第1話「内なる空虚」
佐藤ケンは目を開けた。ベッドの端に腰を下ろし、深く息を吐く。勉強机から壁へとゆっくり視線を移したが、胸の奥に沈んだ重苦しさは消えなかった。
いつもと変わらない朝のはずだった。
ケンは重い身体を起こし、顔を洗うために洗面所へ向かった。鏡の前に立ち、蛇口へと視線を落とす。蛇口をひねると、水の流れる音が静かな洗面所に響いた。
日常にあふれるさまざまな物音の中で、朝、この水音を聞いているときだけは、心がほんの少し落ち着いた。いつからだろう。この音に耳を傾けていると、ほかのことを考えずに済むようになったのは。階下から聞こえてくる、母親が朝食を準備する物音さえ、次第に遠ざかっていく。
そのときだった。
廊下を駆けてくる軽い足音が聞こえ、ケンはびくりと肩を震わせた。
「兄ちゃん? また流れる水をぼーっと眺めてたの?」
弟のリョウタだった。
「いや……ただ、お湯が温まるのを待ってただけだよ」
「ふーん、そうなんだ。もうすぐ朝ごはんできるよ。学校に遅れちゃうから、早くしよう」
ケンは小さくうなずいた。身支度を済ませ、リョウタとともに階下へ降りていく。
「おはよう、ケン」
「おはよう、母さん……」
母親のヒナは二人の前にそれぞれ皿を置くと、向かいに座ったケンへ目を向けた。何かを言い出そうとして、少しためらっているようだった。
「あのね、今日、学校が終わったら、三人で何か甘いものでも食べに行かない?」
「母さんとリョウタの二人で行ってきなよ。最近、胃の調子もあんまりよくないし」
「またそんなこと言って……たまには意地を張るのをやめなさい。ホースパークの近くにあるお店、この辺りで一番おいしいって評判らしいわよ」
本当は、ケンも行きたかった。母親と弟と、三人で出かけたいと思っていた。けれど、母が毎日どれほど苦労して働いているかを、誰よりもよく知っていた。
つい最近、母は給料を前借りしたばかりだった。そのお金を自分のために使ってほしくはなかった。少しでも母自身やリョウタのために残しておいてほしかった。
だから、行きたいとは言えなかった。
ケンは突然、席を立った。
「ほら、リョウタ。行くぞ」
ヒナは慌てて後を追い、ケンの腕をつかんだ。振り返ったケンの目に映ったのは、いつもと変わらない母親の温かな表情だった。
「ケン。今夜は親子丼にするから、早く帰ってきてね。いい?」
「わかった。じゃあ、行ってきます」
そのとき、リョウタが玄関へ向かって勢いよく駆け出した。ケンは少し驚きながらも、その後を追った。玄関で靴を履くケンの隣で、リョウタは新しく買ってもらった靴を大切そうに履いていた。
二人は家を出て、学校へ向かって歩き始めた。
ケンは弟の様子を気にかけながらも、心の奥に居座る、得体の知れない感覚について考えていた。それは、いつからか自分の中に生まれていた「空虚」だった。少なくとも、ケンはそう感じていた。
――いったい、これは何なんだろう。
学校で起きる嫌な出来事のせいだろうか。欲しい漫画を買うお金がないからだろうか。それとも、幼い頃に父親が自分たちを置いて去って以来、母親が一人で背負い続けてきた重荷が、自分の心にまでのしかかっているのだろうか。
考えても、答えは見つからなかった。
ふと、隣を歩くリョウタへ目を向ける。弟はいつもと変わらず、楽しそうに歩いていた。まるで、この世に悩みなど一つもないかのように。その明るさが、少しだけうらやましかった。
ケンは顔を上げた。朝の空は、鮮やかな青に染まっている。深く息を吸い込んでも、胸の奥の重さは変わらなかった。
しばらく歩くと、二人は母親が話していた洋菓子店の前を通りかかった。店から漂う焼きたてのお菓子の甘い香りが、辺りに広がっていた。リョウタは足を緩め、落ち着かない様子で店を見つめていた。
ケンは何も言わなかった。
店の前の横断歩道に差しかかると、リョウタがそっとケンの手を握った。二人はそのまま横断歩道を渡り、ホースパークを通り過ぎていった。
丘の上にある学校へ続く道を歩いていると、リョウタが突然、長い階段の脇にある小さなブランコを指さした。
「あのさ、兄ちゃん。このブランコって、前からここにあったっけ?」
ケンは横目でブランコを見た。
「さあ……知らないな。ほら、もう少しだぞ」
リョウタは何度も振り返っていた。どうしても、そのブランコが気になるようだった。
やがて学校の前に着くと、リョウタが口を開いた。
「兄ちゃん、学校が終わったらまたね」
「ああ、またな」
弟と別れたケンは、重い足取りで教室へ向かった。
廊下を歩いていると、突然、笑い声が聞こえた。ケンは反射的に足を止め、声のした方向を振り返った。だが、そこには特におかしな様子はなかった。誰かが自分を笑っているわけでもない。
それなのに、胸の奥がざわついた。
ケンは視線を落とし、歩く速度を上げた。
教室に入ると、一番後ろにある自分の席へ向かった。クラスメイトたちは、もうすぐ始まる夏休みの話で盛り上がっていた。楽しそうな声が教室のあちこちから聞こえてくる。ケンはノートを取り出し、静かに授業が始まるのを待った。
授業が始まって間もなく、またあの笑い声が聞こえた。
ケンの左手が、椅子の端を強く握りしめた。心臓の鼓動が速くなる。声のする方向へ、ゆっくりと顔を向けた。
――誰もいない。
背筋に冷たいものが走った。
――何なんだ、これ……?
耳を澄ませる。
――あの声……どこから聞こえてくるんだ?
ケンは窓の向こうに見える階段へと視線を向けた。
まさにそのとき――
「ケン?」
教師の声が教室に響いた。
「どうした? 授業を聞いていないようだが、何かもっと大事なことでもあるのか?」
ケンは慌てて顔を上げた。
「すみません……」
それだけ答えると、うつむいた。
教室のあちこちから、ひそひそと話す声が聞こえ始めた。何を話しているのかは聞き取れなかった。それでも、ケンは歯を食いしばった。
昼休みになると、ケンは校舎の中でもほとんど人が寄りつかない片隅へ向かった。そこで一人、母親が用意してくれた弁当を広げた。
静かな場所だった。少なくとも、ここなら誰にも邪魔されずに昼食を済ませられると思っていた。
しかし、その静けさは長く続かなかった。
廊下の向こうから、数人の足音と笑い声が聞こえてきた。上級生の一団だった。ケンは顔を上げず、弁当へ視線を落とした。身動きもせず、ただ彼らが通り過ぎるのを待った。
――そのまま行ってくれ。
心の中で、そう願った。
だが、足音の一つが近づいてきた。
「おい。お前、こんなところで何してんだ?」
ケンはゆっくり顔を上げた。目の前には、上級生の一人が立っていた。
「すみません……邪魔なら、すぐどきます」
自分でもわかるほど、声が震えていた。
少年はケンを見下ろし、口元に薄い笑みを浮かべた。
「へえ? それで、どこへ行くつもりなんだ?」
ケンは答えなかった。何を言っても、相手を苛立たせるだけかもしれない。一度か二度、突き飛ばされれば、それで済むだろう。きっと、そのうち飽きてどこかへ行く。そう思っていた。
だが、次の瞬間――
腹部に強烈な拳が叩き込まれた。
「がっ……!」
息が詰まった。身体が折れ曲がり、そのまま床へ崩れ落ちる。腹の奥からこみ上げる痛みに、まともに息を吸うこともできなかった。
――どうして……?
ケンは床に手をついた。立ち上がろうとしても、身体が思うように動かなかった。
そのとき、上級生の一人が弁当に目を向けた。
「何だよ、これ」
少年は弁当箱を手に取った。ケンは思わず顔を上げた。母親が朝、用意してくれた弁当だった。
「やめ……」
言い終わるより早く、少年は弁当の中身をケンの顔に投げつけた。食べ物が顔に当たり、床へと散らばった。
ケンは動けなかった。ただ、床に落ちた弁当を見つめていた。今朝、母親が自分のために用意してくれたものだった。
――どうして?
拳を握りしめる。
――どうして……?
喉の奥が震えた。
――どうして、こんなことができるんだよ……。
痛みよりも、恐怖よりも、もっと別の何かが胸の奥からこみ上げてきた。
――どうして、そこまで残酷になれるんだよ……!
――くそったれえええっ!!
ケンは心の中で絶叫した。
その直後だった。
頭に強烈な蹴りを受けた。
視界が大きく揺れ、床の感触さえ遠ざかっていく。音が消えた。光が消えた。
そして、ケンの意識は暗闇へと沈んでいった。
――どれほどの時間が過ぎたのだろう。
ケンは「何もない場所」で目を開けた。
目の前には、何もなかった。地面も、空も、壁もない。どこまでも広がる、果ての見えない虚無。
ケンはゆっくりと自分の両手を見つめた。身体全体が、何か巨大なものに押しつぶされているようだった。
「この痛みは……いったい何なんだ?」
声を出しても、返事はなかった。ケンの身体は、何もない宇宙のような空間を漂い始めた。
そのときだった。
聞き覚えのある笑い声が、どこからともなく響いてきた。ケンは目を大きく見開いた。
「また……あの笑い声が聞こえる」
声のする方へ進んでいく。不思議なことに、近づけば近づくほど、身体を押しつぶしていた重さが少しずつ和らいでいった。
ケンは目を凝らした。虚無の奥に、何かが浮かんでいた。球体のような形をした、正体のわからないもの。
血のように、真っ赤だった。
ケンはそれを見つめた。何なのかはわからない。なぜここにあるのかも、理解できなかった。それでも、目を離すことができなかった。
これまで経験してきた、あらゆるつらい記憶がよみがえってくる。父親が去った日のこと。母親が一人で背負い続けてきた苦労。学校で浴びせられた笑い声。そして、床に散らばった弁当。一つ一つの記憶が、鋭い針となって胸の奥に突き刺さっていくようだった。
ケンは赤い球体へと近づいた。気づけば、両手が無意識にその何かへと伸びていた。
その瞬間――
笑い声が止んだ。何も聞こえなくなった。静寂だけが、そこに残った。
ケンは動きを止めた。そして、ようやく理解した。
ずっと以前から自分の中に存在していたもの。感じていながら、その正体を知ることができなかったもの。胸の奥に沈んでいた、名前のない感情。
それは、悲しみでも、恐怖でもなかった。
ケンが感じていたもの――
それは、怒りだった。




