第4話「憎悪の鍵」
最初に聞こえてきたのは、冷たい風の音だった。
ケンは、背中を預けていた木の枝葉が揺れる音に、ゆっくりと目を開けた。足はしびれ、指先は寒さで感覚を失いかけていた。
しばらくぼんやりと前を見つめていたが、やがて顔を上げ、学校へ続く階段へ視線を向けた。
「……戻ってきたのか?」
あの暗闇は消えていた。巨大な眼も、耳を刺すような音も、どこにもなかった。
ケンはゆっくりと身体を起こした。そして、ホースパークの反対側へ目を向けた瞬間、足を止めた。
そこには、一本の黒い剣が立っていた。
「これ……あのときの……」
見間違えるはずがなかった。あの奇妙な空間で、自分の目の前に現れた漆黒の剣だった。
ケンはおそるおそる近づいた。剣は、まるで最初からそこにあったかのように、地面に突き刺さっていた。
柄に手を伸ばす。指先が触れても、何も起こらなかった。
ケンは柄を握り、ゆっくりと引き上げようとした。しかし、剣はびくともしなかった。
「……え?」
今度は両手で柄を握りしめた。足を踏ん張り、全身の力を込めて引っ張る。
それでも、剣は少しも動かなかった。
「いったい何に刺さってるんだ、これ……?」
もう一度、力を込めた。だが、結果は同じだった。
ケンはようやく手を離した。強く握りしめていたせいで、両手は赤くなり、じんじんと痛んでいた。
手をポケットに入れた、そのときだった。
指先が携帯電話に触れた。
「……あっ!」
慌てて取り出し、画面を確認する。表示された時刻を見た瞬間、顔から血の気が引いた。
「くそっ! 帰るのが遅くなった!」
ケンは剣のことなど忘れ、家へ向かって走り出した。
頭に浮かんだのは、今朝の光景だった。朝食の席で笑っていたリョウタ。自分を抱きしめてくれた母親。そして、三人で甘いものを食べに行くという約束。
「母さん……リョウタ……」
これで二度目だった。昨日に続き、今日も帰りが遅くなってしまった。せっかく母親が楽しみにしていた約束まで、台無しにしてしまった。
何と説明すればいいのだろう。どう謝れば、許してもらえるだろう。
ケンはそんなことばかり考えながら、必死に走った。
やがて、自宅のある通りの角を曲がった。見慣れた家が目に入る。
しかし、その窓からは明かりが漏れていなかった。家の中は、すっかり暗くなっていた。
(……もう寝たのかな)
ケンは足音を立てないように玄関へ近づいた。二人を起こさないよう、玄関の上部にある小さな隙間から合鍵を取り出す。
鍵穴に差し込み、ゆっくりと回した。かちゃり、と小さな音がした。
ケンは慎重に扉を押し開けた。
「……ただいま」
返事はなかった。
廊下の奥も暗いままだった。ケンは玄関から一歩踏み込み、壁に手を伸ばして照明をつけた。
その瞬間――
廊下の奥に、何かが見えた。
床に投げ出された、二本の足。
見覚えのある服。
ケンの視線が、その先へ向かう。
「……母さん?」
返事はなかった。
指先から鍵が滑り落ちた。硬い音を立てて、床に転がる。
しかし、ケンにはその音さえ聞こえなかった。
ただ、目の前の光景を見つめていた。唇がわずかに開いた。
母親が床に倒れている。
それだけは分かった。けれど、頭がその意味を理解しようとしなかった。
一歩、踏み出そうとする。足が震えた。
もう一歩、近づこうとした。だが、膝から力が抜け、そのまま床へ倒れ込んだ。
ケンは両手を床につき、身体を起こそうとした。しかし、腕にも力が入らなかった。
「……っ」
呼吸が乱れる。何度も立ち上がろうとしたが、足が言うことを聞かなかった。
それでも、母親のそばへ行かなければならなかった。
ケンは膝をついたまま、床を這うようにして進んだ。ようやくヒナのそばへたどり着く。
顔を上げた。
そこには、見慣れた母親の顔があった。
けれど、いつもの笑顔はなかった。
ケンはしばらく、何もできなかった。両手を膝に押し当て、ただ母親を見つめていた。
やがて、震える右手を伸ばす。ヒナの肩に、そっと触れた。
「……母さん?」
声がかすれた。
もう一度、呼ぼうとした。しかし、唇が震えるばかりで、言葉にならなかった。
何かを言わなければ。起こさなければ。
そう思っているのに、声が出てこない。
涙さえ、すぐには流れなかった。
ケンは母親の身体をゆっくりと引き寄せた。そして、両腕で抱きしめた。
「あ……」
喉の奥から、かすかな声が漏れた。
「かあ……」
母親の肩に顔を寄せる。
「かあさ……」
ようやく、顔を上げた。
「母さん……起きて」
返事はなかった。
「僕、帰ってきたよ……」
ケンは母親の顔を見つめた。
「お願いだから……起きてよ……母さん……」
ヒナの身体は冷たかった。
ケンはその首元に顔を埋めた。すると、かすかに懐かしい匂いがした。
幼い頃から、ずっと知っている匂いだった。
朝、台所で料理をしていたときも。疲れて帰ってきた夜も。自分を抱きしめてくれたときも。
いつも、そばにあった匂い。
それだけは、何も変わっていなかった。
「帰るのが遅くなって……ごめんなさい……」
ケンは壁に背中を預け、母親を抱き直した。そして、もう少しだけ強く抱きしめた。
今朝、母親が自分にしてくれたように。
強く抱きしめれば、きっとヒナも腕を回してくれる。背中をなでてくれる。いつもの声で、名前を呼んでくれる。
そんなことを考えていた。
けれど、どれだけ待っても、母親の腕が動くことはなかった。
ケンはただ、その身体を抱きしめ続けた。
どれほどの時間が過ぎたのか、分からなかった。
やがて、ふと視線を落としたとき、母親のそばに一枚の絵が落ちていることに気づいた。
花の絵だった。
ケンには、そんな絵を描いた覚えがなかった。
その瞬間、身体が止まった。
「……リョウタ?」
ゆっくりと顔を向けた。そして、目を見開いた。
すぐそばの床に、小さな身体が倒れていた。
弟だった。
家に入ったときから、ずっとそこにいた。それなのに、ケンは気づいてさえいなかった。
「リョウタ……!」
ケンは母親の身体をそっと床へ戻した。そして、弟のそばへ這うように近づいた。
膝をつき、両手を小さな肩に置く。
「リョウタ……おい、リョウタ……!」
返事はなかった。
ケンは震える手を弟の胸元へ伸ばした。そして、ゆっくりと耳を当てた。
耳を澄ませる。
何も聞こえない。
ケンは息を止めた。もう一度、耳を押し当てる。
そのとき――
とくん。
かすかな鼓動が聞こえた。
もう一度。
とくん。
「……っ!」
ケンの目から、涙があふれ出した。
生きている。
リョウタは、まだ生きている。
ケンは慌ててポケットから携帯電話を取り出した。震える指で、119番を押す。
呼び出し音さえ、ひどく長く感じられた。
やがて電話がつながった。
「もしもし! 助けてください!」
声が裏返った。
「弟が……弟が息をしてるんです! でも、目を覚まさないんです!」
電話の向こうから、係員の落ち着いた声が聞こえてきた。
ケンは答えようとした。しかし、その視線は弟の身体に釘付けになっていた。
小さな、小さな手。青紫色に変わった顔。乾いた唇。そして、息をするたびに苦しそうに動く胸。
ケンの唇が震えた。
どうして。
誰が。
どうして、こんな小さな子供を傷つけようと思ったんだ。
『もしもし、聞こえていますか? 電話に近づいてください』
係員の声が聞こえた。
ケンは答えなかった。
母さんは、何をしたっていうんだ。
誰が、母さんを殺そうと思ったんだ。
ケンはリョウタの手を握りしめた。涙が、弟の金色の髪に落ちた。
「……どうして」
呼吸が、次第に重くなっていく。
電話の向こうでは、係員が何かを話し続けていた。しかし、その声はもう、ケンの耳に届いていなかった。
ケンは弟の顔を見つめた。苦しそうに呼吸を繰り返す、小さな身体。
その姿を見るたびに、胸の奥が締めつけられた。
「お前にまで……」
かすれた声が漏れた。
「お前にまで……こんなことができるなんて……」
ケンはうつむいた。握りしめていた弟の手が、ひどく小さく感じられた。
今朝まで、あんなに元気だった。くだらないことで笑い、自分の首に抱きついてきた。
たった数時間前まで、何も知らずに笑っていた弟。
その弟が、今は目を覚ますことさえできない。
「……どうして」
ケンの指が、ゆっくりとリョウタの手から離れた。
「僕たちが……」
唇が震えた。
「僕たちが、お前らに何をしたっていうんだ……?」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
母親を傷つけた者たち。弟をこんな目に遭わせた者たち。その顔も、名前も、何一つ知らなかった。
それでも、ケンの胸の奥には、確かな感情が芽生え始めていた。
しばらく、ケンは動かなかった。
目の前に、母親の笑顔が浮かんだ。今朝、家を出るときのことだった。
疲れた顔で、それでも自分たちに微笑みかけてくれた母親。
『あなたたちには、お母さんがいるの。何があっても……二人とも、愛してるわ』
その声が、耳の奥によみがえった。
続いて、リョウタの笑い声が聞こえた気がした。
『兄ちゃん!』
いつもの、明るい声だった。
ケンはゆっくりと顔を上げた。
目の前には、動かなくなった母親がいた。そして、かすかな呼吸を繰り返す弟がいた。
もう、二度と以前のようには戻れない。
今朝まで当たり前だった日常が、すべて壊されていた。
ケンの呼吸が、少しずつゆっくりになっていく。震えていた両手が静まった。頬を伝っていた涙も、いつの間にか止まっていた。
悲しみが消えたわけではなかった。絶望を受け入れたわけでもなかった。
ただ、それらを押しのけるように、胸の奥から別の何かが膨れ上がってきた。
憎しみ。
それは、誰に向ければいいのかさえ分からない感情だった。誰か一人を憎むだけでは、到底収まりきらない。
胸の奥で燃え上がる、果ての見えない炎。
ケンはゆっくりと息を吸った。そして、吐いた。
その表情から、先ほどまでの絶望が薄れていった。
代わりに浮かんだのは、自分自身でさえ理解できないほど深い憎悪だった。
そのとき――
ホースパークの反対側。
地面に突き刺さっていた黒い剣が、かすかに震えた。
誰も触れていなかった。風が吹いているわけでもなかった。
それなのに、剣は震え続けていた。
やがて、柄の周囲の土に細い亀裂が走った。亀裂は少しずつ広がっていく。
そして、漆黒の剣がゆっくりと浮かび上がり始めた。
同じ頃、家の中では――
ケンが静かに顔を上げていた。視線が、母親の動かない身体へ向かう。
その顔を見つめた。
もう、何も言えなかった。
母親は目を覚まさない。弟も、呼びかけには答えない。
ケンは唇を開いた。そして、かすれた声でつぶやいた。
「この世界から……」
その先の言葉は、出てこなかった。
額の中心が、かすかに熱を帯び始めた。細い縦の線が、ゆっくりと浮かび上がる。
それは、まるで閉ざされていた何かが、内側から開こうとしているかのようだった。
ケンは動かなかった。ただ、母親の姿を見つめ続けていた。
そして――
第三の眼が開いた。
その瞬間。
半径百キロメートル。
その範囲に存在する、家の外のあらゆるものが、目に見えない巨大な重みに押しつぶされた。
建物も。
道路も。
木々も。
空へ向かってそびえ立つ、あらゆるものも。
すべてが同じ瞬間に崩れ落ちていった。
爆発は起こらなかった。轟音が響き渡ることもなかった。破滅の訪れを告げる前触れさえ、何一つなかった。
ほんの一瞬前まで、そこには人々の暮らす世界が広がっていた。家々が立ち並び、道が続き、木々が空へ向かって枝を伸ばしていた。
しかし、次の瞬間には、そのすべてが原形をとどめないほど押しつぶされていた。
あまりにも突然の出来事だった。何が起きたのかを理解する時間さえ、与えられなかった。
災厄の中心には、ただ一軒の小さな家だけが残されていた。
その家の中で――
ケンは弟のそばに膝をついたまま、動かなかった。




