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İçsel boşluk  作者: Aswium
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第3話「手を離さないで」

早朝、台所から漂うオムレツの香りが二階にまで届いていた。コンロの前に立っていたヒナは、階段の方へ顔を向けた。


「リョウタ? お兄ちゃんを起こしてきて」


「母さん、兄ちゃんはもう起きてるよ……」


 ヒナはフライ返しを動かす手を止め、リョウタを見た。


「そう……分かったわ」


 その頃、二階ではケンが枕から頭を上げていた。朝食の匂いに気づき、ゆっくりとベッドの端へ足を下ろす。


 立ち上がろうとした、その瞬間だった。


 床に置いてあった鞄の肩ひもに足を引っかけ、身体のバランスを崩した。


「うわっ!」


 次の瞬間、ケンは床に転がっていた。扉の前に立っていたリョウタが、その光景を見て吹き出した。


「あはははっ! 兄ちゃん、何やってんの!」


 リョウタは片手で腹を押さえ、もう片方の手で階段の方を指さしながら笑っていた。ケンは床に座り込んだまま、そんな弟を見上げた。頭をかき、思わず苦笑する。朝から弟を楽しませてしまったようだ。


 やがて立ち上がると、洗面所で顔を洗い、階下へ降りていった。


「おはよう、ケン」


「おはよう、母さん」


 ヒナは息子に微笑み、朝食の皿を差し出した。


 しかし、その手が途中で止まった。


 昨夜のことが、頭から離れなかった。


 血まみれで帰ってきた息子。身体に残っていた血の痕。それなのに、どこにも見当たらなかった傷。


 目を閉じるたびに、その光景がよみがえり、ヒナは何度も寝返りを打っていた。


 今、目の前にいるケンは、何事もなかったかのように静かに朝食を食べている。ヒナは息子の顔を見つめた。昨日のことを尋ねようと唇を開く。けれど、ケンが再び皿へ視線を落とすと、言葉が出てこなくなった。


 その様子を、リョウタが不思議そうに眺めていた。


「ねえ、今日、お菓子を食べに行くんだよね?」


 ヒナはケンに目を向けた。ケンはフォークを皿の端に置き、母親の顔を見た。そして、小さくうなずいた。


「やったあ!」


 リョウタは椅子から勢いよく立ち上がると、兄の首に抱きついた。ケンは驚いたように目を見開いたが、弟を振りほどこうとはしなかった。ヒナはそんな二人を見て、ようやく少し微笑んだ。


「リョウタ、まずはお皿のものを全部食べなさい。もう出かけないと」


 リョウタはすぐに姿勢を正し、片手を額に当てた。


「了解であります!」


 その大げさな敬礼に、ケンは思わず口元を緩めた。リョウタは最後の一口を急いで食べ終えると、鞄をつかんで玄関へ走っていった。ケンも椅子を引き、立ち上がった。廊下へ向かおうとしたとき、背後から母親の声が聞こえた。


「ケン……」


 足を止めて振り返る。ヒナはエプロンの上で両手を重ねていた。その指先は、布の端をくしゃくしゃになるほど握りしめていた。


「あなたとリョウタに、十分な時間を作ってあげられなくて……ごめんなさい」


 ケンは黙って母親を見つめた。


「でもね、これだけは忘れないで。あなたたちには、お母さんがいるの。何があっても……二人とも、愛してるわ」


 ヒナは最後の言葉を口にすると、小さく息を吐いた。


 ケンの視線が、母親の手へと落ちた。何度も水仕事を繰り返してきたせいで、指先には細かなひび割れが刻まれていた。目の下には、濃い隈ができている。母親がどれほど疲れているのか、ケンには分かっていた。


 それでもヒナは、いつも自分たちの前では笑おうとしていた。


 ヒナが視線をそらしかけた、そのときだった。


 ケンは静かに歩み寄った。何も言わず、両腕を広げる。ヒナは一瞬驚いたように目を見開いた。そして、息子を抱きしめた。


 片手でケンの手を握り、もう片方の手で背中を優しくなでる。息子の肩に頭を預け、深く息を吸った。ケンは何も言わなかった。ただ、母親の腕の中にいた。


 やがて身体を離そうとすると、ヒナはもう一瞬だけ、息子を強く抱きとめた。それから、ゆっくりと手を離した。


 ケンは台所のカウンターに置かれた弁当を手に取り、玄関へ向かった。ヒナも後を追い、走り回って服をしわだらけにしたリョウタの襟を整えた。


「もう、じっとしてなさい」


 リョウタは少し不満そうな顔をしたが、おとなしくしていた。ケンは靴を履きながら口を開いた。


「帰る前に漫画を見に行ってくる。遅くならないから」


「ええ、分かったわ。気をつけてね」


 ヒナは玄関に立ち、二人を見送った。息子たちの姿が見えなくなっても、しばらくその場を離れなかった。


 家を出て少し歩いたところで、ケンの胸に突然、鋭い痛みが走った。


「……っ!」


 足が止まった。反射的に胸を押さえる。息を吸おうと口を開いたが、肺の奥まで空気が入ってこない。まるで、胸の内側から何かに締めつけられているようだった。


 リョウタは数歩先を歩いていた。ケンは何とか身体を起こそうとした。しかし、再び痛みが強くなる。膝から力が抜けそうになり、とっさに鞄の肩ひもを握りしめた。


(何だ……これ……?)


 胸の奥が熱かった。昨日、あの岩の陰で感じた痛みが、再びよみがえってくる。


 そして――


 突然、すべてが止まった。


 痛みが消えた。


 ケンは数秒間、その場から動けなかった。ゆっくりと胸から手を離す。まるで何事もなかったかのように、呼吸が戻っていた。


 鞄からペットボトルを取り出し、水を数口飲んだ。そのとき、リョウタが振り返った。


「兄ちゃん? どうしたの?」


 ケンはボトルのふたを閉めた。


「……何でもない」


 軽く肩をすくめ、弟のそばへ歩いていく。リョウタの背中にそっと手を当て、先へ進むよう促した。二人は再び歩き始めた。


 一つ目の通り。二つ目の通り。そして、三つ目の通り。


 四つ目、五つ目の通りを過ぎたころ、ようやくホースパークの向かい側にたどり着いた。


 学校へ続く長い階段が見えてきた。その瞬間、ケンの足取りが遅くなった。階段のそばに視線を向ける。そして、立ち止まった。


「……え?」


 もう一度、同じ場所を見る。


「どこに……消えたんだ?」


 昨日まで、そこには大きな木が立っていた。


 空へ向かって伸びる太い枝。岩の間に広がっていた根。そして、枝からつり下げられていた小さなブランコ。


 そのすべてが、消えていた。


 木があったはずの場所には、背の低い草と小さな植物が生えているだけだった。


 ケンは歩道の端まで進んだ。右を見る。左を見る。


 何度確かめても、木は見つからなかった。


 ブランコもなかった。


「どういうことだよ……?」


 リョウタは兄の様子を不思議そうに見つめていた。ケンが何もない場所をじっと見ているので、自分もそちらへ目を向ける。


(もしかして、朝ベッドから落ちたときに頭を打ったのかな……?)


 ケンは弟を振り返った。


「リョウタ。前に、ここに木があったのを覚えてるか?」


「え? ここに木なんてあったっけ?」


 ケンは答えなかった。


 昨日、あのブランコに最初に気づいたのは、リョウタだった。


『兄ちゃん、このブランコって、前からここにあったっけ?』


 確かに、そう言っていた。それなのに、今は覚えていないという。ケンは再び何もない場所へ視線を向けた。


「兄ちゃーん、来ないの?」


 リョウタが数歩先で手を振っていた。ケンは最後にもう一度、木があったはずの場所を見つめた。そして、何も言わずに弟の後を追った。


 学校に着くと、リョウタは片手を上げた。


「授業が終わったらまたね、兄ちゃん」


「ああ……またな」


 弟の足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。ケンはその場で振り返り、校門の向こうを見つめた。頭から離れないものがあった。あの木は、いったいどこへ消えたのだろう。


 やがて授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。ケンはようやく視線を戻し、自分の教室へ向かった。


 昼休みになると、ケンは鞄を手に学校を出た。向かったのは、朝、あの木が消えていた場所だった。


 階段を下りながら、少しずつ歩く速度を落とす。最後の一段に足を下ろしたところで、動きが止まった。


 木があった。


「……は?」


 太い幹。空へ向かって伸びる枝。そして、その枝からつり下げられたブランコ。


 すべてが、昨日と同じ場所にあった。


 ケンは数秒間、まばたきもせずに見つめていた。やがて、急いで木へ歩み寄った。幹に手を置く。指先に伝わってきたのは、ざらついた樹皮の感触だった。


 軽く叩いてみる。硬い音が返ってきた。木の周りを一周した。根も、枝も、ブランコも、何もおかしなところはない。


 そこには、ごく普通の木が立っていた。


(朝は……確かになかったはずなのに……)


 ケンは木の根元にしゃがみ込み、幹に背中を預けた。鞄から弁当箱を取り出し、ふたを開ける。一口食べた。それから、頭上のブランコを見上げた。


 ブランコは静かにぶら下がっていた。


 もう一口食べる。昨日、この場所で何が起きたのか。あの悲鳴は何だったのか。頭の中で記憶をたどろうとしたが、浮かんでくる光景はどれも途切れ途切れだった。


 つながりそうになるたびに、何かが抜け落ちていく。


 ケンは小さく息を吐いた。そして、弁当に残っていた最後の一口を口へ運ぼうとした。


 その瞬間だった。


「ぐっ……!」


 胸に鋭い痛みが走った。手から弁当箱が滑り落ち、地面に転がった。ケンは両手で胸を押さえた。呼吸が乱れる。


「ぐあああっ! くそっ、またこれ――」


 身体が折れ曲がった。視界が揺れる。


 そして――


 目を開けたとき、すべてが変わっていた。


 音が消えていた。色が失われていた。周囲に広がる景色は、闇に飲み込まれたように見えた。


 ブランコは、動きを止めていた。


 ケンは息をのんだ。胸に手を当てる。先ほどまで身体を二つ折りにするほど激しかった痛みは、跡形もなく消えていた。


 ゆっくりと足元へ視線を落とした。地面に立っている。それなのに、自分の身体の重さを感じなかった。まるで、足元に何も存在していないかのようだった。


 ケンは勢いよく後ろを振り返った。自分の身体が、どこかに倒れているのではないかと思った。だが、何も見えなかった。周囲を見回しても、あるのは果てしない暗闇だけだった。


 思わず一歩後ずさる。


 そのとき――


 キィィィン……。


 細く、甲高い音が響き始めた。ケンは顔を上げた。目の前の暗闇から、何かがゆっくりと姿を現していた。最初に見えたのは、黒い輪郭だった。


 やがて、その形がはっきりとしていく。


 剣だった。


 漆黒の剣。


 その姿が暗闇の中に浮かび上がるにつれ、耳を刺すような高い音が辺りに響き渡った。ケンは耳を塞がなかった。ただ、その剣を見つめていた。


 指をゆっくり開き、もう一度握る。そして、一歩近づいた。目の前にあるものを確かめるように、細部へ目を凝らす。手を伸ばしかけた。


 しかし、途中で動きを止めた。


 ふと、今朝のことを思い出した。母親が握ってくれた手。疲れ切った顔で、それでも自分たちに微笑んでくれた姿。そして、あの温かな抱擁。


 その記憶に触れた瞬間、胸の奥に小さな温もりが広がった。


 だが、そのときだった。


 足元の暗闇から、何かが浮かび上がり始めた。ケンはゆっくりと顔を上げた。それは、血のように赤い球体だった。


 最初は、表面にぼんやりとした模様が浮かんでいるだけだった。しかし、球体が上昇するにつれて、その模様が少しずつ形を変えていく。赤い表面が濁り、内側から何かが現れようとしていた。


 ケンは唇をわずかに開いた。一歩後ずさろうとした。だが、足が動かなかった。


 目の前で――


 眼が開いた。


 血の色をした虹彩。その中心には、光さえ飲み込んでしまいそうなほど、深く暗い瞳孔があった。


 ケンはまばたきもせず、巨大な眼を見つめていた。身体が動かない。声も出せなかった。


 無意識に、額へ手を伸ばした。先ほどまで胸の奥に感じていた熱が、今は額の中心に集まっていた。ケンは指先を強く押し当てた。


 熱い。


 まるで、皮膚の内側で何かが目覚めようとしているかのようだった。


 そのとき、巨大な眼の虹彩が動いた。ケンは息をのんだ。


 そして――


 暗闇そのものが震えた。


 巨大な眼が、周囲のすべてを満たすような声で叫んだ。


「そいつを解放しろ!」


 その頃、ヒナは家に残っていた家事を片づけていた。台所のカウンターを拭いていると、玄関のチャイムが鳴った。布巾を置き、玄関へ向かう。届いたのは、注文していたゼゼの花だった。


 ヒナは包みを開け、花を取り出した。最初は台所のカウンターに置いてみた。少し離れて眺める。次に、小さな座卓へ移した。


 しかし、そこもしっくりこなかった。結局、テレビの前にあるテーブルへ運んだ。ヒナは数歩下がり、花を眺めた。そして、満足そうに微笑んだ。


「ああ、本当に素敵……」


 身をかがめ、葉の一枚にそっと触れた。


「きっと、あの子たちも気に入ってくれるわ」


 しばらく考えてから、小さく首をかしげる。


「来月、もう一鉢買おうかしら。それとも、違う花にしようかな?」


 最後に植木鉢の位置を少し整えた。それから大きく背伸びをし、残っていた家事を終わらせた。


 ようやく一段落すると、ソファに横になった。頭をクッションに預ける。しかし、目を閉じることはできなかった。


 天井を見つめながら、指を折って計算を始めた。昨日、掃除に行った家々の仕事代が、まだ支払われていなかった。ヒナは鞄を引き寄せ、財布を開いた。中に入っているお金を数える。


「うーん……イチゴのケーキと、何か温かい飲み物……」


 指先で硬貨を一枚ずつ確かめた。


「でも、甘いものの前に、ちゃんとご飯も食べさせてあげたいし……」


 小さくため息をつく。


「あの子たちを外食に連れて行ったのは、もうずいぶん前だものね……」


 財布の中身をもう一度見つめた。そして、お金を元に戻した。しばらく天井を眺めていたが、やがてソファに両手をついて身体を起こした。


「頑張って、ヒナ」


 自分に言い聞かせるように、つぶやいた。


「あの子たちのためなら、頑張る価値はあるわ」


 午後になったら職場へ行き、日当を受け取ろう。そう決めると、ヒナは少しの間だけ目を閉じた。短い休息のあと、慌ただしく着替え、家を出た。


 劇場の入った建物の階下にある職場へ到着したが、入口の扉は閉まっていた。ドアノブを回してみる。鍵がかかっていた。


 ヒナは携帯電話を取り出し、雇い主へメッセージを送った。それから建物の前で待つことにした。


 しばらくすると、通りの向こうに並ぶ店が目に入った。


「……ちょっと散歩でもしようかしら」


 ヒナは歩き始めた。手芸用品店のショーウィンドウを通り過ぎ、DVDショップの前で少し足を緩める。やがて、飲食店が並ぶ通りにたどり着いた。


 最初の店の前で立ち止まり、メニューに目を通す。次に、隣の店のメニューを眺めた。料理の写真を見ながら、値段を確かめる。鞄の肩ひもを直し、もう一度メニューへ目を向けた。


 少し考え込んでいると、携帯電話が震えた。


 画面には、雇い主からのメッセージが表示されていた。


 職場に到着したという連絡だった。


 ヒナは携帯電話をしまい、来た道を引き返した。古い建物の狭い入口から中へ入る。廊下には、湿った空気が漂っていた。雇い主の部屋の前に立ち、扉をノックする。


「失礼します」


 中に入ると、雇い主は机に向かって座っていた。煙草の煙で黄ばんだ窓ガラスから、弱々しい光が差し込んでいる。


 ヒナが口を開いた。しかし、用件を最後まで言い終える前に、雇い主は日当を差し出した。ヒナは両手でお金を受け取った。


「来週も仕事に来られるかい?」


「はい。ぜひ、私の名前を入れておいてください」


 ヒナは丁寧に頭を下げた。受け取ったお金を鞄にしまい、礼を言って部屋を出る。廊下を歩きながら、鞄のファスナーが閉まっていることを確かめた。


 建物を出ると、先ほどの飲食店が並ぶ通りへ目を向けた。あの子たちが喜んでくれる店は、どこだろう。そんなことを考えながら、学校が終わる時間まで、もう少し街を歩いて過ごすことにした。


 授業が終わる少し前、リョウタは友人のアキオの話に夢中になっていた。アキオの父親は、水道会社の総支配人だった。この夏、家族で海外旅行に出かけるらしい。しかも、地球の反対側にまで行くという。


「本当にそんな遠くまで行くの?」


 リョウタは机に肘をつき、目を輝かせながら尋ねた。アキオが旅の予定を話すたびに、リョウタは少しずつ身を乗り出していった。地図でしか見たことのない、遠い国々。一度も訪れたことのない場所を想像するだけで、胸が躍った。


 やがて、アキオがリョウタへ顔を向けた。


「ところで、リョウタたちはこの夏、何をする予定なの?」


 リョウタは片手を後頭部に当て、にやりと笑った。


「今年の夏は、家で過ごす予定だよ」


「ああ、そうなんだ。じゃあ、夏休みが終わる前に帰ってこられたら、残りの休みは一緒に遊ぼうよ」


「うん! 約束だよ!」


 二人が笑い合っていると、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。リョウタは荷物をまとめ、アキオに別れを告げた。


 学校を出ると、入口のそばにある小さな小屋の前で立ち止まった。いつものように、兄を待つつもりだった。


 しばらくすると、通りの向こうから見覚えのある人影が近づいてきた。


「……母さん!」


 リョウタの顔がぱっと明るくなった。鞄を揺らしながら、母親のもとへ駆け出す。


「あら、かわいい子が来たわ!」


 ヒナは微笑み、両腕を広げた。リョウタが勢いよく抱きつくと、その背中を優しくなでた。


「学校はどうだった?」


「最高だったよ、母さん! 友達と夏休みの話をずっとしてたんだ!」


 リョウタは嬉しそうに話し続けた。


「それにね、上級生たちの間で開かれる絵のコンテストにも参加できることになったんだよ!」


 ヒナは驚いたように目を見開いた。そして息子を少し離し、その顔を見つめた。


「あら、それはすごいじゃない! それで、何を描くつもりなの?」


 リョウタは頬を膨らませた。


「うーん……」


 視線を横へ向ける。


 しばらく考え込んだが、答えは浮かんでこなかった。


 ヒナは思わず笑った。


「ふふっ。まだ決めてないのね」


 そう言って、息子の頭を優しくなでた。それから家へ続く道を指さす。リョウタは周囲を見回した。


「兄ちゃんを待たなくていいの?」


 ヒナは一瞬、足を止めた。ケンが帰りに漫画を見に行くことを、リョウタにも話していると思っていた。


「お兄ちゃんは少し寄り道するみたいよ。さあ、私たちは先に帰りましょう」


「うん!」


 ヒナは息子の手を握った。すると、リョウタが少し不満そうに口を開いた。


「母さん、僕、もう手をつないでもらうような歳じゃないよ」


「あら、そうなの? もしかして、恥ずかしい?」


 ヒナはからかうように微笑んだ。そして、その小さな手をもう少し強く握った。


「手を離さないで……」


 優しい声だった。リョウタは母親の顔を見上げた。それから、いたずらっぽく笑う。次の瞬間、母親の手をするりと振りほどいた。


「へへっ!」


 数メートル先まで駆け出すと、くるりと振り返った。そして、片手を大きく伸ばした。


「ほら、ここまで来て手をつないでみて!」


 ヒナは目を丸くした。やがて、困ったように笑いながら歩き始めた。


「もう……待ちなさい、リョウタ」


 リョウタは楽しそうに道を進んでいく。ときどき歩道の端へ近づいたかと思えば、また真ん中へ戻ってきた。ヒナはそんな息子から、片時も目を離さなかった。


 ふと顔を上げる。空には、まだ柔らかな日差しが残っていた。その光を浴びながら、ヒナは目を細めた。


「ちょっと、それはずるいわよ……。お母さんを寂しくさせるつもり?」


 リョウタは振り返り、首をかしげた。母親の言っていることが、よく分からなかった。それでも、楽しそうに笑っていた。


 いくつもの通りを抜け、ようやく家にたどり着いたころには、空がオレンジ色に染まり始めていた。ヒナは鞄から鍵を取り出し、玄関の扉を開けた。家の中へ入ると、ひんやりとした空気が肌に触れた。鞄を置き、開いたままになっていた窓を閉める。


 それから、受け取ってきた日当を寝室の安全な場所にしまった。


 その頃、リョウタは台所のテーブルに座っていた。鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出し、さっそく何かを描き始めている。ヒナは息子のそばへ歩み寄った。


「何を描いているの?」


「思いついたもの、何でも!」


 ヒナは身をかがめ、スケッチブックをのぞき込んだ。一枚の絵を見る。それから、別のページへ目を移した。


「まあ……どれも素敵ね」


 リョウタは嬉しそうに顔を上げた。ヒナは微笑んだ。


「もしかしたら、うちの子は本当に芸術家になれるのかしら?」


 リョウタは照れくさそうにうつむいた。笑っていることを悟られないように口元を隠しながら、新しいページを開く。


 ヒナはそんな息子を、もうしばらく眺めていた。そして、寝室へ向かった。夕方に出かける前に、少しだけ休んでおきたかった。ベッドに横になり、目を閉じる。


 その頃、リョウタは一人で絵を描き続けていた。黒い鉛筆が、紙の上を滑っていく。


 しばらくして、ふと時計へ目を向けた。


「……兄ちゃん、いつ帰ってくるんだろう?」


 リョウタは鉛筆を置いた。母親の鞄を開け、携帯電話を取り出す。連絡先からケンの番号を探し、電話をかけた。


 しかし――


『おかけになった電話は、現在つながりません……』


 機械的な声が流れた。リョウタは携帯電話を耳から離した。画面をじっと見つめる。


「兄ちゃーん……またどこに行っちゃったの?」


 小さくつぶやき、電話を母親の鞄へ戻した。それからソファに寝転がった。顔を横へ向けたとき、テレビの前に置かれた花が目に入った。


「……あれ?」


 身体を起こし、その花を見つめる。葉は生き生きとしていて、柔らかな光を受けていた。


「葉っぱがこんなに生き生きしてて……なんだか温かそう」


 リョウタはしばらく花を眺めていた。そして、何かを思いついたように立ち上がった。鉛筆とスケッチブックをソファへ運ぶ。花がよく見える位置に座り、新しいページを開いた。


 黒い鉛筆を握り直す。まず、植木鉢の輪郭を描いた。ゆっくりと線を重ね、形を整えていく。次に、葉へと移った。


 一枚。また一枚。夢中になって鉛筆を動かしていた。


 やがて、下描きが完成しかけた、そのときだった。


 ピンポーン。


 玄関のチャイムが鳴った。リョウタは顔を上げた。


「兄ちゃん?」


 鉛筆を置き、勢いよく立ち上がる。そして、玄関へ向かって走り出した。


 その物音に気づいたヒナも、寝室から出てきた。まだ目を覚ましたばかりだった。片手で髪を整えながら、廊下へ出る。


「リョウタ、ドアを開けるならお母さんを待って」


 リョウタは立ち止まり、母親を振り返った。


 そのとき――


 ドン、ドン!


 今度は扉が叩かれた。先ほどよりも、ずっと強く。


 ヒナの足が止まった。


 ゆっくりと玄関へ歩み寄る。そして、ドアスコープから外をのぞいた。


 その瞬間だった。


 ヒナの表情が凍りついた。


 ドアノブへ伸ばしかけた手が、宙で止まる。数秒間、身動き一つできなかった。


「……母さん?」


 リョウタが不思議そうに声をかけた。ヒナは振り返った。その顔には、先ほどまでの穏やかな笑みはなかった。


「リョウタ。お兄ちゃんの部屋へ行って」


「え?」


「お母さんがいいと言うまで、絶対に出てこないで。分かった?」


 リョウタは母親を見つめた。


 何かがおかしい。


 そう感じたが、理由は分からなかった。


「……分かった。行くよ」


 リョウタは階段へ向かった。


 そのとき、扉の向こうから男の声が響いた。


「おい、ヒナ! 俺だ! 開けろよ、話があるんだ!」


 ヒナは目を閉じた。聞き覚えのある声だった。


 できることなら、二度と聞きたくなかった声。


 再び扉が叩かれる。


「そこにいるのは分かってるんだ! 話をしに来ただけだって!」


 ヒナは片手を扉に当てた。もう片方の手で、鍵を握る。鍵を開ける前に、階段の方を見た。


 リョウタの姿は、もうなかった。ヒナは小さく息を吸った。そして、扉をわずかに開いた。


「……どうしてここに来たの?」


 男は口元を歪めた。


「おいおい。久しぶりに夫に会って、その態度か?」


「どうしてここに来たの?」


 ヒナは同じ質問を繰り返した。声は低く、硬かった。


 男は玄関の前に立っていた。その背後には、見知らぬ男が二人いた。ヒナの視線が、彼らへと移る。


「最近、金が必要でな」


 男は何でもないことのように話し始めた。


「それで考えたんだが……お前なら少しは持ってるんじゃないか?」


 ヒナは扉の端を強く握りしめた。


 何年もの間、姿を見せなかった男。自分と子供たちを置いて去っていった男。


 その男が、ようやく目の前に現れたと思えば――


 最初に口にしたのは、またしても金のことだった。


「……二度とここに来ないで」


 ヒナは扉を閉めようとした。しかし、男が肩を突き出した。


 勢いよく扉が押し返される。


「きゃっ!」


 ヒナはバランスを崩し、床に倒れた。慌てて手をつき、立ち上がろうとする。だが、そのときにはすでに男と背後の二人が家の中へ入っていた。


「何をするの!? 出ていって!」


 ヒナが叫ぼうとした瞬間、男の一人が背後から口を塞いだ。


「んっ……!」


 ヒナは必死に顔を背けようとした。両手で男の腕をつかみ、引き離そうとする。足を床にこすりつけながら、何とか逃れようともがいた。


 一瞬だけ、口が自由になった。ヒナは大きく息を吸った。


 叫ぼうとした。


 その瞬間――


 見知らぬ男の拳が、左目の下に叩き込まれた。


「……っ!」


 頭が横へ大きく揺れた。視界がぼやける。何が起きたのか理解するより早く、身体から力が抜けていった。


 ヒナは床に倒れ込み、痛む顔を押さえた。男の一人が、目の前にしゃがみ込んだ。


「金目の物はどこだ?」


 ヒナは答えなかった。ただ、階段へ視線を向けた。二階からは何の音も聞こえてこない。リョウタは、まだ隠れているはずだった。


(生きなきゃ……)


 ヒナは唇を震わせた。


(生きなきゃ、ヒナ……。隠し場所を教えて、あいつらを帰らせるの……)


 今朝のことが、頭をよぎった。息子たちと交わした言葉。ケンが自分を抱きしめてくれたこと。リョウタが手を振りほどき、楽しそうに笑っていたこと。


(もう一度……あの子たちの顔を見るために……)


 ヒナは震える声で、ベッドに隠してある日当の場所を教えた。男の一人が金を取りに向かった。ヒナはゆっくりと頭を持ち上げた。


 これで終わる。


 金を渡せば、帰ってくれる。そう願っていた。


 しかし――


「ほかの物はどこにある?」


 男はまだ目の前にいた。ヒナは顔を上げた。


「……え?」


「ほかの金目の物がどこにあるか言え、このクソ女!」


 ヒナの唇が震えた。


「誓うわ……ほかには何もないの……」


 男は苛立ったように舌打ちした。そして、ヒナの髪へ手を伸ばした。ヒナは反射的に頭を引こうとした。だが、逃れることはできなかった。


 その直後――


 腹部に鋭い痛みが走った。


「……あっ!」


 息が止まった。身体が強くこわばる。


 ヒナは両手で自分を守ろうとしたが、男は引き下がらなかった。何とか身体を動かそうとする。しかし、指先は床の上を滑るばかりだった。


 ヒナはゆっくりと顔を上げた。そして、階段の方を見つめた。


「……リョウタ……」


 その声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。


 二階では、リョウタが扉のそばに座り込んでいた。両膝を胸に抱え、身体を小さく丸めている。下から怒鳴り声が聞こえるたびに、両手で耳を塞いだ。


 聞きたくなかった。何が起きているのか、知りたくもなかった。


 それでも――


 母親の声だけは、聞き逃せなかった。


「……?」


 リョウタはゆっくりと手を下ろした。今、確かに母親が自分の名前を呼んだ気がした。顔を上げ、扉を見つめる。


 立ち上がった。


 ドアノブへ手を伸ばす。


 しかし、途中で止まった。


『お母さんがいいと言うまで、絶対に出てこないで』


 母親の言葉が頭をよぎった。


 リョウタは唇をかみしめた。そのとき、階下からもう一度声が聞こえた。


 母親の声だった。


 リョウタは扉を開けた。廊下へ出る。階段へ向かって歩き始めた。最初の一段に足をかけたところで、立ち止まる。


 けれど、もう迷わなかった。


 リョウタは階段を駆け下りた。


「母さん!」


 階下へたどり着いた瞬間、目に飛び込んできたのは、床に倒れている母親の姿だった。


「……え?」


 リョウタの足が止まった。ヒナは苦しそうに顔を上げた。そして、息子の姿を見た瞬間、目を大きく見開いた。


「リョウタ……!」


 ヒナは震える声を振り絞った。


「お願い、ここから逃げて!」


 リョウタは動かなかった。


「リョウタ! リョウタァ!」


 母親の叫び声が響く。それでも、リョウタの足は母親の方へ向かっていた。


 一歩。


 また一歩。


「……母さん?」


 目の前の光景が理解できなかった。なぜ母親が床に倒れているのか。なぜ知らない男たちが家の中にいるのか。どうして、母親が苦しそうにしているのか。


 リョウタは男たちを見上げた。


「あなたたちは……誰なの?」


 声が震えていた。


「母さんを放して……お願い……」


 言葉がうまく出てこない。それでも、必死に続けた。


「母さんは……何もしてないよ……」


 男の一人が、ゆっくりと近づいてきた。リョウタは後ずさった。男は目の前で身をかがめ、小さな肩に手を置いた。


「おい、どうして泣いてるんだ?」


 リョウタは何も答えられなかった。


「俺たちはちょっと物をもらいに来ただけだ」


 男は笑みを浮かべた。


「なあ、坊主。この家に何か高そうな物はないのか?」


 リョウタは男の顔を見つめた。それから、床に倒れている母親へ視線を移した。何かを渡せば、この人たちは帰ってくれるのだろうか。そうすれば、母親を放してくれるのだろうか。


 リョウタはゆっくりと周囲を見回した。そして、テーブルの上に置かれたスケッチブックに目を留めた。


 しばらく、その場から動かなかった。やがて、テーブルへ歩いていく。スケッチブックを開き、ページの間に挟んでいた一枚の絵を取り出した。今日、描いた花の絵だった。


 母親が大切そうに飾っていた、あの花。


 リョウタは絵を両手で持った。そして、男の前へ戻った。小さな手を伸ばし、絵を差し出す。


 男は受け取った絵を見た。一瞬、沈黙が流れた。


 次の瞬間――


「俺を馬鹿にしてんのか、このクソガキ!」


 拳がリョウタの顔に叩き込まれた。


「……っ!」


 小さな身体が大きく傾いた。バランスを崩し、そのまま床へ倒れる。リョウタは何が起きたのか分からなかった。


 痛みに顔を歪めながら、両手を床につく。何とか起き上がろうとした。


 しかし――


 再び、強い衝撃が襲った。


 頭が横へ落ちた。視界が揺れる。


 リョウタは目を開けようとした。ぼやけた視界の中に、男の足が見えた。身体を動かそうとする。けれど、思うように力が入らなかった。


 リョウタは両腕を頭へ引き寄せた。小さく身体を丸める。何が起きているのか分からない。


 ただ、怖かった。


 母親の声を聞きたかった。兄に帰ってきてほしかった。


 しかし、やがてその動きも弱くなっていった。伸ばしかけた腕が、ゆっくりと床へ落ちる。


 そして――


 リョウタは動かなくなった。


 ヒナは息子の方へ顔を向けた。


「……リョウタ……?」


 返事はなかった。


 ヒナは片腕を前へ伸ばした。指先を大きく広げる。床に手をつき、身体を引きずろうとした。


 ほんの少しでいい。


 あと少しだけ、息子のそばへ行きたかった。


「お願い……」


 震える声が漏れた。


「お願い……お願い……」


 ヒナは床を這った。指先が、息子へ向かって伸びていく。


「おねが……リョウタ……」


 もう一度、名前を呼ぼうとした。しかし、声は続かなかった。


 伸ばしていた手が、力なく床へ落ちた。


 それでも、その指先は息子の方へ向けられたままだった。


 しばらくの間、誰も声を発しなかった。やがて、見知らぬ男の一人が、ヒナの元夫へ顔を向けた。


「おい……この女、死んでるぞ」


 男は床に倒れたヒナを見下ろした。


「俺たちへの金はどうするんだ?」


「うるせえな」


 元夫は苛立ったように吐き捨てた。


「ほかにも方法はいくらでもあるだろ」


 もう一人の男が、動かなくなったリョウタへ視線を向けた。


「あのガキはどうする?」


「はあ?」


 元夫は面倒くさそうに顔を上げた。


「どうするかって?」


 そして、冷たく言い放った。


「クソガキが一人死んだって、代わりはいくらでもいるだろ」


 それだけ言うと、男はリョウタの身体をまたいだ。そして、玄関へ向かって歩き始めた。残りの二人も、その後に続いた。


 やがて――


 扉が閉まった。


 家は、静まり返った。


 先ほどまで響いていた男たちの声は、もう聞こえなかった。床に倒れたヒナとリョウタだけが、そこに残されていた。


 テーブルの上には、リョウタが開いたままにしていたスケッチブックがあった。黒い鉛筆は、ソファの端に転がっていた。テレビの前には、ヒナが何度も置き場所を考えていた花が飾られている。


 その葉は、まだ生き生きとしていた。


 ほんの数時間前まで、この家には笑い声があった。母親が息子の頭をなでる姿があった。夕方になれば、三人で甘いものを食べに行くはずだった。


 しかし、今は何も聞こえなかった。


 ヒナの手は、床の上に伸ばされたままだった。その指先は、最後まで息子の方を向いていた。顔は、天井へと向けられていた。


 ほんの数時間前――


 子供たちと過ごす夜のことを考えながら、眺めていた天井だった。


 その瞳が色を失い、虚ろになっていたのは、死んだからではなかった。


 すぐそばにあった光を、失ってしまったからだった。

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