その男、他国を訪れる
「どうなんでしょうね。まあでも、なんとかなりますよ」
セキソウの口から放たれたあまりにもいい加減な言葉に、アヅキは開いた口が塞がらなかった。
目の前で丸くなって座る十代後半の青年も眉尻を下げ、がっくり項垂れる。
「適当なこと言わないでくださいよ。このまま喧嘩別れになったら、何のために田舎からやっとの思いで駆け落ちしてきたって言うんですか。帰る場所だってもうないんですよ……」
魂が抜けたようにふらふらと歩く青年にセキソウが声を掛けたのが始まりだった。
彼女との痴話喧嘩で悩んでいるという話でしかなく、深刻に考えるほどではないとアヅキも思っていたが、それにしてもセキソウはにこやかにしていた。
「大丈夫ですよ、ちゃんと収まるところに収まりますから」
「もういいです。うっかり話した俺がアホだった」
怒りのお陰で元気を取り戻した、ということもなく、青年は重々しい足取りで去っていく。これではさすがに青年が気の毒だ。
「いいんですか?」
「生まれ故郷から出ることなく一生を終える人も多いこの世の中、駆け落ちするほどの愛があるなら何事も良いようになりますよ。大変、羨ましい限りです」
これがあの、一国を弁舌一つで丸め込んだ男なのかとアヅキは自分の記憶を疑った。
しかし、今となっては新鮮な驚きはない。
「帰りは名物の蕎麦が食べたいですねえ」
小さくなる青年の背中を見ながら、セキソウが呑気にそう呟く。墨染の衣を纏って僧侶のような恰好をしているが僧侶というわけではないらしい。頭に被った頭巾からは髪の毛がはみ出している。
「先ほど食べたばかりでしょう……」
「先のことを考えられるのは今が充実している証拠です。これ即ち、衣食足りて礼節を知るということですね。しかしアヅキさん、この国の蕎麦は団子状ではなく麺状と聞きますが味も変わるのでしょうか?」
セキソウとは、こういう人なのだ。
アヅキはあの日以来、何度目かも分からない溜息を洩らした。
セキソウが颯爽と現れたあの日から二月以上経ち、夏の暑さも峠を越している。隘国の国主はセキソウの進言通りに合従策を掲げ、各国に多くの使者を派遣した。
その中心は勿論、セキソウだ。
まずは一つの加盟国を得るべし。合従策はそこから始まる。
セキソウのその言葉で選ばれたのが北に隣接する岳国だった。
岳国と隘国は似たような状況に置かれている。大国である野国を西に抱える小国にして、有事の際には二国が連携して野国と戦うこともあった。今は婚姻関係こそがないが親交の深い間柄だ。
そして今、岳国との交渉は大詰めを迎えている。
岳国の意見が纏まるまで多少時間は掛かったが、あとはもう合従に参加する旨の言葉を岳国の国主より受け取るだけだ。
ゆえに、セキソウは岳国に赴いていた。アヅキは護衛兼神術の専門家として、雇い主であるシバガキに同行を申しつけられている。
「それにしても中々戻ってきませんね」
アヅキが話を逸らすと、セキソウは「そうですねえ」と振り返り、ついさきほどまで中にいた武家屋敷を見やった。
立派な薬医門を構え、閉められた門扉の隣にある番所には二人の男が詰めている。
「予定は人それぞれありますからねえ。そろそろ私たちも中に戻りますか」
アヅキたちが待っているのは、岳国で長年家老を務める老人だ。
岳国との交渉はその老人を介して行われ、本来であればこのまま国主にお目通りが叶う予定だった。それが急遽の呼び出しを受けて家老が中座し、アヅキたちはその帰りを待ってこうして外の空気を吸って時間を潰していた。
「おや、タヌキでも迷い込んだようですね」
セキソウがふと、楽しそうにそう言った。
アヅキが耳を澄ますと、確かに迷い込んだタヌキが暴れ回っているようなどたばたとした物音が聞こえてくる。客人を招いている以上、いきなり大掃除を始めたとは考えにくく、あながちセキソウの冗談ではないのかもしれない。
アヅキが追い回されているタヌキの姿を想像して微笑ましく思っていると、セキソウが足取り軽く屋敷に入っていく。
「あまりうろちょろしないでくださいよ」
「失礼には失礼で返すのも礼儀ですよ。第一、私は田舎の百姓の出ですから知っている作法など田植えの作法ぐらいのものですからねえ」
セキソウなりの気遣いということか。急に真っ当になられると不意を突かれ、アヅキは何も言えなくなってしまった。
セキソウを追って薬医門をくぐって前庭に入り、いざ騒ぎの正体を確かめようとした時、背後からしわがれた声が掛かった。
「いやはや、お待たせして申し訳ない」
待ち人来る。白髪の老人が供を連れ、右足をひきずりながら近づいてきた。
「お待たせして申し訳ない。ささ、話の続きと参りましょう」
「それよりタヌキですよ、ご家老様」
セキソウの間の抜けた声に、家老は呆けたような顔になった。
しかし、再び何かが暴れているような音が聞こえるや、眉をひそめて家人を呼びつけた。
「こら! どこにいくんですか」
遠くから返ってきたのは返事とは思えないような女の声だった。家老が「失礼」と離れようとした時、ぬっと大男が玄関から出てきた。
両腕にはこれでもかと行李や櫃、長持までもを軽々と抱えたその体躯は、一般的な武家屋敷であれば天井に頭を着きそうなほど高く、腰に下げた二本の刀も包丁のように小さく見えた。
「あれー? なんで二人がここに?」
大男がのんびり喋るのと同時に、背後から年嵩の女中が顔を覗かせる。
瞬間、家老と目が合った。血相を変えて頭を下げる。
「ああ、すみません旦那様。今日来たばかりの下男でしてまだ色々と勝手が」
「下男? そんな話は聞いておらんぞ」
「え? 力仕事が大変だと話していたのを聞いておられて、新たに下男を用意してくれたのではありませんか?」
家老の視線が、大男の腰に差した二本の刀に向く。すると、大男はてれくさそうに頭を下げた。
その下がり眉に垂れ目、日向ぼっこでもしているようにのほほんとした顔は間違いなく、セキソウに付けられたもう一人の護衛のものだった。
「どこをどう見たら下男に見える?」
女中の目付きが鋭くなった。
「そんなところ見る余裕があったら人手が欲しいなんて言ってませんよ」
セキソウといいどうしてこうも呑気なのかとアヅキは呆れ、揉め始めた家老と女中に聞こえるように大男へ声をかけた。
「ノブミ殿、なぜここにいるんですか?」
「この家広くってさ、迷っちゃった」
「……そうではなく、街ではぐれたはずのあなたがどうしてこの屋敷にいるんですか?」
「聞いてた話思い出したら来れちゃった。それで勘違いされてるのは分かったんだけど困ってそうだし手伝ってたんだよ」
それなら最初から屋敷にいたのか。なぜその時言わない、とアヅキは思ったが、セキソウとはまた別の意味でノブミも言っても無駄な人だ。
えへへと笑うノブミにはどう声を掛けたものかと思案していると、セキソウが屋敷の奥を手で指し示した。
「大事の前の小事です。さあ、行きましょう」
家老に案内され、アヅキたちは書院に腰を下ろした。途端、家老が板張りの床に頭を着けた。
「まことに申し訳ありません。手違いがあったようですが、それも全て私の責任です」
「今日のようなおめでたい日に謝罪は似合いませんよ。ねえ、ノブミさん。ああ、紹介が遅れました。こちらカドマ・ノブミ殿。ついこの間から私の護衛を務めてもらっています」
家老は伏した姿勢を崩さず、顔だけを上げた。
「隘国のカドマというと、武の名門カドマ家の?」
「はい。現当主のご子息ですね」
家老の表情が一段と固くなる。すると、セキソウがひときわ明るい声を発した。
「ですがそのようなことはどうでもいいではありませんか。岳国と隘国が正式に結べば合従策は成立したも同然。すでに起きたことよりこれから手にする栄光を語らおうではありませんか」
「……かたじけない」
絞り出すようにそう言い、家老は上体を起こした。
「隘国と岳国は元より苦難を共にするいわば兄弟国。何があろうともその仲が割かれることはありません。婚姻のほうもつつがなく進んでいます。近いうちにこちらから御進物を持たせた使者を送れるかと」
予想外のことは起きたがようやく本題に戻れた。アヅキはほっとして、本来の役目である護衛の任に戻り、セキソウの背後に控えて成り行きを見守った。
「それは良かった。この婚姻同盟は合従策の土台であり、それ自体が野国の侵攻を遅らせる力を持ちます。全てにおいて大きな一歩となるでしょう」
「はい。合従策の中でも隘国と岳国の同盟は特別なもの。合従策が成功に終わったのちも、末永く両家の縁が続いていくことを願っています」
「それで、悪い呼び出しでしたか?」
セキソウが唐突に切り込む。家老の表情が固まり、二人は無言で見つめ合う。
突然、家老が座ったまま後ろに向き直る。そして、床の間に飾った刀を手に取った。そのままセキソウに膝を向け、目の前に刀を置いて頭を下げる。
「全ては私の不徳の致すところ。私の命一つでご容赦願いたい」
あまりにも突然だった。アヅキの頭に困惑が広がり、しかし背筋が冷たくなる。
宿老ともいえるこの老人は岳国でも強い影響力を持ち、以前から隘国との交渉役を務めてきた大人物だ。その人が、今まさに腹を切ろうとしている。
尋常ではない事態になっている。それだけはアヅキにも理解できた。
どうするつもりだとセキソウの背中に視線を送るが、その両肩にはまるきり力が入っていない。
「どうしますか、ノブミさん」
セキソウのその声掛けに驚いたのはアヅキだけではなかった。ノブミもまた跳ねるように反応する。
「ええ、俺ぇ?」
ノブミは鼻を掻き、後頭部を掻き、ゆっくり立ち上がって頭を下げたままの家老に歩み寄る。
「切腹は痛いからやめた方がいいと思いますよー」
言って、赤子を扱うように軽々と家老を立ち上がらせた。当の本人は目をぱちくりさせ、セキソウに目を向ける。
「つまりは……今耐えるべきは切腹の痛みではなく、嘗胆の苦みということですね。まずは事情をお話しください」
しばし家老は茫然としていたが、ノブミに軽く会釈して再び腰を下ろした。
「つい先ほど、礁国から使者が参りました」
礁国は、岳国や隘国の東に隣接する大国だ。
とはいえ、礁国を大国と形容するなら野国を超大国と形容しなければならないほど両国の差は大きい。それでも礁国はセキソウが掲げる合従策の中心的な国家であり、欠かせない存在だ。
「塩の値を上げると」
バカな。思わず口を突きそうになった言葉を、アヅキは寸前で堪えた。
「それが嫌であれば旗下に入れ。要約するとそのようなことを突き付けられました」
岳国は内陸国だ。
塩は生命線であり、地下から汲み上げた塩泉から多少は手に入るが、ほとんどは国外からの交易に頼っている。しかも大部分が礁国からの輸入であり、岳国は大昔から国を挙げてその交易路を整備して守ってきた。
「代替案は?」
「どうしても二か国を経由することになるので輸送費が跳ね上がります。それでしたらまだ礁国の要求を呑んだほうが安くつきます」
隘国もまた内陸国だ。庶民であるアヅキでも塩留めの厳しさは理解している。
これは事実上の宣戦布告だ。
「セキソウ殿には申し訳ないが、我らとて武士のはしくれ。このような態度を取られては我慢なりません。礁国が参加するようなら合従軍の参加はお断りさせていただきます」
さきほどの申し訳なさそうな顔はどこへやら、家老の顔はどこか生き生きとしていた。白髪もなぜか艶が生まれたように見え、若返ったようにさえ感じる。
本当に戦う気なのだ。アヅキはそれを実感して生唾を飲み込んだ。
しかし、どうしてこうなった。
岳国は小国であり山だらけで攻めるに難く土地も貧しい。だからこそ、岳国と礁国はこれまで良好な関係を築けていたはずだ。
さしものセキソウも微かに表情を強張らせて口を開く。
「礁国は今の国主に変わってから二十年余り平和主義を貫き、各国と融和的な外交を行っていました。それが今になってなぜ?」
「我らにとっても寝耳に水です。噂によれば一年ほど前に国主の嫡男が急死したという話もありましたが、もしかするとそれが影響を与えたのやも知れません」
なんにせよ、これは隘国にとっても大問題だ。
たった一国が合従策を叫んでも妄言でしかなく、賛同する国が現れて初めて現実味を持つ。その最初の国が、隘国と最も親交の深い岳国だった。その岳国が参加しないとなれば、セキソウの合従策は妄言に戻ってしまう。
「……最初に落とすべきは礁国だったようですね」
セキソウが呟く。
「塩に関しては可能な限り我が国が支援します。戦は上手く引き伸ばしてください。お任せしましたよ」
じっと家老の目を見つめ、もう一度「お任せしますよ」と念を押す。
「最後の使命と肝に銘じます」
それを聞くなりセキソウは立ち上がり、三人は屋敷を後にした。
先を急いで大路に出ると、目の前を歩く通行人が次々に脇に退いていった。アヅキたちが何事かと視線を送ると、国主の居城がある方角から歩いてくる一団があった。
前を行く一人だけが直垂を着て馬に乗り、残りは徒が十人ほど続いている。
不思議な光景だった。規模も小さければ威容もなく、通行人にも国主や重臣を前にした時のような緊張感はない。しかし誰の指図があったわけでもないのに、通行人が道を開けて好奇の目を向けている。
ふと思い出したように、ノブミが声を上げた。
「あれ礁国の家老の人ですよー。前に怒られたことがあります」
その時、ノブミの声に気付いたように先頭を行く直垂の男が馬上からこちらを見た。
綺麗に髭を剃った細身の中年だ。背も低そうで、とても武人には見えない。しかも右手はだらんと下がっており、不能になっているのかもしれない。
セキソウが先に会釈した。礁国の家老が会釈し返す。
そして、礁国の家老は馬を止めることなく三人の前を横切っていった。
「……すぐに礁国へ行きましょう。敵は礁国、とは言い切れませんが」




