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内なる空虚  作者: Aswium
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第5話「沈黙の後」

ヘリコプターのローター音が、空に轟いていた。


 激しい振動に揺れる機内で、記者はヘッドセットの位置を直し、カメラに向き直った。


「現在、私たちは日本の長野県上空を飛行しています。原因不明の大災害が発生してから、すでに数時間が経過しました。しかし、眼下に広がっている光景は……」


 記者の言葉が途切れた。数秒間、沈黙が続いた。やがて、記者はカメラから視線を外し、窓の外へ目を向けた。カメラもゆっくりと動き、ヘリコプターの窓越しに広がる大地を映し出した。


「……申し訳ありません。目の前の光景を、どう言葉にすればいいのか分かりません」


 その声には、隠しきれない動揺がにじんでいた。


 かつて、この地域には町があった。森林が広がり、道路が走り、数え切れないほどの人々が暮らしていた。


 しかし、今は違った。


 見渡す限り、平坦な大地が広がっていた。


 建物はない。道路もない。木々も、その痕跡さえ残っていない。


 災害が発生した地域では、山々の一部までもが消え去っていた。まるで、その場所に存在していたものが、何もかも一瞬で取り除かれてしまったかのようだった。


 記者は震える息を吐き、再びカメラへ顔を向けた。


「当局は、被害が中心地点から半径およそ百キロメートルに及んでいる可能性があるとみています。ただし、正確な被害範囲については、現在も調査が続けられています」


 手元の資料に目を落とす。


「被災地域内の居住地区とは、完全に連絡が取れなくなっています。行方不明者の数も把握できておらず、政府から正式な死者数の発表はありません」


 記者は一度、言葉を区切った。そして、窓の外へ視線を戻した。


 そこには、あまりにも不自然な静けさが広がっていた。破壊された建物の残骸すら、見当たらない。何が起きれば、これほど広大な地域から、あらゆるものが消えてしまうのだろうか。


 そのとき、ヘッドセット越しにパイロットの声が響いた。


『これ以上は近づけません。引き返します』


 記者はすぐに顔を向けた。


「何か見えたんですか?」


 パイロットは、しばらく答えなかった。操縦桿を握ったまま、眼下の大地を見つめている。やがて、ゆっくりと機体の進路を変えた。


『……いいえ』


 短い返事だった。


『下を見てください』


 カメラが再び地上へ向けられた。映し出されたのは、地平線の果てまで続く、むき出しの大地だった。そこには、町の面影も、森林の痕跡もなかった。


 まるで――


 初めから、何も存在していなかったかのように。


***


 その頃、東京では――


 薄暗いマンションの一室で、テレビの明かりだけが静かに揺れていた。窓際に立つ中年の男は、外の景色を眺めていた。机の上には、湯気の立つコーヒーが置かれている。しかし、男は一口も飲んでいなかった。


 窓の向こうには、いつもと変わらない東京の街並みが広がっていた。信号機が色を変え、人々が横断歩道を渡っていく。車が通りを走り、店の前では誰かが立ち話をしていた。


 ごく当たり前の日常だった。


 男はしばらくその光景を見つめていた。そして、ゆっくりとテレビへ視線を戻した。


『政府は今回の事態について、いまだ正式な声明を発表していません。現地からの報告によりますと、被災地域の中心部を捉えた映像についても、現在まで確認されていないということです』


 画面には、再び長野県上空から撮影された映像が映し出されていた。ニュースキャスターは続けた。


『また、新たな情報です。国連の緊急援助調整官、ジョン・クラーク氏が日本の外務省と連絡を取り、今回の危機的状況を注視していることが明らかになりました。今後も新たな情報が入り次第、お伝えします』


 男は窓際から離れ、机へ歩み寄った。机の上には、日本地図が広げられていた。


 男はその地図に指を滑らせた。東京から西へ。そして、長野県の位置で指を止める。


 そのまま数秒間、動かなかった。


 そのときだった。


 電話が鳴った。


 男は受話器を取った。


「はい」


 電話の向こうから、低く厳しい声が聞こえてきた。


『準備しろ。お前たちには現地へ向かってもらう』


 男は地図へ目を落としたまま答えた。


「了解しました」


『もう一つある』


 男の指が止まった。


『政府が決断を下した。自衛隊も現地に展開する』


 相手は一度、言葉を区切った。


『現段階では、我々が何を相手にしているのかさえ分かっていない。被災地域は封鎖される可能性がある。今後の指示を待て』


「……了解しました」


 通話が切れた。


 男はしばらく受話器を見つめていた。それから静かに元の位置へ戻した。


 机に広げていた地図を折り畳み、上着を手に取る。出口へ向かって歩き始めた。


 しかし、部屋を出る直前、足を止めた。


 もう一度、テレビを振り返る。画面には、ヘリコプターから撮影された光景が映し出されていた。


 地平線の向こうまで続く、何もない大地。


 男はその映像から目を離さなかった。そして、小さくつぶやいた。


「いったい……あそこで何が起きたんだ?」


***


 数時間前――


 災厄の中心に残された家の中は、静まり返っていた。ケンは弟のそばに膝をついたまま、動かなかった。先ほどまで胸の奥で燃え上がっていた憎悪も、今はどこか遠いもののように感じられた。


 目の前には、意識を失ったリョウタが横たわっている。その小さな胸は、かすかに上下していた。


 ケンは弟の顔を見つめた。何かを言おうとしたが、声は出なかった。


 やがて、まぶたがゆっくりと重くなっていく。身体から力が抜け、意識が遠のき始めた。


 そして――


 暗闇が、ケンを飲み込んだ。


 どこまで落ちていくのかも分からなかった。


 足元には何もない。手を伸ばしても、触れられるものはなかった。ただ、果てしない虚無が広がっていた。


 そのときだった。


 背後から、奇妙な熱を感じた。ケンはゆっくりと振り返った。


 そこにあったのは――


 あの『眼』だった。


 血のように赤い虹彩。光さえ飲み込んでしまいそうな、深く暗い瞳孔。以前と何も変わらない姿で、巨大な眼がケンを見つめていた。


 ケンは一瞬、動きを止めた。


 次の瞬間、暗闇の中に声が響いた。


「ようやく、あれを解き放ったか」


 低く、冷たい声だった。


 ケンは拳を握りしめた。


「あれ……?」


 声が震えた。


「何を言ってるんだ、お前は……?」


 母親の姿が脳裏によみがえった。床に倒れていたヒナ。そして、目を覚まさないリョウタ。


 ケンの表情が歪んだ。


「あれだけのことがあったのに……お前は何とも思わないのか!?」


 返事を待つことはなかった。ケンは拳を振り上げ、喉が張り裂けんばかりに叫びながら、巨大な眼へ襲いかかった。


「ふざけるなああっ!」


 しかし、振り下ろした拳は、何にも触れなかった。まるで目の前にあるものが、実体を持たない幻であるかのように。


 ケンは体勢を崩しかけた。そのとき、再び声が響いた。


「ああ……そうだ」


 巨大な眼は、少しも動じていなかった。


「それこそが、お前の解き放ったものだ。人間よ」


 ケンは荒い呼吸を繰り返した。


「お前たちという種が生まれて以来、その存在と切り離すことのできなかった、最も根源的な感情の一つ……」


 声が、虚無の奥深くへと響いていく。


「怒りだ」


 ケンは歯を食いしばった。


『眼』は続けた。


「実に素晴らしい。私の領域で、これほど純粋なものを目にするのは、いったいいつ以来だろうな」


 その声には、かすかな愉悦がにじんでいた。


「それにしても……」


 一瞬、沈黙が訪れた。


「母親と弟に起きたこと程度で、私を解き放つことになるとはな。人間というものは、つくづく滑稽だ」


 ケンの身体が震えた。


「……何だと?」


 拳を握る手に、さらに力が入る。


「お前……今、何て言った……?」


『眼』は答えなかった。その沈黙さえ、ケンを嘲笑っているように感じられた。


「俺の母さんが……!」


 言葉が喉につかえた。


「リョウタが……あんな目に遭ったんだぞ……!」


 ケンの目から、涙がこぼれ落ちた。怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からなかった。ただ、どうしようもなく苦しかった。


 やがて膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。両手で頭を抱え、声を振り絞った。


「俺の頭から出ていけ!」


 その叫びが、暗闇に響き渡った。


「お前は俺に何を望んでるんだ!? 何が目的なんだよ!」


 巨大な眼の瞳孔が、わずかに動いた。


「はあ?」


 心底あきれたような声だった。


「私がお前に何を望んでいるか、だと?」


 短い沈黙のあと、声が続いた。


「むしろ、お前こそ私に何を望んでいる?」


 ケンは顔を上げた。


「何……?」


「わざわざ私の前に現れたのは、お前のほうではないか。呼ばれてもいないのに、随分と騒がしい客だな」


「ふざけるな、この野郎!」


 ケンは怒鳴り返した。


「俺はこんな場所で目を覚ましたくなんかなかった! 俺の人生から消えろ!」


 巨大な眼は、しばらくケンを見つめていた。そして、低い声で問いかけた。


「では、聞こう」


 ケンは息を荒くしたまま、その眼をにらみつけた。


「お前が殴られ、地面に這いつくばっていたとき……力が欲しいとは思わなかったのか?」


 ケンの表情がわずかに変わった。


「何もできず、ただ痛みに耐えていたあのとき、お前は何を望んだ?」


 返事はなかった。


『眼』は続けた。


「それとも、弟を生かしておきたいという願いが、お前をここへ導いたのではないと?」


 その言葉を聞いた瞬間、ケンの呼吸が止まった。


 リョウタ。


 床に倒れていた弟の姿が、脳裏に浮かんだ。青紫色に変わった顔。かすかに動いていた胸。自分の手の中に収まってしまうほど、小さな手。


 ケンは足元に広がる虚無を見つめた。そして、ゆっくりと顔を上げた。


「……お前」


 声がかすれた。


「リョウタを救う方法を……知っているのか?」


 巨大な眼は答えなかった。ただ、ケンを見つめていた。


 その沈黙が、ひどく長く感じられた。やがて声が響いた。


「本当に、あの弟を生かしておきたいのか?」


 ケンは迷わなかった。


「何があっても」


 即座に答えた。


「何があっても……絶対に助ける」


 心臓が激しく鼓動し始めた。胸の奥に、かすかな希望が生まれていた。その希望にすがるように、ケンは巨大な眼を見つめた。


 しかし、返ってきたのは冷たい声だった。


「それで?」


 ケンは眉をひそめた。


「……え?」


「なぜ私が、お前のためにそんなことをしてやらねばならない?」


 ケンは言葉を失った。


『眼』は構わず続けた。


「お前は母親を守れなかった。弟まで死の淵に追いやった」


 一言一言が、胸に突き刺さった。


「自分の持つ力すら扱えず、何一つ守ることのできなかった無責任な人間に、なぜ私が道を示してやらねばならない?」


 ケンはうつむいた。


 そのとき、以前聞いた声が頭の奥によみがえった。


『そいつを解放しろ!』


 あの巨大な眼。


 漆黒の剣。


 そして、胸の奥からあふれ出した、抑えきれない憎悪。


 ケンは震える唇を開いた。


「俺が……」


 言葉が続かなかった。


「俺のせいで……あいつらは……」


 ゆっくりと頭を垂れる。


 胸が締めつけられた。


 もし、もっと早く帰っていれば。もし、母親と弟のそばにいられたなら。何かが違っていたのだろうか。


 今さら考えても、答えなど出なかった。それでも、ケンは自分を責めずにはいられなかった。


 やがて、震える声で口を開いた。


「お……お願いだ……」


 巨大な眼を見上げる。


「リョウタを助けてくれ……」


 両手を強く握りしめた。


「俺の命が欲しいのか……? だったら、くれてやる……」


 涙が頬を伝った。


「何でもする……何だってするから……!」


 ケンは頭を下げた。


「頼む……リョウタを助けてくれ……!」


 しばらくの間、何も聞こえなかった。巨大な眼は、ただケンを見下ろしていた。


 やがて、その虹彩がわずかに動いた。


「顔を上げろ!」


 突然、怒鳴り声が暗闇に響き渡った。


 ケンはびくりと肩を震わせた。ゆっくりと顔を上げる。『眼』は冷たく告げた。


「お前の額の中央には、わずかながら生命のエッセンスが宿っている」


 ケンは息をのんだ。


「生命の……エッセンス?」


「それを弟に分け与えろ」


 ケンはすぐに身を乗り出した。


「どうすればいい!?」


 巨大な眼は答えた。


「片手で剣を握れ。そして、お前の内にある怒りのすべてを、額の中央に開いた第三の眼へと集中させるのだ」


 ケンは自分の額に触れた。


 あの奇妙な熱。何度も感じてきた、額の奥で燃えるような感覚。その正体が、今ようやく一つの形を持ち始めていた。


「それで……リョウタを助けられるのか?」


『眼』は答えなかった。


 ケンは拳を握りしめた。それでも、ほかに方法はなかった。


「……ありがとう」


 小さくつぶやいた。


 ようやく希望が見えた気がした。


 しかし、そのときだった。


「勘違いするな、人間」


『眼』の声が、再び響いた。


「それで弟が治るわけではない」


 ケンは顔を上げた。


「……は?」


 胸に生まれていた希望が、一瞬で揺らいだ。


「おい! それはどういう意味だ!?」


 ケンは立ち上がり、巨大な眼へ手を伸ばした。


「待て! ちゃんと説明しろ!」


 しかし、返事はなかった。


 周囲の暗闇が、ゆっくりと歪み始めた。


「おい……!」


 足元の感覚が消えていく。


「まだ話は終わってないだろ!」


 必死に手を伸ばした。


 だが、巨大な眼の姿は次第に遠ざかっていった。


 そして――


 ケンは再び目を覚ました。目の前には、リョウタがいた。家の床に横たわったまま、苦しそうに呼吸を繰り返している。


 ケンはすぐに身体を起こした。


「……どういう意味なんだ?」


『眼』の最後の言葉が、頭から離れなかった。


 それで弟が治るわけではない。


 では、何のために教えたというのか。


 ケンは唇をかみしめた。


「……いや、今は考えてる暇なんかない」


 弟の呼吸が、あまりにも弱かった。今にも途切れてしまいそうだった。


 ケンは震える手を伸ばし、リョウタの頬に触れた。


「待ってろ……リョウタ」


 そのとき、胸の奥から熱がこみ上げてきた。


 母親を奪われた悲しみ。弟を失うかもしれないという恐怖。そして、何も守れなかった自分自身への怒り。


 それらが一つになった瞬間――


 目の前の空間が、かすかに揺らいだ。


 次の瞬間、黒い剣が姿を現した。


 漆黒の刃が、床へと突き立つ。


 ケンは目を見開いた。


「……これだ」


 あの公園で目にした剣。暗闇の中で、自分の前に現れた剣。間違いなかった。


 ケンはリョウタの身体を慎重に抱き起こした。その小さな身体を自分のそばへ寄せ、左手で剣の柄を握りしめる。そして、ゆっくりと目を閉じた。


(怒りを……第三の眼へ……)


『眼』の言葉を思い出す。


 胸の奥にある感情を、額の中心へ向けようとした。すると、突然、激しいめまいに襲われた。


「ぐっ……!」


 視界が揺れる。


 呼吸が苦しくなり、額の奥で何かが脈打ち始めた。それでも、ケンは手を離さなかった。


(まだだ……)


 意識を集中させる。


 胸の奥に燃える怒りを、額の中心へ。


 さらに深く。


 さらに強く。


 やがて、額の奥に奇妙な感覚が生まれた。熱とも、痛みとも違う。自分の中に、これまで気づかなかった何かが存在している。ケンには、そう感じられた。


 それは、ほんのわずかな生命のエッセンスだった。


 ケンは息をのんだ。


(これが……)


『眼』の言葉が頭をよぎる。


(これを……リョウタに……!)


 ケンは剣を握る手に、さらに力を込めた。意識を弟へと向ける。


 すると、額の奥に集まっていた熱が、ゆっくりと動き始めた。自分とリョウタの間に、目には見えない細い道が生まれていくようだった。ケンは必死に、その感覚をたどった。


 生命のエッセンスが、少しずつ弟の身体へ流れ込んでいく。


 その瞬間――


 鼻から血が流れ始めた。続いて、耳からも生温かいものが伝った。


「ぐっ……ああっ……!」


 額が焼けるように熱かった。


 身体中の力が、少しずつ奪われていく。それでも、ケンは剣から手を離さなかった。


(頼む……)


 呼吸が乱れる。


(頼むから……生きてくれ……!)


 そして――


 かすかな呼吸音が聞こえた。


 ケンは目を開けた。腕の中にいるリョウタの胸が、先ほどよりもはっきりと上下していた。


「……リョウタ?」


 ケンは剣から手を離し、弟をそっと床へ横たえた。すぐに顔を近づける。


 まず口元へ耳を寄せた。


 呼吸している。


 続いて、胸へ耳を当てた。


 とくん。


 とくん。


 かすかではあるが、先ほどよりも力強い鼓動が聞こえた。


「……っ!」


 ケンの目から、涙があふれ出した。


「よかった……」


 弟の小さな手を、両手で包み込む。額をそっと、その手へ寄せた。


「本当に……よかった……!」


 肩が震えた。


 何度も、何度も弟の名前を呼びそうになった。しかし、リョウタは目を覚まさなかった。ただ、静かに呼吸を続けていた。


 それでも、ケンにとっては十分だった。


 生きている。


 まだ、弟は生きている。


 その事実だけで、胸がいっぱいになった。


 だが、そのとき――


 意識の奥深くから、聞き覚えのある声が響いた。


「成功したようだな?」


 ケンは顔を上げた。


『眼』の声だった。


「……ああ」


 弟の顔を見つめながら答える。


「リョウタを治したんだ……」


 声が震えた。


「これで……いつ目を覚ますんだ?」


 一瞬、沈黙が訪れた。


 そして、冷たい声が響いた。


「治してなどいない」


 ケンの動きが止まった。


「……何?」


『眼』は淡々と続けた。


「ただ、死を先延ばしにしただけだ」


 ケンは息をのんだ。


「……どういうことだよ?」


 返事はなかった。


 ケンは弟の顔を見つめた。先ほどよりも呼吸は安定している。心臓も動いている。確かに、生きている。


 それなのに――


「俺の中にあったものを渡したんだぞ!」


 声が大きくなった。


「お前の言うとおりにしたんだ! これで助かるって言ったじゃないか!」


『眼』から、低い笑い声が漏れた。


「ああ……哀れな人間よ」


 その声には、わずかな同情さえ感じられなかった。


「私がいつ、治してやるなどと言った?」


 ケンは言葉を失った。


「お前の弟の身体には、生命のエッセンスがほとんど残っていない」


『眼』は続けた。


「そして、たとえお前の生命のエッセンスを分け与えたとしても、あの貧弱な身体がそれを受け入れられるわけではない」


 ケンはリョウタを見つめた。


「……受け入れられない?」


「そうだ。お前の弟は、そのための進化を遂げていない。生命のエッセンスを扱うための器が、そもそも備わっていないのだ」


 ケンは何も言えなかった。


 弟の手を握りしめたまま、ただ声を聞いていた。


「今、あの身体が生きながらえているのは、お前との間に、一時的なつながりが生まれているからにすぎん」


『眼』の声が、低く響いた。


「そのつながりが途切れれば、どうなるか……わざわざ説明する必要もあるまい」


 ケンの顔から、血の気が引いた。


「……そんな」


 喉が震えた。


「だったら……俺はどうすればいいんだよ……?」


『眼』は答えなかった。


 ケンは弟の手を握り直した。つい先ほどまで、救えたと思っていた。ようやく、希望が見えたと思っていた。


 それなのに、また同じ場所へ引き戻されたようだった。


 やがて、巨大な眼の声が響いた。


「だが……」


 ケンは顔を上げた。


「弟を生かしておく方法が、もう一つある」


 その瞬間、ケンの目が大きく見開かれた。


「……何だ?」


 声がかすれた。


「何だってやる……! 教えてくれ!」


『眼』は短く告げた。


「弟に剣を握らせろ」


 ケンはすぐに黒い剣へ目を向けた。


 そして、リョウタの小さな手を慎重に持ち上げた。剣の柄に、その指先を触れさせる。自分も柄を握り、弟の手が離れないように支えた。


「……これでいいのか?」


 しばらく返事はなかった。


 やがて、額の奥に熱が集まり始めた。『眼』の声が、静かに響く。


「人間よ……」


 先ほどまでとは違う、深く重い声だった。


「我々は今、この儚い世界を後にしようとしている」


 ケンは剣を握りしめた。


「弟の死を食い止めるためなら……たとえ神々に刃向かうことになろうとも、その道を歩む覚悟はあるか?」


 ケンは一瞬たりとも迷わなかった。


「やる」


 静かな声だった。


「何が待っていようと、構わない」


 腕の中にいるリョウタへ目を向けた。


 弟は、まだ目を閉じていた。ケンはその顔を見つめた。


「……道を示してくれ」


 その瞬間――


 大地が揺れた。


 最初は、かすかな振動だった。しかし、次第に激しさを増していく。


 家の壁が軋み始めた。天井から細かな埃が落ちてくる。


 ケンはリョウタを強く抱き寄せた。


「……何だ!?」


 そのとき、黒い剣の上空に、細い亀裂が現れた。


 何もない空間が、まるで薄いガラスのように裂け始めていた。亀裂はゆっくりと広がっていく。


 そして、次の瞬間――


 轟音とともに、家の屋根が砕け散った。


 折れた木材や瓦が宙へ舞い上がり、頭上に広がる亀裂へ吸い込まれていく。ケンはリョウタを抱きしめたまま、顔を上げた。


 亀裂の向こうには、見たこともない闇が広がっていた。ただ暗いだけではなかった。そこには、何かが存在しているように感じられた。


 ケンは息をのんだ。


 身体が、ゆっくりと浮かび上がり始めた。足が床から離れる。リョウタの身体も、同じように宙へ持ち上がっていく。


 ケンは弟を離さないよう、さらに強く抱きしめた。


 そのとき、自分たちの身体の輪郭が、細かな塵のようにほどけ始めた。


 指先から。


 腕から。


 そして、身体のあちこちから。


 小さな粒子が浮かび上がり、亀裂へと吸い込まれていく。


「……っ!」


 ケンは顔を上げた。


 逃れることなど、できそうになかった。しかし、不思議と恐怖は感じなかった。


 腕の中には、リョウタがいた。


 まだ、生きている。


 それだけは、確かだった。


 やがて、身体が亀裂へと近づいていった。


 そのとき――


 ケンは最後にもう一度、後ろを振り返った。視線の先には、母親がいた。


 床に横たわったまま、動かないヒナ。今朝、自分を抱きしめてくれた母親。帰ってきたら、一緒に甘いものを食べに行くはずだった。


 もう、その約束を果たすことはできない。


 ケンは唇をかみしめた。涙が頬を伝った。


「……母さん」


 小さく、名前を呼んだ。


 返事はなかった。


 ケンはリョウタを抱く腕に力を込めた。そして、母親の姿を見つめたまま、静かに口を開いた。


「必ず……成し遂げる」


 声は震えていた。


 それでも、言葉を止めなかった。


「リョウタは俺が守る……」


 最後に、もう一度だけ母親の顔を見つめた。


「絶対に……約束する……」


 その言葉とともに、ケンとリョウタの身体は亀裂の奥へと吸い込まれていった。

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