EP 9
「狂った算盤に、最強の弓使いが全額ベットした日」
森の奥から響く地鳴りは、徐々にその距離を縮め、不気味な震動となって村の土を揺らしていた。
「時給0円のデスマーチの始まりだな。おい、バイトリーダー、盤面はどうなってる」
アラトが口角を上げ、背負っていた弓の弦を鋭く弾く。
先ほどまで俺を「すぐ死ぬバカ」と見下していた男の目は、今は完全に俺の『算盤』に期待する共犯者のそれに変わっていた。
「客(魔物)の動線は、村の入り口のなだらかな石畳の坂道に絞る。あそこは両脇が防壁で塞がれていて、大群が押し寄せるには狭すぎる」
俺は地面に木の枝で村の入り口の図を描きながら、作戦を告げる。
「この狭い通路に、俺が出した『大容量の台所用中性洗剤』と『サラダ油』をぶちまけて、絶対に前に進めない『デスゾーン』を作る。……だが、魔物の数は異常だ。俺一人で撒いてちゃ、到底間に合わない」
「なるほどな。そこが俺の出番ってわけだ」
アラトはニヤリと笑うと、腰の魔法ポーチから何かを取り出した。
それは、ひよこのワンポイント刺繍が入った、可愛らしいピンク色の『エプロン』だった。
「……は? なにそれ」
俺とキャルルが呆気に取られる中、アラトは真顔でそのエプロンを身につけ、背中で紐をキュッと結んだ。
「俺のユニークスキル【家庭科】だ。これを装備している間、俺の料理、裁縫、整理整頓、掃除の能力は『神域』に達する。……笑うなよ、これでも伯爵家を追い出された時の貴重なサバイバルスキルだったんだからな」
「いや、笑ってないけど……絵面が凄まじいな」
「黙れ。さっさと洗剤と油を出せ、店長。俺が完璧な『ワックスがけ』をしてやる」
俺は痛む体を庇いながら、【コンビニショップ】の棚から大量の中性洗剤とサラダ油を具現化する。体力がごっそりと削られるが、今は出し惜しみしている余裕はない。
「よっしゃ、いくぞッ!」
アラトが洗剤のボトルを手に取った瞬間、彼の動きが常軌を逸した速度に変わった。
『掃除』の概念が極限までブーストされたアラトは、石畳の坂道に洗剤と油を絶妙な配合で散布し、どこからか出したモップを使って、摩擦係数を完全にゼロにする凶悪なコーティングを光の速さで施していく。
「す、すっげぇ……。あの男、魔法弓使いじゃなくてただの凄腕清掃業者なんじゃ……」
「……あいつ、意外と家庭的なのね。ちょっと見直したわ」
キャルルが感心したようにウサギ耳を揺らす。
ものの数分で、村の入り口は一歩踏み出しただけで重傷必至の『超絶滑走トラップ』へと変貌した。
「準備完了だ。……で、仕上げはどうする?」
エプロン姿のまま、アラトが額の汗を拭う。
俺はさらに体力を振り絞り、あの『画鋲』の大量セットを具現化した。
「前回、野生のロックバイソンで試した通りだ。滑った先に画鋲の海を作っておく。……だが今回は、それだけじゃない」
俺はアラトの顔を真っ直ぐに見た。
「洗剤と油で足元を奪い、画鋲でダメージを与えた後……滑り落ちて団子状態になった敵の群れに、アラトの魔法弓で『着火』してほしい」
「——なるほどな」
アラトの目が、獰猛な光を帯びた。
「サラダ油に引火させて、入り口を火の海にするって算段か。……お前のその狂った絵図、本当に俺の計算式(算盤)にピッタリ合いやがる」
「でも、一つ問題があるわ」
話を聞いていたキャルルが、腕を組んで口を挟んだ。
「魔物もバカじゃない。先頭が罠に気づいたら、止まるか、迂回しようとするかもしれないわよ」
「あぁ。だから、この『デスゾーン』に勢いよく突っ込ませるための『囮』が必要なんだが……」
俺が言い淀むと、キャルルは特注の安全靴のつま先でトントンと地面を叩いた。
「バカね。私がいるじゃない」
「キャルル? お前、まさか……」
「村長が一番安全な場所で震えてるわけにはいかないでしょ。それに、私の足の速さなら、魔物の大群だって引き剥がせるわ」
彼女の目は決意に満ちていた。
月兎族である彼女の身体能力、特に脚力は並の獣人を遥かに凌駕する。
だが、囮というのは一歩間違えれば大群に飲み込まれて死ぬ、最も危険な役回りだ。
「……無理はするなよ。俺たちのシフトは、誰か一人が欠けても回らないんだからな」
「わかってるわよ。あんたたちこそ、私の誘導を無駄にしたら蹴り飛ばすからね!」
キャルルは不敵に笑い、ダブルトンファーをクルリと回して構えた。
俺、アラト、キャルル。
いがみ合っていた三人が、村を守るという一つの目的のために、完璧な連携を組んだ瞬間だった。
完全に日が落ち、空に月が浮かび上がった頃。
『ギチギチ……!』『グルルル……ッ!』
森の木々がなぎ倒され、おびただしい数の赤く光る眼が、村の入り口へと迫ってきた。
合成死蟲将軍機をはじめとする、ゼロスが誘導してきたヤラセ配信用の魔物群だ。
そして、その群れの上空には、ふわりふわりと『神の眼』が浮かんでいるのが見えた。
いよいよ、悪趣味な配信の本番が始まる。
「——さぁ、いらっしゃいませ。地獄の深夜シフトの始まりだ」
俺は隠れ場所から、押し寄せる大群を静かに見据えた。
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