第2話「初めての接触」
夜の闇が、静まり返った校舎を包んでいた。
ケンは冷たい床の上で目を覚ました。顔も身体も血にまみれていた。頭を持ち上げようとした瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走り、思わず顔をしかめた。
しばらくその場に座り込み、何が起きたのかを思い出そうとする。上級生たちの笑い声。腹に叩き込まれた拳。そして、頭に受けた強烈な蹴り。
記憶が少しずつよみがえってきた。
ケンは顔に手を伸ばし、目の周りにこびりついた乾いた血を拭った。そして、ゆっくりと辺りを見回した。
ふと、地面に落ちている弁当箱が目に入った。今朝、母親が作ってくれた弁当だった。中身は床に散乱し、弁当箱は押しつぶされ、汚れていた。
ケンはしばらく、ただそれを見つめていた。
やがて何も言わずに身をかがめ、弁当箱を拾い上げた。そのまま鞄を取りに、教室へ向かって歩き始める。
廊下には誰もいなかった。校舎の中は、不気味なほど静まり返っていた。自分以外、誰の気配もない。
そのことに気づいた瞬間、ケンの頭にリョウタの顔が浮かんだ。
「くそっ! リョウタはどこだ? 帰るのが遅くなっちまった!」
慌てて教室に駆け込み、鞄をつかむと、出口へ向かって走り出した。
校舎を出る直前、携帯電話を取り出して画面を確認する。しかし、何も映らなかった。
充電が切れていた。
これでは母親に連絡することもできない。ケンは唇をかみしめた。
今は、一刻も早く家に帰るしかなかった。
校門を飛び出し、階段を駆け下りる。ホースパークを通り過ぎ、道路を渡ると、さらに足を速めた。
しかし、水路のそばを通りかかったときだった。
「きゃああっ!」
突然、夜の静けさを切り裂くような悲鳴が響いた。
ケンは足を止めた。荒くなった呼吸を整えながら、声のした方向へ顔を向ける。
そこには、体格のいい四人の男たちが、一人の女性を取り囲んでいた。女性は必死に逃れようとしていたが、男の一人がその腕を強くつかみ、離そうとしなかった。
ケンは歯を食いしばった。自然と両手に力が入る。
その瞬間、頭の奥に再び激しい痛みが走った。特に額の中心が熱かった。何かが内側から押し広げようとしているかのように、熱は少しずつ強くなっていく。
(僕に……何ができる?)
逃げなければならない。早く家に帰らなければ。頭ではそう分かっていた。
けれど、目の前の女性を見捨てることだけは、どうしてもできなかった。
男たちと戦えるはずがない。四人とも自分よりはるかに大きく、強そうだった。昼間、たった数人の上級生にさえ何もできなかった自分が、あの男たちに勝てるわけがない。
それでも、一つだけ考えが浮かんだ。
(僕に注意を向けさせれば……あの人は逃げられるかもしれない)
ケンは深く息を吸った。震える足に力を込め、背筋を伸ばす。そして、恐怖を押し殺すように叫んだ。
「おい、そこの馬鹿ども!」
四人の男たちが、一斉にこちらを振り向いた。
その一瞬の隙を逃さず、女性はつかまれていた腕を振りほどいた。そして、水路の反対側へ向かって必死に走り出した。
「このクソ野郎! ただじゃ済まさねえぞ!」
男の一人が怒鳴った。
ケンは息をのんだ。次の瞬間、四人全員が自分に向かって走り出したからだ。
(くそっ……!)
ケンはすぐさま背を向け、ホースパークへ向かって駆け出した。背後から、荒々しい足音が迫ってくる。振り返る余裕などなかった。ただ必死に足を動かした。
しかし、どれだけ速く走っても、背後の足音は小さくならなかった。むしろ、少しずつ近づいているようにさえ感じられた。
(逃げ切れない……!)
息が苦しい。頭もまだ痛んでいる。それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
そのとき、前方に学校へ続く長い階段が見えた。階段のそばには、今朝リョウタが気にしていた、あの小さなブランコがあった。
ブランコが取り付けられた大きな木の根は、周囲の岩の隙間にまで伸びていた。ケンは走りながら、その岩の間に狭いくぼみがあることに気づいた。人がようやく一人入り込めるほどの隙間だった。
ほかに選択肢はなかった。
ケンは迷わずそこへ向かい、身をかがめて岩の間に滑り込んだ。大きく平らな岩の陰に身体を押し込み、背中を岩肌に押しつける。
息を殺した。
足音が近づいてくる。
一歩、また一歩。
やがて、男たちは階段のそばで立ち止まった。
「どこに行きやがった?」
一人の男が苛立った声を上げた。
「そっちを探せ!」
別の男が怒鳴る。
ケンは膝を抱え、じっと動かずにいた。荒い呼吸の音さえ聞かれそうで、口元を手で押さえた。
男たちの声が、しばらく辺りに響いていた。やがて足音が少しずつ遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなるまで、ケンは動かなかった。
ようやく息を吐き出す。
「はあっ……はあっ……」
両手で頭を抱えた。
「どうして……?」
小さな声が漏れた。
どうして今日に限って、こんなことばかり起こるのだろう。
学校で殴られ、気を失い、気づけば夜になっていた。家に帰ろうとすれば、今度は見知らぬ男たちに追いかけられる。
何もかもが、おかしかった。
ケンはゆっくりと顔を上げた。すると、視線が自然と少し先にあるブランコへ向かった。
風は吹いていなかった。木々の葉さえ、ほとんど動いていない。
それなのに――
ブランコだけが、かすかに揺れていた。
前へ。
後ろへ。
前へ。
後ろへ。
ケンは目を細めた。誰も乗っていない。誰かが押しているわけでもない。それでも、ブランコは静かに揺れ続けていた。
その瞬間だった。
「いやあああっ!」
突然、悲鳴が響いた。
ケンの身体がびくりと震えた。
先ほど水路のそばで聞いた悲鳴とは違う。もっと近い。すぐそばの、どこかから聞こえてくる。
誰かが苦痛に叫んでいた。
ケンは反射的に、くぼみの奥へさらに身体を引いた。
「何が起きてるんだ……? まさか、夢でも見てるのか?」
震える声でつぶやいた。
再び悲鳴が響いた。そして、もう一度。
悲鳴が大きくなるにつれ、身体の奥に奇妙な熱が広がり始めた。ケンは額の中心に手を当てた。
外側には何の異常も感じられない。しかし、その奥では、何かが燃えているようだった。
熱は次第に強くなっていく。まるで頭蓋骨の内側に、燃え盛る炎を押し込められたかのようだった。
「あ……ぐっ……!」
ケンは額を押さえ、歯を食いしばった。何が起きているのか分からなかった。ただ、尋常ではない何かが、自分の身体の中で起こっている。
そう感じた。
そのとき――
ぽたっ。
地面に、何かが落ちた。
続けて、もう一滴。
ケンは足元へ目を向けた。暗がりの中に、小さな赤い染みが広がっていた。
慌てて鼻に手を当てる。指先が赤く染まった。
鼻血だった。
「な……何で……?」
その直後、耳の奥から温かいものが流れ出す感覚があった。震える指で耳に触れる。ゆっくりと手を離した。
血だった。
そして、間もなく目からも血が流れ始めた。頬を伝う生温かい感触。視界がにじんでいく。
「な、何が……起きてるんだ……?」
声が震えた。
次の瞬間、胸の奥に激痛が走った。まるで心臓を無数の針で突き刺されているかのようだった。
「ぐああっ……!」
ケンは胸を押さえた。痛みはわずか数秒のうちに、耐え難いほど激しくなっていった。
身体を支えきれず、その場に横倒しになる。両手で頭を抱え込み、身体を丸めた。
(止まれ……)
呼吸が乱れる。
(頼む……もう、止まってくれ……!)
何度願っても、痛みは消えなかった。
ケンは固く目を閉じた。すると、暗闇の中にリョウタの姿が浮かんだ。
今朝、朝食の席で楽しそうに話していた弟。新しく買ってもらった靴を、大切そうに履いていた姿。
続いて、母親ヒナの顔が浮かんだ。いつもと変わらない、温かな笑顔だった。
『今夜は親子丼にするから、早く帰ってきてね。いい?』
朝、母親がそう言っていた。
ケンは震える手で、鞄の肩ひもを強く握りしめた。
(帰らなきゃ……)
ただ、それだけを考えた。
家に帰りたい。母親と弟のいる、いつもの家へ。あの玄関を開ければ、すべてが元どおりになる。
そんな気がしていた。
どれほどの時間が過ぎたのだろう。
やがて、身体を襲っていた激痛が少しずつ和らぎ始めた。燃えるようだった額の熱も、徐々に引いていく。
ケンは荒い呼吸を繰り返しながら、震える手を顔に当てた。出血も、いつの間にか収まり始めていた。
「はあっ……はあっ……」
しばらくして、ようやく顔を上げた。岩の陰から慎重に外をのぞく。
辺りには誰もいなかった。男たちの姿も、あの女性の姿も見えない。
ケンは木のそばへ視線を向けた。
ブランコは、もう揺れていなかった。
辺りは静まり返っていた。まるで、先ほどまで起きていた出来事が、すべて幻だったかのように。
ケンは岩に手をつき、無理やり身体を起こした。足元はまだふらついていた。それでも、立ち止まっているわけにはいかなかった。
再び走り始める。
もう、家に帰ることしか考えていなかった。
だが、しばらく走ったところで、自分の姿に気づいた。顔にも服にも、まだ血が残っていた。
こんな姿を母親に見せれば、どれほど心配させてしまうだろう。
ケンは足を止めた。水路から少し離れた通りの端にしゃがみ込み、鞄を開けた。
中から、半分ほど水の残ったペットボトルを取り出す。ふたを開け、残っていた水を顔にかけた。
血を拭い取ろうとしたが、水はすぐになくなってしまった。手さえ、十分にきれいにできなかった。
ケンは空になったペットボトルを見つめた。そして、水路の方へ視線を向けた。
仕方がなかった。
水路に沿ってしばらく歩き、大通りから離れた、人目につかない場所を探した。やがて、下へ降りられる場所を見つけた。
周囲に誰もいないことを確かめ、慎重に水辺へ降りる。流れる水のそばにしゃがみ込んだ。
両手ですくった水を顔にかけ、乾きかけた血を洗い落とす。何度も繰り返した。腕も、手も、洗えるところはできる限り洗った。
それでも、服に染みついた血や汚れまでは落とせなかった。
ケンは濡れた手を見つめた。
もう、ほかにできることはなかった。
水路から上がると、再び家へ向かって走り出した。
自分の住む通りが見えてきたころには、すっかり息が切れていた。ケンは道の端で立ち止まり、膝に手をついた。
何度か深く息を吸い、呼吸を整える。そして、ゆっくりと顔を上げた。
家の明かりが、まだついていた。
その光を見た瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
帰ってきた。
ようやく、家に帰ってこられた。
ケンは玄関へ歩み寄った。扉の前に立ち、何度かノックする。
まもなく、家の中から慌ただしい足音が聞こえてきた。
足音は玄関へ近づき――
勢いよく扉が開いた。
「ケン……?」
ヒナだった。
母親は、目の前に立つ息子の姿を見た瞬間、言葉を失った。
血の染みついた制服。汚れた顔。疲れ切った表情。そして、何より、今にも倒れそうなほど弱々しく立っている息子の姿。
ヒナの表情が、みるみる歪んでいった。
次の瞬間、彼女はケンを強く抱きしめた。
「この馬鹿! 遅くならないでって言ったでしょう!」
震える声だった。
ヒナはケンを抱きしめたまま、声を上げて泣き始めた。右手を息子の後頭部に添え、自分の胸元へ引き寄せる。
まるで、もう二度と離したくないとでもいうように。
ケンは何も言えなかった。ただ、母親の腕の中で静かに目を閉じた。
「僕が悪かった……ごめん」
ようやく、それだけを口にした。
しばらくの間、二人はそのまま動かなかった。
やがて、ケンの頭にリョウタのことが浮かんだ。慌てて母親から身体を離し、家の中を見回す。
「リョウタはどこ?」
「心配しないで。あの子は大丈夫よ……」
その言葉を聞いて、ケンはようやく小さく息を吐いた。
ヒナは息子の身体がまだ震えていることに気づいた。それ以上、玄関に立たせておくわけにはいかなかった。
ケンを家の中へ入れ、椅子に座らせる。温かいお茶を用意すると、向かい側の席に腰を下ろした。
けれど、その目は一瞬たりとも息子から離れなかった。
「誰にこんなことをされたの?」
ケンはうつむいた。しばらく黙っていたが、やがて小さな声で答えた。
「水路のそばで足を滑らせて、下に落ちたんだ」
ヒナの表情が変わった。
先ほどまで顔に浮かんでいた心配の色が、怒りへと変わっていく。彼女は両手でテーブルを強く叩いた。
「正直に言いなさい! 誰があなたにこんなことをしたの!?」
ケンは肩を震わせた。
母親の怒った声を聞くのが、つらかった。ヒナは、ただ自分を心配している。それは分かっていた。
それでも、本当のことを話す気にはなれなかった。
数秒間、沈黙が続いた。
やがてケンは顔を上げ、母親の目をまっすぐ見つめた。
「水路のそばで転んだんだ」
同じ答えを繰り返した。
ヒナは何も言わなかった。息子が嘘をついていることなど、分かっていた。
あの傷だらけだったはずの姿を、ただ転んだだけで説明できるはずがない。
それでも、これ以上問い詰めることはしなかった。
ヒナは震えるように息を吸い、しばらく黙って座っていた。やがて、ゆっくりと立ち上がった。そして、奥の部屋へ向かった。
数分後、清潔な服と水、包帯を持って戻ってきた。
「じっとしててね……」
ヒナはケンのそばに座り、傷の手当てをしようとした。まず、顔に残った血をそっと拭い取る。
そして、傷の状態を確かめようと、顔を近づけた。
その瞬間――
ヒナの手が止まった。
「……え?」
顔を見つめる。
額にも、頬にも、傷が見当たらなかった。
不思議に思い、今度は腕や身体へ目を向ける。
血はついていた。
確かに、血の痕が残っていた。
なのに――
傷がなかった。
切り傷も、腫れも、出血の原因になりそうな痕さえ、どこにも見当たらなかった。
ヒナは信じられないというように、息子を見つめた。
「どうして……?」
ケンも自分の身体へ視線を落とした。腕を見る。手に触れる。顔にも、そっと指を当ててみる。
何もなかった。
それどころか、先ほどまで耐えられないほど激しかった頭の痛みさえ、ほとんど消えていた。
ケンは言葉を失った。何が起きているのか、まるで理解できなかった。
しばらくの沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「もう……寝ないと」
それだけ言うと、母親が用意してくれた清潔な服を手に取った。
ヒナは何も言わなかった。ただ、階段を上がっていく息子の背中を、じっと見つめていた。
ケンは着替えを済ませ、自分の部屋へ向かおうとした。しかし、その途中で洗面所に立ち寄った。
鏡の前に立ち、蛇口をひねる。水の流れる音が、静かな洗面所に響いた。
いつもなら、この音を聞いているだけで心が落ち着いた。
だが、今夜は違った。
ケンは両手に水をため、顔にかけた。そして、ゆっくりと顔を上げた。
鏡を見た。
「……っ!」
息が止まった。
鏡の中に映っていたのは、血にまみれた自分の顔だった。
額から血が流れている。
目からも。
口元からも。
真っ赤な血が頬を伝い、顎から滴り落ちていた。
ケンは震える手で、自分の顔に触れた。しかし、指先には何もつかなかった。
それなのに、鏡の中では血が流れ続けていた。白い寝間着が、少しずつ赤く染まっていく。
「な……何だよ、これ……」
恐怖に駆られ、ケンは蛇口へ目を向けた。
そして、凍りついた。
蛇口から流れていたのは、水ではなかった。
真っ赤な血だった。
洗面台の中へ、絶え間なく血が流れ落ちていた。
ケンは二歩、後ずさった。心臓が激しく脈打っている。逃げ出そうとしても、足が思うように動かなかった。
恐る恐る、もう一度鏡を見る。
血まみれの自分が、こちらを見つめていた。
ケンは何度か、強くまばたきをした。
その瞬間――
すべてが元に戻った。
鏡に映っているのは、いつもの自分の顔だった。血など、どこにもついていない。白い寝間着も、汚れていなかった。
蛇口からは透明な水が流れている。洗面台には、血の一滴さえ残っていなかった。
ケンはその場に立ち尽くした。何が起きたのか分からなかった。ただ、目の前で見たものが現実だったとは、どうしても思えなかった。
「……幻覚、だよな?」
誰にともなく、つぶやいた。
返事はなかった。
聞こえてくるのは、蛇口から流れる水の音だけだった。
ケンは震える手で蛇口を閉めた。そして、急いで洗面所を出た。
自分の部屋へ戻ると、ベッドにもぐり込んだ。横を向き、目を固く閉じる。
もう、何も考えたくなかった。ただ、一刻も早く眠りたかった。
朝になれば、すべてが元どおりになっているかもしれない。今日起きたことなど、全部、悪い夢だったのだと思えるかもしれない。
ケンはそう信じたかった。
しかし――
どれほど強く目を閉じても、頭の中から消えない光景があった。
風もない夜に、ゆっくりと揺れるブランコ。
どこからともなく響いてくる、苦痛に満ちた悲鳴。
蛇口からあふれ出す、真っ赤な血。
そして――
その正体も、どこで見たのかさえも思い出せない。
血のように赤い、あの光。




