その男、危機に陥る
「犯人を見たそうだ、ヨシナオさまの母親を殺した犯人をな」
心臓が跳ねた。
どこで見られた。百田屋を出入りする時に見られたのか。しかし新月の夜で顔が見えるわけがない。三人組で小柄なアヅキと大柄なノブミという特徴で判断したのか。
「……真実を言っているとは限らないでしょう」
そう言ったセキソウに眉一つの動きもない。それでも、心なしかその声は固くなっていた。
「かもな。でもひとまずヨシナオさまに報告しねえと。事実確認はそのあとでいい」
心臓の早鐘が止まらなかった。
ショウベイの言葉は苦し紛れの自己保身に決まっている。アヅキは何度も言い聞かせて自分の心を落ち着かせようとする。とにかく今できるのは、鎌切に疑われないよう動揺を隠すことだけだ。
「この件は私がマキムラ殿に任されています。ヨシナオさまの手を借りるわけにはいきません」
「何言ってんだ?」
鎌切が眉をひそめた。
「ヨシナオさまがショウベイの尻拭うならお前の仕事も終わりだろ。なに、身代わりでも用意してショウベイを逃がせばいいんだよ。それで双方納得だろ?」
これ以上の反論は鎌切に疑われるだけだろう。果たしてセキソウも頷き、アヅキたちはそのままヨシナオの屋敷に足を向けた。
まずい状況でしかなかった。
ショウベイの話がでまかせであれば問題ない。しかし、そうでなければ終わりだ。合従策は失敗に終わり、アヅキたち三人も間違いなく殺される。
「すみませんが、私はこの件をマキムラ殿に報告してきます。アヅキさん、私が戻るまでよろしくお願いしますよ」
「ちょっ、え?」
一人にしないでほしい。そう言いたかったがアヅキも分かっていた。どうにかするから時間を稼げとセキソウは言っているのだ。
だが、怒り狂ったヨシナオを止められるのか。
「ほら行くぜ嬢ちゃん」
なるようになれだ。死にたくなければやるしかない。アヅキは覚悟を決めて二人と別れて鎌切に付いていき、どうすればヨシナオを止められるか必死に頭を働かせた。
「つまりそいつは、人が殺されてるのに見て見ぬふりをしてたってことか?」
初めは客人と和やかに話していたヨシナオは、鎌切の報告を聞くなり声色を険しくした。
「俺の母親が殺されるところを、そいつは指咥えて黙って見てたのか!?」
怒声が肌に刺さった。
躰が震える。呼吸すらも咎められて殺されるのではないかと恐怖が募り、どんどん息苦しくなってくる。
「そんなの知りませんよ。で、どうすんですか?」
「ここに連れて来い。話はそれからだ」
駄目だ。それはさせてはならない。アヅキはなんとか気力を絞り出し、ヨシナオを視界の隅において恐る恐る口を開いた。
「まずは真偽の確認をするべきだと思います」
獰猛な目が、獲物を捕らえたようにアヅキを捉えた。
「だからここに呼ぶ」
すぐには声が出ない。油断すれば歯の根が合わずに音が鳴りそうになる。
「……ショウベイは大罪人です。それを屋敷に招くなど、ヨシナオさまの名誉に傷が付きます」
「傷は治る。そもそもその程度で傷が付く生き方をした覚えはねえ」
「しかしショウベイの一件は、セキソウ殿がマキムラ殿から直々に頼まれた役目です。いかにヨシナオさまと言えども横から手を出すのは些か……無礼ではないでしょうか?」
最後は目を瞑ってなんとか言い切った。もはや心臓が痛い。セキソウはいつになったら帰ってくる。というかどこで何をしている。
「セキソウには後で筋を通す」
声が冷たくなった。その冷たさがアヅキの心臓を握り、潰そうとしてくるような錯覚に襲われる。
「鎌切、何人か連れてショウベイを引きずってこい」
行かせてはならない。でも疑われてもならない。
そして、やるしかない。
「お待ちください。この件は魚辰屋を始めとした豪商や武家、何よりマキムラ殿も関わっている難題です。せめてセキソウ殿が来るまでお時間をいただけませんか」
ヨシナオはもう、答えてもくれなかった。
「じゃあ行ってくるぜ。死人が出ても許してくれよな」
鎌切の背中が離れていく。止めるべきはヨシナオか鎌切か。それよりこれ以上歯向かう真似をしてもいいのか。
思考が纏まらない。それなのに諦めたようにアヅキの躰から力が抜けていく。
「ヨシナオさま!」
ふと、鎌切の大声が門のほうから響いた。
「こういう場合はどうすればいい!?」
ヨシナオが腰を上げた。何が起きたのか、頭に浮かんだ淡い希望を押しとどめ、アヅキはできるだけ平静を保ってヨシナオに付いていく。
ノブミが、門前で立ち塞がっていた。
喜びと安堵が息に漏れる。しかし、セキソウの姿はない。鎌切がヨシナオを見やって、ノブミを親指で指し示した。
「なんの真似だ、カドマ」
射殺すようなヨシナオの視線を向けられているだろうに、ノブミは平然と見返していた。
「誰も出すなって言われたんでそうしてるだけです」
「セキソウにか。犯人が誰か知られると困ることでもあるのか?」
「知りません。でも出られると困ります」
その時、ノブミの後ろから近づいてくる人影があった。
「入ってもよろしいか?」
知らない男だ。おそらくヨシナオの食客の一人だろう。
「あーどうぞどうぞ」
のんびりとしたやり取りをして屋敷に入ってきた男は、腰を低くしてヨシナオに歩み寄る。
「ショウベイがその日、百田屋の近くで賭博をしていた証言が取れました。全くのでまかせではないと思われます」
いつの間にそんな指示を出していた。いやそんなことより火の油を注いだようなものだ。これでヨシナオが引き下がる理由がまた一つ減った。
「そこを退け、カドマ。俺の屋敷内で刃傷沙汰が起きても咎めるやつはいねえぞ」
そう言われてノブミは足元を見て、数歩下がって屋敷の外に出てまた足元を見ると、深く頷いて顔を上げた。沈黙がややあって、ヨシナオは食客たちに視線を送る。
三人がノブミに突進した。
きらりと光るものが見えた。ノブミは刀を抜こうとしない。構えることもせず仁王立ちで三人を見据えている。
アヅキが理解できたのはそこまでだった。
一人は宙を舞い、もう一人は門柱に叩きつけられ、最後の一人は壁にぶつかったようにノブミの眼前で足を止めた。
「あれがカドマの猛牛か」
ヨシナオが呟くと同時に、三人はくずおれて動かなくなる。ヨシナオは舌打ちをして腰に下げた刀の柄に手を置いた。
「鎌切、お前は手を出すな」
それが聞こえたのか、ノブミがやっと刀に手を掛けた。ヨシナオはノブミに近づいていき、三間ほどの距離で歩みを止める。
二人が柄を握った。
しかし、動かない。棒立ちのまま視線を交わして微動だにしていない。おそらく瞬きすらも止めている。
三間という距離はヨシナオの間合いだろう。その距離であれば一足飛びに詰め寄り攻撃できる。だから二人は機会を伺い、それに全神経を集中している。
止めなければならなかった。結果はどうあれ二人が無事で済まないことは、素人のアヅキにも分かる。それなのに、手が動いてくれない。神術を行使して二人を止めたいのに、指先一つ言うことを聞かない。
あの二人の邪魔をすることを、アヅキの本能が拒絶していた。想像するだけで呼吸が早くなり、恐怖が背筋を上り、殺されるという言葉が頭の中で何度も繰り返される。
刀を抜く時の、鯉口が擦れる微かな金属音が聞こえた。
砂を噛む足音が鳴る。
「刀から手を離してください」
セキソウの声。足音は二人が動いた音ではなく、門の向こうから聞こえていたのか。そして、ノブミの背中からセキソウが姿を現した。
その顔を見た瞬間、アヅキは膝を着いてしまった。
「どういうつもりだセキソウ!」
ヨシナオが叫ぶ。セキソウはひょうひょうとそれを受け止め、ノブミの前に出た。
「ヨシナオさまの身を案じているからお止めしているのです。国主さまが今のヨシナオさまをどう見られているか。冷静さを失ってその視点が抜け落ちているのではありませんか?」
ふと、肌を刺す感覚が和らいだ。
「今から二十五年ほど前に、礁国では壮絶な家督争いが起きたそうですね。最終的にヨシナオさまの祖父君が勝利したものの、その時の戦傷により間もなく亡くなり、元服したばかりの国主さまが跡を継いだ。その戦いの余波は凄まじく、国主さまのお心にも濃い影を落としたとか」
呼吸が楽になる。それでもまだ安心はできない。アヅキは壁に縋るようにして、なんとか立ち上がった。
「ヨシナオさまが政務からお離れになった根本的な理由も、家督争いを厭う国主さまを慮ってのことだとお聞きしました」
ヨシナオが、刀から手を離した。ノブミもそれに倣い、ようやく刺すような雰囲気が霧散する。
「爺や……父と兄の傅役にそう言われてな。母のこともあって離れた」
「であれば、政務に復帰された今のお立場が盤石ではないとご理解されているはずです。その上、厳格な法律家である国主さまの治世を乱すようにショウベイと取引すればどうなるか。お母上を亡くされたお気持ちは察するに余りありますが、機会はこの先いくらでもあります。ここはどうかご自身のために、そしてなにより合従策という大望のためにご自重ください」
深く、長く、ヨシナオは息を吐く。
「……ショウベイをどうするつもりだ?」
「棚上げするしかないでしょう。併呑派という敵を抱えているのに、国主さままで敵に回すわけにはいきません」
「いいだろう。鎌切、仇討ちされないようショウベイの周囲に人を付けろ。それ以上の接触はするな」
「了解」
鎌切は倒れた男たちを蹴り起こし、そのまま引き連れて屋敷を出ていった。
「時にセキソウ」
ヨシナオの声が、また冷ややかなものに変わっている。
「お前たちは母が殺された夜、勘定方のオカの屋敷から抜け出していたそうだな。オカの奥方が心配していたぞ」
危機は全く去っていない。
むしろヨシナオの疑いは深まっている。しかし思わず反応しそうになったアヅキと違い、セキソウは微笑みをたたえて佇んでいた。
「それは申し訳ないことをしましたね。オカさんは同じ心穏塾の出身というだけで礁国の役人ですから、屋敷の中で我が国の使者と会うのはどうかと思い外出したのですが、却って心配をお掛けしたようです」
「夜にか?」
「急使でしたので。もう解決したのでご心配には及びません」
しばし睨みあうような時間が続いた。だが、先に動いて身を翻したのはヨシナオだった。
「……間借りしている身だ、気を付けるといい」




