↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
内なる空虚  作者: Aswium
6/8

第6話「月を追え」

ケンの唇から、白い息がゆっくりとこぼれた。顔に触れる刺すような冷たさに、ケンは静かに目を開けた。


 空から、無数の白い粒が降っていた。そのうちのいくつかがまつ毛に触れ、体温で溶けていく。


 ケンは再び目を閉じ、深く息を吸った。冷たい空気が肺の奥まで流れ込んできた。


(……ここは、どこだ?)


 まるで見覚えのない場所だった。ゆっくりと上体を起こし、辺りを見回す。すると、すぐそばに横たわる小さな身体が目に入った。


「……リョウタ!」


 弟は黒い剣の向こう側で、身動き一つせずに倒れていた。ケンは慌てて両手を雪につき、立ち上がろうとした。


 しかし、その瞬間、奇妙な感覚に襲われた。


 身体が、思っていたよりもずっと軽かったのだ。ほとんど力を込めていないにもかかわらず、身体は驚くほど簡単に持ち上がった。ケンは思わず動きを止めた。


(……何だ、これ?)


 手足の感覚がおかしい。いや、おかしいというより、以前とは明らかに違っていた。


 だが、今はそれどころではなかった。


 ケンはすぐに弟のそばへ駆け寄った。雪の上に膝をつき、両腕を伸ばす。冷え切った小さな身体を慎重に抱き上げると、身にまとっていた黒いコートの前を開き、リョウタを胸元へ引き寄せた。少しでも冷たい風から守ろうとするように、強く抱きしめる。


 そのとき、ふと自分の服装に目が留まった。


「……待てよ」


 黒いコートを見下ろす。


「俺、いつからこんなものを着てたんだ……?」


 今まで着ていた服とは、まるで違っていた。


 ケンは片腕でリョウタを支えながら、もう片方の腕へ視線を向けた。指をゆっくりと開く。そして、握りしめる。もう一度、同じ動きを繰り返した。


 以前なら意識することもなかった、ただそれだけの動作。


 それなのに、筋肉の動きも、指先に伝わる感覚も、何もかもが違っていた。


「身体が……」


 ケンは自分の手を見つめた。


「前とは、違う……」


 数秒間、動かなかった。やがて、顔を上げた。


「おい……!」


 返事はなかった。


「俺に何をした!?」


 雪に覆われた森へ向かって叫んだ。その瞬間、頭の奥に聞き覚えのある声が響いた。


『礼の一つも言えないのか? 人間』


 冷たく、相手を見下すような声だった。


『この世界で、以前のお前の肉体がどれほど持つと思っていた? 愚か者め。進化の結果を黙って受け入れろ』


 ケンは歯を食いしばった。その声の主が誰なのか、考えるまでもなかった。


 『眼』だった。


 ケンは腕の中のリョウタへ視線を落とした。弟の目は閉じられたままだった。かすかに呼吸はしているものの、その身体はひどく弱々しく見えた。


「……それで」


 ケンは小さく息を吐いた。


「俺は、これからどうすればいい?」


 返事はなかった。しばらく待った。


「おい、聞いてるのか?」


 沈黙。


「どこへ行けばいいんだよ……?」


 答える声はなかった。ケンは苛立ったように眉をひそめた。


「……くそっ」


 足元にあった黒い剣へ手を伸ばし、拾い上げる。数秒間、漆黒の刃を見つめた。


「まさか……この中にいるのか?」


 返事はなかった。ケンは深いため息をついた。


 周囲を見回す。見渡す限り、雪に覆われた木々が続いていた。枝には厚く雪が積もり、ときおり吹きつける風によって、白い塊が音もなく地面へ落ちていく。どちらへ進んでも、同じ景色が広がっているように見えた。


 道らしい道もない。


 人の気配もなかった。


 ケンは腕の中のリョウタを抱き直し、森の奥へ向かって歩き始めた。弟の口元から漏れる弱々しい息が、白い霧となってケンの顔に触れた。


「……あの馬鹿眼、どこに行きやがった」


 足元の雪を踏みしめる。


「行き先すら分からないってのに……」


 ケンは顔を伏せ、弟を見つめた。リョウタは、まだ眠ったままだった。


「……頑張れよ、リョウタ」


 小さな顔に、そっと目を向ける。


「絶対に、暖かい場所を見つけてやるからな」


 しばらく歩いたところで、ケンは大きな木のそばに足を止めた。冷たい風が、容赦なく吹きつけてくる。ケンは慎重にしゃがみ込み、弟を雪の上へそっと横たえた。


 そして、自分が着ていた黒いコートを脱いだ。片手でリョウタの身体を支え、もう片方の手でコートを広げる。冷気が入り込まないよう、弟の身体を丁寧に包み込んだ。露出していた部分をできる限り覆い、再び抱き上げる。


「……これで少しはましだろ」


 ケンは周囲を見回した。風を避けられる場所を探す。


 しかし、視界に入るのは雪と木々ばかりだった。どこまで歩けば森を抜けられるのかも分からない。


 そのときだった。


 遠くから、かすかな音が聞こえてきた。ケンは顔を上げた。


(……何だ?)


 耳を澄ませる。何かが、こちらへ近づいていた。最初は風の音に紛れていたが、次第にはっきりと聞こえるようになった。


 重い車輪が雪を踏みしめる音。


 そして、一定の間隔で響く蹄の音。


(……馬?)


 ケンはリョウタを片腕で胸元へ抱き寄せ、もう片方の手に持った黒い剣を音のする方向へ向けた。まだ、何も見えなかった。


 しかし、音は確実に近づいてきていた。ケンは素早く近くの木の陰へ移動した。弟をしっかりと抱きしめたまま、慎重に顔をのぞかせる。


 そして、目を見開いた。


 そこには、大きな馬がいた。


 力強い脚と堂々とした体格を持ち、雪の積もった道を進んでいる。その後ろには、荷物を積んだ大きな荷車がつながれていた。重い車輪が雪を押し分けながら回り、馬は白い息を吐きながら進んでいく。


「……馬車?」


 ケンは思わずつぶやいた。こんな森の中で、まさか馬車に出会うとは思ってもいなかった。しばらく、木の陰から様子をうかがった。


 荷車がすぐそばを通りかかろうとした、そのとき――


 ケンは木の陰から姿を現した。


「おい! ちょっと待ってくれ!」


 声が雪の森に響いた。馬が驚いたように頭を上げ、荷車が急停止した。ケンは剣を下ろした。


 やがて、荷車から一人の少女が降りてきた。


 白い髪をした少女だった。


 ケンの胸に、わずかな安堵が広がった。この見知らぬ森で、ようやく人と出会えたのだ。弟を抱いたまま、少女へ向かって数歩近づく。しかし、少女の表情が険しくなった。


 ケンの姿を見た瞬間、彼女は数歩後ずさった。そして、背負っていた弓を素早く手に取る。矢をつがえ、ケンへ向けた。


「そこで止まって!」


 ケンは足を止めた。少女は弓を構えたまま、鋭い声で問いかけた。


「私たち一族の領地で、何をしているんですか? 名乗ってください!」


 ケンは何も言わなかった。片腕で弟を抱きしめ、空いている手を強く握りしめた。額の中心に、かすかな熱が集まり始める。胸の奥から、怒りがこみ上げてきた。


 だが、ケンは目を閉じた。深く息を吸う。そして、ゆっくりと吐き出した。


 今は、争っている場合ではなかった。


 ケンは少女へ顔を向けた。


「……驚かせて悪かった」


 少し間を置き、続けた。


「俺は佐藤ケン。ずっと遠い国から来たんだ」


 弟をさらに胸元へ抱き寄せる。そのとき、頭の奥に、あの声が響いた。


『……ほう』


 『眼』だった。


『これは面白い。実に純度の高い生命のエッセンスだ』


 ケンの視線が、一瞬だけ少女へ向かった。


『弟を生かしておくために必要なものが、目の前にあるぞ。人間』


 ケンは答えなかった。少女が再び声を上げた。


「その腕に抱えているのは、何ですか?」


 弓の弦が、さらに強く引き絞られる。少女は一瞬たりともケンから目を離さなかった。しかし、ケンの意識はすでに『眼』の言葉へ向けられていた。


(……あの子の生命のエッセンスを?)


 ケンは眉をひそめた。


(待てよ……)


 少女を見つめる。


(もし、あの子から生命のエッセンスを奪ったら……)


 胸の奥が、かすかに締めつけられた。


(あの子は、それでも生きられるのか?)


 『眼』の声が、冷たく響いた。


『人間よ。そのようなことを聞いて、何になる?』


 ケンは唇をかみしめた。


『あの程度の命に、そこまで気を遣う必要があるのか?』


(……質問に答えろ)


 短く、強い言葉だった。『眼』はしばらく沈黙した。そして、面倒くさそうに答えた。


『この世界の人間は、お前たちの世界の人間とは違う。生命のエッセンスによって生を維持している』


 ケンは黙って聞いていた。


『たとえそれをすべて奪われたとしても、すぐに死ぬわけではない』


 一瞬、間が空いた。


『……一年だ』


 ケンの目がわずかに見開かれた。


『生命のエッセンスを失った者も、あと一年は生きられる』


(……一年)


 その言葉が、頭の中で繰り返された。ケンは弟を包むコートの端を、強く握りしめた。


(……ほかに、方法があるはずだ)


 『眼』が低い声で答えた。


『お前の弟に残された生命のエッセンスは、ほとんど尽きかけている』


 ケンの呼吸が、わずかに乱れた。


『時間はないぞ、人間』


 ケンは何も答えなかった。やがて、ゆっくりと顔を上げた。目の前では、少女がまだ弓を構えていた。


「……俺が抱いているのは、弟なんだ」


 ケンはコートを少し開き、リョウタの顔を見せた。


「弟は病気で……ずっと目を覚まさない」


 少女の目が、わずかに動いた。


「助ける方法を探しているんだ。頼む……力を貸してくれないか?」


 少女は、ケンを頭から足元まで見つめた。見慣れない服装。


 抱きかかえられた小さな子供。そして、必死に助けを求める男の表情。しばらくして、少女が口を開いた。


「……西方の都市から来た人たちみたいな格好ですね」


 彼女はリョウタへ視線を向けた。


「その子を、もう少し近くで見せてください」


 ケンは数秒間ためらった。少女の顔を見つめる。それから、慎重に数歩近づいた。


 少女はリョウタの顔をのぞき込んだ。その頬に、かすかな赤みが差した。やがて、ゆっくりと弓を下ろす。


「……この子、どうしたんですか?」


 ケンは弟を見下ろした。


「事故に遭って……それからずっと、目を覚まさないんだ」


 小さく息を吐いた。


「助けが必要なんだ」


 少女はもう少し近づいた。そして、弓を背中へ戻した。警戒を完全に解いたわけではなかったが、その視線は次第にリョウタへ向けられていった。


 少女はそっと手を伸ばし、指先でリョウタの頬に触れた。その顔を見つめたまま、しばらく動かなかった。やがて、何かを決意したように顔を上げた。


 次の瞬間、少女は踵を返して荷車へ走っていった。


「……え?」


 ケンは何が起きたのか分からず、その背中を見つめた。少女は荷車に乗り込み、積まれていた荷物を探し始めた。しばらくすると、大きな毛皮の外套を抱えて戻ってきた。少女自身が持つのにも苦労するほど、厚く重いものだった。


「こんな寒いところで、どうしてそんな格好をしているんですか!」


 少女は外套をケンへ差し出した。


「これも、その子にかけてあげて! 早く!」


 ケンは差し出された毛皮を受け取った。片腕でリョウタを支えながら、もう片方の手で厚い毛皮を広げる。そして、弟の身体を丁寧に包み込んだ。少女は荷車を指さした。


「早く乗ってください!」


 ケンは小さくうなずいた。


「……ありがとう」


 弟を強く抱きしめ、荷車の後方へ向かう。足元に気をつけながら乗り込み、リョウタを抱いたまま腰を下ろした。


 しかし、少女はすぐには乗らなかった。まず周囲を見回した。雪に覆われた木々の間へ、慎重に視線を巡らせる。何かを確かめるように、しばらく森を見つめていた。


 やがて、深く息を吸った。そして、荷車の前方へ回り込み、手綱を握った。


「ストームカッター!」


 少女の声が、静かな森に響いた。


「月を追え!」


 その声に応えるように、馬の脚の筋肉が力強く動いた。鼻先から吐き出された白い息が、冷たい空気の中へ広がる。


 次の瞬間、ストームカッターは勢いよく歩き始めた。重い車輪が、雪を踏みしめながら回り出す。荷車はゆっくりと動き始め、やがて速度を上げていった。少女は後ろに座るケンへ声をかけた。


「一族が治める町までは、ここから二時間くらいです!」


 風に負けないよう、声を張り上げる。


「止まらずに進めば、三日月が昇る前に着けるはずです!」


 ケンは顔を上げた。吹きつける風の音に負けないよう、大きな声で答えた。


「本当にありがとう!」


 そして、少しためらってから尋ねた。


「その町に、弟を助けられる人はいるか?」


 少女はすぐには答えなかった。数秒間、前を向いたまま黙っていた。やがて、声を上げた。


「……分かりません!」


 ケンの表情が曇った。しかし、少女は続けた。


「でも、きっと誰かいるはずです!」


 ケンは何も言わなかった。静かに視線を落とす。腕の中では、リョウタが苦しそうに呼吸を繰り返していた。


 先ほどまで頬に残っていた赤みが、少しずつ消えていく。顔色も、次第に青白くなっていた。ケンは弟の口元へ耳を近づけた。呼吸があまりにも弱く、音が聞こえるまで数秒かかった。


「……リョウタ」


 そっと頬に触れる。


「もう少しだけ……」


 ケンは毛皮を引き寄せ、弟を包み直した。


「もう少しだけ、頑張ってくれ……」


 荷車は、雪に覆われた道を進み続けた。


 しかし、時間はリョウタの味方ではなかった。


 ケンはゆっくりと顔を上げ、荷車の前方に座る少女を見つめた。


 二時間。


 町までは、あと二時間もある。


(そこまで行けば……)


 ケンは腕の中の弟を見下ろした。


(リョウタを助けられる人が、きっといるはずだ……)


 そう信じたかった。しかし、『眼』が先ほど告げた言葉が、頭から離れなかった。


『弟に残された生命のエッセンスは、ほとんど尽きかけている』


 ケンは唇をかみしめた。


(……間に合うのか?)


 リョウタの呼吸は、少しずつ弱くなっている。ケンは毛皮の端を強く握りしめた。


 そのとき、雪がさらに激しく降り始めた。冷たい風が森を吹き抜け、舞い上がった雪が荷車の周囲を覆っていく。木々の枝が大きく揺れ、道に残っていた車輪の跡も、新たに降り積もる雪に埋もれ始めた。


 やがて、吹雪はますます激しくなった。前方の景色が、白い闇の中へ消えていく。ケンは身体をかがめた。


 何重もの布と毛皮に包まれたリョウタの肩へ、そっと頭を寄せる。しばらく、そのまま動かなかった。


(……一年)


 『眼』の言葉が、何度も頭の中で繰り返された。生命のエッセンスを失っても、あと一年は生きられる。ケンは目を閉じた。


(……一年あれば)


 その考えが浮かんだ瞬間、ゆっくりと顔を上げた。


(それだけ時間があれば……二人とも助ける方法を見つけられるかもしれない)


 弟も。


 あの少女も。


 どちらも、生きていられるかもしれない。


 そのとき、意識の奥底から聞き覚えのある声が響いた。


『……ようやく理解し始めたようだな、人間』


 『眼』だった。


『今のお前に、善悪など考えている余裕があるのか?』


 ケンはわずかに顔を左へ向けた。


(……もし、そんなことをすれば)


 少女の背中を見つめる。彼女は必死に手綱を握り、吹雪の中で馬を進ませていた。


(あの子は、俺を覚えているだろう)


 ケンは眉をひそめた。


(自分に何をされたのか……一生忘れないかもしれない)


 『眼』は低く笑った。


『心配する必要はない』


 ケンは動きを止めた。


(……どういう意味だ?)


『生命のエッセンスを奪えば、あの娘から失われるのは未来だけではない』


 一瞬、沈黙が訪れた。


『過去もだ』


 ケンの眉が深く寄った。


(……過去?)


『何を言ってるんだ?』


『生命のエッセンスを失った者は、それまでの記憶をすべて失う』


 ケンの目が大きく見開かれた。


(……記憶を?)


『そうだ』


 『眼』の声には、何の感情もこもっていなかった。


『家族の顔も、育った場所も、これまで経験してきた出来事も……何一つ思い出せなくなる』


 ケンは前方の少女を見つめた。自分たちを助けてくれた少女。見ず知らずの二人のために、危険な森の中で馬車を走らせている少女。


 そんな彼女から、すべてを奪う。


 ケンはゆっくりと視線を落とした。


(……どうして、そんなことができるんだよ)


 返事の代わりに、『眼』の冷たい声が響いた。


『弟の命を救うためなら、安い代償ではないか』


 ケンは何も答えなかった。少女の声が、吹雪の向こうから聞こえてくる。


 馬を励ます、明るい声だった。ケンは腕の中の弟を見つめた。小さな胸は、今も弱々しく上下している。


(……リョウタ)


 しばらくして、ケンは心の中で問いかけた。


(それで……生命のエッセンスは、どうやって移すんだ?)


 『眼』はすぐに答えた。


『剣の切っ先を、あの娘の額に触れさせろ』


 ケンは黙って聞いていた。


『剣を通して生命のエッセンスを奪い、別の肉体へ移すことができる』


 そして、嘲るように付け加えた。


『もっとも、お前のような意志の弱い愚か者に、それができるとは思えんがな』


 ケンは拳を握りしめた。何も言い返さなかった。ただ、リョウタの顔を見つめた。


(……一年)


 あの少女に残される時間。


(それまでに……)


 ケンはゆっくりと目を閉じた。


(あの子を助ける方法を見つければいいんだな……?)


 返事はなかった。


(……おい)


 沈黙。


 ケンは小さく息を吐いた。そして、腕の中の弟を、さらに強く抱きしめた。


***


 それから、およそ一時間半が過ぎていた。ストームカッターは、重い荷車を引きながら雪道を進み続けていた。


 しかし、吹雪は一向に弱まらなかった。風に舞う雪が視界を遮り、前方の道を確かめることさえ難しくなっている。


 ケンはその間、何度もリョウタの呼吸を確かめていた。少しでも様子が変われば、すぐに気づけるように。弟の顔から、目を離そうとはしなかった。


 そのとき、前方に座っていた少女が、ふと思い出したように声を上げた。


「あっ、そういえば!」


 ケンは顔を上げた。少女が少しだけ振り返る。


「私、まだ名前を言っていませんでしたね」


 吹雪の中でも、その声は明るかった。


「私はエイラ。ルナール族を治めるシグルドの娘です」


 ケンは黙って少女を見つめた。少女は微笑みながら続けた。


「あなたが抱いている子の名前は、何というんですか?」


「……リョウタ」


「リョウタ……」


 エイラはその名前を、ゆっくりと繰り返した。そして、小さく微笑んだ。


「素敵な名前ですね」


 ケンは弟へ視線を落とした。


「……ありがとう」


 エイラは再び口を開いた。


「ところで、お二人は何歳なんですか?」


 ケンは答えようとした。


 しかし、その瞬間だった。


 腕の中にいるリョウタの胸が、先ほどまでのように動いていないことに気づいた。


「……リョウタ?」


 ケンは慌てて顔を近づけた。口元へ耳を寄せ、呼吸を確かめようとする。しかし、何も聞こえなかった。


「……リョウタ」


 弟の頬に手を当てる。


「おい……聞こえてるか?」


 返事はなかった。ケンの呼吸が速くなった。


「リョウタ!」


 声が大きくなった。エイラは後ろから聞こえてきた声に驚き、振り返った。


「どうしたんですか!?」


 ケンは答えなかった。ただ、弟の口元へ耳を寄せ続けていた。エイラは不安そうに顔を曇らせた。そして、前方へ視線を戻した。


「もう少しです! すぐに着きますから!」


 馬を励まし、再び手綱を握り直した。


 荷車は、吹雪の中を進み続けた。しばらくすると、風がほんの一瞬だけ弱まった。雪の幕が薄くなり、木々の向こうに淡い光が見えた。


 一つ。


 また一つ。


 遠くに、いくつかの明かりが浮かんでいる。


 エイラは顔を上げた。その表情が明るくなる。


「あっ! 見てください!」


 前方を指さした。


「あそこに明かりが見えます!」


 ケンも顔を上げた。木々の向こうに、確かに淡い光が見えた。町まで、もう遠くない。


 そう思った、そのときだった。


 ストームカッターの足取りが乱れた。馬は何度も頭を左右に振り、鼻から荒い息を吐き出した。荷車の重い車輪は、深く積もった雪に阻まれ、思うように回らなくなっていた。エイラは手綱を軽く引いた。


「ストームカッター……?」


 馬は耳を後ろへ倒し、再び頭を振った。そして、前脚で雪を強く踏みつけた。エイラは手綱を緩め、落ち着かせようとした。


「お願い……もう少しだけ頑張って」


 ストームカッターは、重い荷車を引きながら数歩進んだ。しかし、それ以上は動けなかった。馬が身体を後ろへ引くと、荷車につながれた革の帯が強く張り詰めた。車輪が雪の中で、最後に一度だけきしんだ。


 そして、荷車は完全に止まった。


「ストームカッター! 前へ!」


 エイラは声を張り上げた。しかし、馬は動かなかった。何度呼びかけても、その場から一歩も進もうとしない。エイラは困ったように息を吐いた。


「……今日はどうしたの?」


 手綱を離し、荷車から降りた。深い雪を踏みしめながら、ストームカッターのそばへ歩いていく。首に手を当て、優しくなでた。


「大丈夫……落ち着いて」


 しかし、馬は落ち着かなかった。何度も頭を振り、荒い息を吐き続けていた。エイラは荷車の車輪へ目を向けた。


 車輪の下半分は、深い雪に埋もれていた。その周囲を調べてから、遠くに見える淡い光を見つめた。町は、もうそれほど遠くなかった。


 荷車の後方では、ケンがリョウタを慎重に毛皮の上へ横たえていた。弟の顔を、もう一度確かめる。そして、荷車から降りた。


 エイラはストームカッターのそばを離れ、荷車の後方へ歩いてきた。ケンの姿を見ると、困ったように眉を下げた。


「……もう、この子には無理みたいです」


 エイラは動かなくなった荷車を振り返った。


「こんなに重い荷車を、これ以上引かせることはできません」


 少し考えてから、ケンへ顔を向けた。


「荷車はここに置いていきましょう」


 そして、ストームカッターを指さした。


「残りの道は、この子に乗って行けばいいです。二人なら、きっと町まで――」


 ケンは何も言わなかった。ただ、少女を見つめていた。エイラは急かすように声を上げた。


「さあ、急ぎましょう! もうすぐそこですから――」


 その言葉が、最後まで続くことはなかった。


 ケンの右手が、突然伸びた。


 その手が、エイラの喉をつかんだ。


「……っ!?」


 少女が目を見開いた。次の瞬間、ケンは片腕だけで、その小さな身体を雪の上から持ち上げた。


「な……何を……!?」


 エイラの声が、喉の奥で途切れた。足が地面から離れる。少女は必死に両手を伸ばし、ケンの手首をつかんだ。


「や……め……」


 息ができなかった。指先に力を込め、何とかその手を引き離そうとする。しかし、ケンの腕はびくともしなかった。


 その表情からは、何も読み取れなかった。先ほどまで助けを求めていた男とは、まるで別人のようだった。


 エイラは必死に身体をよじった。しかし、どれほど抵抗しても、ケンの手は離れなかった。


 そのとき――


 ケンの左手のそばに、漆黒の剣が現れた。


 何もなかった空間から、ゆっくりと刃が姿を現していく。ケンはその柄を握った。そして、剣の切っ先を少女の額へ近づけた。エイラは目を大きく見開いた。


「……や……!」


 その声が、最後まで続くことはなかった。


 冷たい刃先が、額に触れた。


 次の瞬間、少女の身体から何かが失われ始めた。


 目には見えない。


 しかし、ケンには分かった。


 生命のエッセンス。


 それが、剣を通して少しずつ吸い取られていく。エイラの呼吸が、次第に弱くなった。ケンの手首をつかんでいた指が、ゆっくりと緩んでいく。


 少女は残された力を振り絞り、背中の弓へ手を伸ばした。指先が、かろうじて弓に触れた。


 だが、それだけだった。腕から力が抜け始めた。


 まぶたが重くなる。視界が、少しずつ暗くなっていく。最後まで弓を握ることはできなかった。


 やがて、少女の腕が力なく垂れ下がった。その小さな身体から、抵抗する力が失われた。


 エイラは意識を失った。


 ケンはしばらく少女を見つめていた。そして、ゆっくりと雪の上へ下ろした。少女の目は、閉じられたままだった。


 ケンは何も言わなかった。ただ、剣を握り直した。そして、荷車へ向かった。


 後方に横たわっていたリョウタのそばに膝をつく。毛皮を少し開き、弟の身体を慎重に抱き上げた。


「……リョウタ」


 小さな顔を見つめる。返事はなかった。ケンは黒い剣へ視線を落とした。その刃には、先ほど奪い取った生命のエッセンスが宿っていた。


 ケンは深く息を吸った。そして、意識を集中させた。剣の中に蓄えられた生命のエッセンスを、弟の身体へ送り込んでいく。


 ゆっくりと。


 少しずつ。


 残さず、すべて。


 ケンは弟を抱きしめたまま、その変化を待った。数秒が過ぎた。


 何も起こらなかった。


「……リョウタ?」


 ケンは弟の顔をのぞき込んだ。返事はなかった。吹雪の音だけが、荷車の外から聞こえてくる。ケンは唇をかみしめた。


「……頼む」


 そのときだった。


 リョウタの胸が、かすかに動いた。ゆっくりと、息を吸い込む。


 そして、吐き出す。青白かった唇が、わずかに開いた。目は、まだ閉じられたままだった。


「……母さん……」


 かすれた声が漏れた。ケンの動きが止まった。


「……兄ちゃん……」


 その声は、あまりにも小さかった。吹きつける風の音に、かき消されてしまいそうなほど。それでも、ケンには確かに聞こえた。


「……リョウタ?」


 目を大きく見開く。弟を、さらに自分の胸元へ引き寄せた。


「リョウタ……! 俺の声が聞こえるか!?」


 しかし、返事はなかった。


 リョウタの目は、依然として閉じられていた。意識が戻ったわけではなかった。


 ただ、かすかに声を漏らしただけだった。それでも、ケンは弟を見つめ続けた。先ほどまで、呼吸さえ確かめられなかった。


 今は違う。


 小さな胸が、静かに上下している。


 ケンは弟の頬に、そっと触れた。


「……兄ちゃんは、ここにいるぞ」


 声が震えた。


「ちゃんと……ここにいるからな」


 目から涙がこぼれ落ちた。ケンはリョウタを、もう一度強く抱きしめた。しばらく、そのまま動かなかった。


 やがて、ゆっくりと身体を離した。弟を慎重に毛皮の上へ横たえる。寒さから守るように、何重にも布をかけ直した。


 それから、荷車を降りた。冷たい風が、再び顔へ吹きつけてきた。ケンは目を細めた。雪は、まだ降り続いていた。


 少し離れた場所には、エイラが横たわっていた。ケンは少女のそばへ歩み寄った。そして、静かに膝をついた。


 エイラの目は閉じられていた。白い髪が、風に吹かれて雪の上に広がっている。ケンはしばらく、その顔を見つめていた。


 やがて両腕を伸ばし、少女の小さな身体を抱き上げる。冷たい風に乱された白い髪を、片手でそっと整えた。指先が、しばらく髪に触れたままだった。


 ケンは何も言わなかった。ただ、静かに立ち上がった。そして、荷車へ向かって歩き始めた。


 そのとき、木々の向こうに淡い光が見えた。吹雪の中で、かすかに揺れている。ケンは足を止めた。


「……もう少しだ」


 小さくつぶやいた。そして、再び歩き始めた。


 荷車へ戻ると、エイラを慎重にリョウタの隣へ横たえた。二人の身体を近づけ、毛皮をかけ直す。


 冷たい空気が入り込まないよう、布の端を丁寧に整えた。しばらく二人の顔を見つめたあと、荷車の後方にある覆いを閉じた。そして、ストームカッターのもとへ歩いていった。


 馬はまだ落ち着かない様子で、時折頭を振っていた。ケンはそのそばに立ち、荷車につながれた革の帯へ手を伸ばした。一つずつ、留め具を外していく。


 やがて、重い荷車からストームカッターを解放した。馬は身体を軽く揺らし、白い息を吐いた。ケンは手綱を緩め、荷車の側面へゆるく結びつけた。そして、前方へ回り込んだ。


 荷車には、二本の太い引き棒が伸びていた。


 ケンはその前に立った。両手を伸ばし、それぞれの引き棒をしっかりと握る。足を雪の中へ深く踏み込んだ。


 そして、全身の力を込めて引いた。


 しかし、車輪は動かなかった。


 深く積もった雪に、重い車輪が埋もれていた。ケンは歯を食いしばった。腕に力を込める。


 肩から背中にかけて、筋肉が大きく張り詰めた。もう一度、引いた。


 ぎしっ……。


 かすかな音がした。車輪が、ほんの少しだけ動いた。ケンは足を踏ん張り直した。そして、さらに強く引いた。


 ぎしぎしっ……。


 重い車輪が、雪を押し分けながらゆっくりと回り始めた。


 荷車が動いた。


 ケンはそのまま、一歩を踏み出した。続けて、もう一歩。足元の雪が、重みを受けて深く沈んでいく。車輪の下で押しつぶされる雪の音が、吹き荒れる風の音と混ざり合った。


 ストームカッターは、もう荷車を引いていなかった。重い荷から解放された馬は、荷車のそばをゆっくりと歩いていた。ケンは顔を上げた。木々の向こうには、まだ淡い光が見えていた。


 あそこまで行けば。


 あの光のある場所へたどり着くことができれば。


 ケンはそう考えながら、手に力を込めた。


 荷車の後方には、二人の子供が横たわっていた。


 リョウタ。


 そして、エイラ。


 どちらも、まだ目を覚まさない。


 ケンは眉をひそめた。二本の引き棒を、さらに強く握りしめる。そして、雪の中を歩き続けた。


 一歩。


 また一歩。


 踏み出すたびに、遠くの光が少しずつ近づいてくる。


 ケンは、足を止めなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。