響いた。
「月を追え!」
その声に応えるように、馬の脚の筋肉が力強く動いた。鼻先から吐き出された白い息が、冷たい空気の中へ広がる。
次の瞬間、ストームカッターは勢いよく歩き始めた。重い車輪が、雪を踏みしめながら回り出す。荷車はゆっくりと動き始め、やがて速度を上げていった。少女は後ろに座るケンへ声をかけた。
「一族が治める町までは、ここから二時間くらいです!」
風に負けないよう、声を張り上げる。
「止まらずに進めば、三日月が昇る前に着けるはずです!」
ケンは顔を上げた。吹きつける風の音に負けないよう、大きな声で答えた。
「本当にありがとう!」
そして、少しためらってから尋ねた。
「その町に、弟を助けられる人はいるか?」
少女はすぐには答えなかった。数秒間、前を向いたまま黙っていた。やがて、声を上げた。
「……分かりません!」
ケンの表情が曇った。しかし、少女は続けた。
「でも、きっと誰かいるはずです!」
ケンは何も言わなかった。静かに視線を落とす。腕の中では、リョウタが苦しそうに呼吸を繰り返していた。
先ほどまで頬に残っていた赤みが、少しずつ消えていく。顔色も、次第に青白くなっていた。ケンは弟の口元へ耳を近づけた。呼吸があまりにも弱く、音が聞こえるまで数秒かかった。
「……リョウタ」
そっと頬に触れる。
「もう少しだけ……」
ケンは毛皮を引き寄せ、弟を包み直した。
「もう少しだけ、頑張ってくれ……」
荷車は、雪に覆われた道を進み続けた。
しかし、時間はリョウタの味方ではなかった。
ケンはゆっくりと顔を上げ、荷車の前方に座る少女を見つめた。
二時間。
町までは、あと二時間もある。
(そこまで行けば……)
ケンは腕の中の弟を見下ろした。
(リョウタを助けられる人が、きっといるはずだ……)
そう信じたかった。しかし、『眼』が先ほど告げた言葉が、頭から離れなかった。
『弟に残された生命のエッセンスは、ほとんど尽きかけている』
ケンは唇をかみしめた。
(……間に合うのか?)
リョウタの呼吸は、少しずつ弱くなっている。ケンは毛皮の端を強く握りしめた。
そのとき、雪がさらに激しく降り始めた。冷たい風が森を吹き抜け、舞い上がった雪が荷車の周囲を覆っていく。木々の枝が大きく揺れ、道に残っていた車輪の跡も、新たに降り積もる雪に埋もれ始めた。
やがて、吹雪はますます激しくなった。前方の景色が、白い闇の中へ消えていく。ケンは身体をかがめた。
何重もの布と毛皮に包まれたリョウタの肩へ、そっと頭を寄せる。しばらく、そのまま動かなかった。
(……一年)
『眼』の言葉が、何度も頭の中で繰り返された。生命のエッセンスを失っても、あと一年は生きられる。ケンは目を閉じた。
(……一年あれば)
その考えが浮かんだ瞬間、ゆっくりと顔を上げた。
(それだけ時間があれば……二人とも助ける方法を見つけられるかもしれない)
弟も。
あの少女も。
どちらも、生きていられるかもしれない。
そのとき、意識の奥底から聞き覚えのある声が響いた。
『……ようやく理解し始めたようだな、人間』
『眼』だった。
『今のお前に、善悪など考えている余裕があるのか?』
ケンはわずかに顔を左へ向けた。
(……もし、そんなことをすれば)
少女の背中を見つめる。彼女は必死に手綱を握り、吹雪の中で馬を進ませていた。
(あの子は、俺を覚えているだろう)
ケンは眉をひそめた。
(自分に何をされたのか……一生忘れないかもしれない)
『眼』は低く笑った。
『心配する必要はない』
ケンは動きを止めた。
(……どういう意味だ?)
『生命のエッセンスを奪えば、あの娘から失われるのは未来だけではない』
一瞬、沈黙が訪れた。
『過去もだ』
ケンの眉が深く寄った。
(……過去?)
『何を言ってるんだ?』
『生命のエッセンスを失った者は、それまでの記憶をすべて失う』
ケンの目が大きく見開かれた。
(……記憶を?)
『そうだ』
『眼』の声には、何の感情もこもっていなかった。
『家族の顔も、育った場所も、これまで経験してきた出来事も……何一つ思い出せなくなる』
ケンは前方の少女を見つめた。自分たちを助けてくれた少女。見ず知らずの二人のために、危険な森の中で馬車を走らせている少女。
そんな彼女から、すべてを奪う。
ケンはゆっくりと視線を落とした。
(……どうして、そんなことができるんだよ)
返事の代わりに、『眼』の冷たい声が響いた。
『弟の命を救うためなら、安い代償ではないか』
ケンは何も答えなかった。少女の声が、吹雪の向こうから聞こえてくる。
馬を励ます、明るい声だった。ケンは腕の中の弟を見つめた。小さな胸は、今も弱々しく上下している。
(……リョウタ)
しばらくして、ケンは心の中で問いかけた。
(それで……生命のエッセンスは、どうやって移すんだ?)
『眼』はすぐに答えた。
『剣の切っ先を、あの娘の額に触れさせろ』
ケンは黙って聞いていた。
『剣を通して生命のエッセンスを奪い、別の肉体へ移すことができる』
そして、嘲るように付け加えた。
『もっとも、お前のような意志の弱い愚か者に、それができるとは思えんがな』
ケンは拳を握りしめた。何も言い返さなかった。ただ、リョウタの顔を見つめた。
(……一年)
あの少女に残される時間。
(それまでに……)
ケンはゆっくりと目を閉じた。
(あの子を助ける方法を見つければいいんだな……?)
返事はなかった。
(……おい)
沈黙。
ケンは小さく息を吐いた。そして、腕の中の弟を、さらに強く抱きしめた。
***
それから、およそ一時間半が過ぎていた。ストームカッターは、重い荷車を引きながら雪道を進み続けていた。
しかし、吹雪は一向に弱まらなかった。風に舞う雪が視界を遮り、前方の道を確かめることさえ難しくなっている。
ケンはその間、何度もリョウタの呼吸を確かめていた。少しでも様子が変われば、すぐに気づけるように。弟の顔から、目を離そうとはしなかった。
そのとき、前方に座っていた少女が、ふと思い出したように声を上げた。
「あっ、そういえば!」
ケンは顔を上げた。少女が少しだけ振り返る。
「私、まだ名前を言っていませんでしたね」
吹雪の中でも、その声は明るかった。
「私はエイラ。ルナール族を治めるシグルドの娘です」
ケンは黙って少女を見つめた。少女は微笑みながら続けた。
「あなたが抱いている子の名前は、何というんですか?」
「……リョウタ」
「リョウタ……」
エイラはその名前を、ゆっくりと繰り返した。そして、小さく微笑んだ。
「素敵な名前ですね」
ケンは弟へ視線を落とした。
「……ありがとう」
エイラは再び口を開いた。
「ところで、お二人は何歳なんですか?」
ケンは答えようとした。
しかし、その瞬間だった。
腕の中にいるリョウタの胸が、先ほどまでのように動いていないことに気づいた。
「……リョウタ?」
ケンは慌てて顔を近づけた。口元へ耳を寄せ、呼吸を確かめようとする。しかし、何も聞こえなかった。
「……リョウタ」
弟の頬に手を当てる。
「おい……聞こえてるか?」
返事はなかった。ケンの呼吸が速くなった。
「リョウタ!」
声が大きくなった。エイラは後ろから聞こえてきた声に驚き、振り返った。
「どうしたんですか!?」
ケンは答えなかった。ただ、弟の口元へ耳を寄せ続けていた。エイラは不安そうに顔を曇らせた。そして、前方へ視線を戻した。
「もう少しです! すぐに着きますから!」
馬を励まし、再び手綱を握り直した。
荷車は、吹雪の中を進み続けた。しばらくすると、風がほんの一瞬だけ弱まった。雪の幕が薄くなり、木々の向こうに淡い光が見えた。
一つ。
また一つ。
遠くに、いくつかの明かりが浮かんでいる。
エイラは顔を上げた。その表情が明るくなる。
「あっ! 見てください!」
前方を指さした。
「あそこに明かりが見えます!」
ケンも顔を上げた。木々の向こうに、確かに淡い光が見えた。町まで、もう遠くない。
そう思った、そのときだった。
ストームカッターの足取りが乱れた。馬は何度も頭を左右に振り、鼻から荒い息を吐き出した。荷車の重い車輪は、深く積もった雪に阻まれ、思うように回らなくなっていた。エイラは手綱を軽く引いた。
「ストームカッター……?」
馬は耳を後ろへ倒し、再び頭を振った。そして、前脚で雪を強く踏みつけた。エイラは手綱を緩め、落ち着かせようとした。
「お願い……もう少しだけ頑張って」
ストームカッターは、重い荷車を引きながら数歩進んだ。しかし、それ以上は動けなかった。馬が身体を後ろへ引くと、荷車につながれた革の帯が強く張り詰めた。車輪が雪の中で、最後に一度だけきしんだ。
そして、荷車は完全に止まった。
「ストームカッター! 前へ!」
エイラは声を張り上げた。しかし、馬は動かなかった。何度呼びかけても、その場から一歩も進もうとしない。エイラは困ったように息を吐いた。
「……今日はどうしたの?」
手綱を離し、荷車から降りた。深い雪を踏みしめながら、ストームカッターのそばへ歩いていく。首に手を当て、優しくなでた。
「大丈夫……落ち着いて」
しかし、馬は落ち着かなかった。何度も頭を振り、荒い息を吐き続けていた。エイラは荷車の車輪へ目を向けた。
車輪の下半分は、深い雪に埋もれていた。その周囲を調べてから、遠くに見える淡い光を見つめた。町は、もうそれほど遠くなかった。
荷車の後方では、ケンがリョウタを慎重に毛皮の上へ横たえていた。弟の顔を、もう一度確かめる。そして、荷車から降りた。
エイラはストームカッターのそばを離れ、荷車の後方へ歩いてきた。ケンの姿を見ると、困ったように眉を下げた。
「……もう、この子には無理みたいです」
エイラは動かなくなった荷車を振り返った。
「こんなに重い荷車を、これ以上引かせることはできません」
少し考えてから、ケンへ顔を向けた。
「荷車はここに置いていきましょう」
そして、ストームカッターを指さした。
「残りの道は、この子に乗って行けばいいです。二人なら、きっと町まで――」
ケンは何も言わなかった。ただ、少女を見つめていた。エイラは急かすように声を上げた。
「さあ、急ぎましょう! もうすぐそこですから――」
その言葉が、最後まで続くことはなかった。
ケンの右手が、突然伸びた。
その手が、エイラの喉をつかんだ。
「……っ!?」
少女が目を見開いた。次の瞬間、ケンは片腕だけで、その小さな身体を雪の上から持ち上げた。
「な……何を……!?」
エイラの声が、喉の奥で途切れた。足が地面から離れる。少女は必死に両手を伸ばし、ケンの手首をつかんだ。
「や……め……」
息ができなかった。指先に力を込め、何とかその手を引き離そうとする。しかし、ケンの腕はびくともしなかった。
その表情からは、何も読み取れなかった。先ほどまで助けを求めていた男とは、まるで別人のようだった。
エイラは必死に身体をよじった。しかし、どれほど抵抗しても、ケンの手は離れなかった。
そのとき――
ケンの左手のそばに、漆黒の剣が現れた。
何もなかった空間から、ゆっくりと刃が姿を現していく。ケンはその柄を握った。そして、剣の切っ先を少女の額へ近づけた。エイラは目を大きく見開いた。
「……や……!」
その声が、最後まで続くことはなかった。
冷たい刃先が、額に触れた。
次の瞬間、少女の身体から何かが失われ始めた。
目には見えない。
しかし、ケンには分かった。
生命のエッセンス。
それが、剣を通して少しずつ吸い取られていく。エイラの呼吸が、次第に弱くなった。ケンの手首をつかんでいた指が、ゆっくりと緩んでいく。
少女は残された力を振り絞り、背中の弓へ手を伸ばした。指先が、かろうじて弓に触れた。
だが、それだけだった。腕から力が抜け始めた。
まぶたが重くなる。視界が、少しずつ暗くなっていく。最後まで弓を握ることはできなかった。
やがて、少女の腕が力なく垂れ下がった。その小さな身体から、抵抗する力が失われた。
エイラは意識を失った。
ケンはしばらく少女を見つめていた。そして、ゆっくりと雪の上へ下ろした。少女の目は、閉じられたままだった。
ケンは何も言わなかった。ただ、剣を握り直した。そして、荷車へ向かった。
後方に横たわっていたリョウタのそばに膝をつく。毛皮を少し開き、弟の身体を慎重に抱き上げた。
「……リョウタ」
小さな顔を見つめる。返事はなかった。ケンは黒い剣へ視線を落とした。その刃には、先ほど奪い取った生命のエッセンスが宿っていた。
ケンは深く息を吸った。そして、意識を集中させた。剣の中に蓄えられた生命のエッセンスを、弟の身体へ送り込んでいく。
ゆっくりと。
少しずつ。
残さず、すべて。
ケンは弟を抱きしめたまま、その変化を待った。数秒が過ぎた。
何も起こらなかった。
「……リョウタ?」
ケンは弟の顔をのぞき込んだ。返事はなかった。吹雪の音だけが、荷車の外から聞こえてくる。ケンは唇をかみしめた。
「……頼む」
そのときだった。
リョウタの胸が、かすかに動いた。ゆっくりと、息を吸い込む。
そして、吐き出す。青白かった唇が、わずかに開いた。目は、まだ閉じられたままだった。
「……母さん……」
かすれた声が漏れた。ケンの動きが止まった。
「……兄ちゃん……」
その声は、あまりにも小さかった。吹きつける風の音に、かき消されてしまいそうなほど。それでも、ケンには確かに聞こえた。
「……リョウタ?」
目を大きく見開く。弟を、さらに自分の胸元へ引き寄せた。
「リョウタ……! 俺の声が聞こえるか!?」
しかし、返事はなかった。
リョウタの目は、依然として閉じられていた。意識が戻ったわけではなかった。
ただ、かすかに声を漏らしただけだった。それでも、ケンは弟を見つめ続けた。先ほどまで、呼吸さえ確かめられなかった。
今は違う。
小さな胸が、静かに上下している。
ケンは弟の頬に、そっと触れた。
「……兄ちゃんは、ここにいるぞ」
声が震えた。
「ちゃんと……ここにいるからな」
目から涙がこぼれ落ちた。ケンはリョウタを、もう一度強く抱きしめた。しばらく、そのまま動かなかった。
やがて、ゆっくりと身体を離した。弟を慎重に毛皮の上へ横たえる。寒さから守るように、何重にも布をかけ直した。
それから、荷車を降りた。冷たい風が、再び顔へ吹きつけてきた。ケンは目を細めた。雪は、まだ降り続いていた。
少し離れた場所には、エイラが横たわっていた。ケンは少女のそばへ歩み寄った。そして、静かに膝をついた。
エイラの目は閉じられていた。白い髪が、風に吹かれて雪の上に広がっている。ケンはしばらく、その顔を見つめていた。
やがて両腕を伸ばし、少女の小さな身体を抱き上げる。冷たい風に乱された白い髪を、片手でそっと整えた。指先が、しばらく髪に触れたままだった。
ケンは何も言わなかった。ただ、静かに立ち上がった。そして、荷車へ向かって歩き始めた。
そのとき、木々の向こうに淡い光が見えた。吹雪の中で、かすかに揺れている。ケンは足を止めた。
「……もう少しだ」
小さくつぶやいた。そして、再び歩き始めた。
荷車へ戻ると、エイラを慎重にリョウタの隣へ横たえた。二人の身体を近づけ、毛皮をかけ直す。
冷たい空気が入り込まないよう、布の端を丁寧に整えた。しばらく二人の顔を見つめたあと、荷車の後方にある覆いを閉じた。そして、ストームカッターのもとへ歩いていった。
馬はまだ落ち着かない様子で、時折頭を振っていた。ケンはそのそばに立ち、荷車につながれた革の帯へ手を伸ばした。一つずつ、留め具を外していく。
やがて、重い荷車からストームカッターを解放した。馬は身体を軽く揺らし、白い息を吐いた。ケンは手綱を緩め、荷車の側面へゆるく結びつけた。そして、前方へ回り込んだ。
荷車には、二本の太い引き棒が伸びていた。
ケンはその前に立った。両手を伸ばし、それぞれの引き棒をしっかりと握る。足を雪の中へ深く踏み込んだ。
そして、全身の力を込めて引いた。
しかし、車輪は動かなかった。
深く積もった雪に、重い車輪が埋もれていた。ケンは歯を食いしばった。腕に力を込める。
肩から背中にかけて、筋肉が大きく張り詰めた。もう一度、引いた。
ぎしっ……。
かすかな音がした。車輪が、ほんの少しだけ動いた。ケンは足を踏ん張り直した。そして、さらに強く引いた。
ぎしぎしっ……。
重い車輪が、雪を押し分けながらゆっくりと回り始めた。
荷車が動いた。
ケンはそのまま、一歩を踏み出した。続けて、もう一歩。足元の雪が、重みを受けて深く沈んでいく。車輪の下で押しつぶされる雪の音が、吹き荒れる風の音と混ざり合った。
ストームカッターは、もう荷車を引いていなかった。重い荷から解放された馬は、荷車のそばをゆっくりと歩いていた。ケンは顔を上げた。木々の向こうには、まだ淡い光が見えていた。
あそこまで行けば。
あの光のある場所へたどり着くことができれば。
ケンはそう考えながら、手に力を込めた。
荷車の後方には、二人の子供が横たわっていた。
リョウタ。
そして、エイラ。
どちらも、まだ目を覚まさない。
ケンは眉をひそめた。二本の引き棒を、さらに強く握りしめる。そして、雪の中を歩き続けた。
一歩。
また一歩。
踏み出すたびに、遠くの光が少しずつ近づいてくる。
ケンは、足を止めなかった。




