EP 6
「自分の血を吐いてでも、彼女は赤の他人を治癒する」
夕闇がポポロ村を包みかけ、油の掃除を終えた俺たちが息をついた時だった。
『助け……て……』
村の防壁の入り口に、血だらけのボロ布を纏った男が、泥にまみれて倒れ込んだ。
「おい、しっかりしろ! どうした!」
俺が駆け寄って抱き起こすと、男の腹部には深くえぐられたような巨大な裂傷があった。
どす黒い血が止めどなく溢れ出し、男の顔はすでに死人のように青白い。
背後から近づいてきたアラトが、冷たい目で男を一瞥した。
「致命傷だ。内臓までいってる。……置いておけ、陸人。もう助からねぇ」
「ふざけんな! まだ息があるだろ!」
「無駄なリソースを割くのはバカのやることだ。俺たちの村の住人でもねぇ、ただの余所者だぞ。この世界じゃ、毎日どこかで人間が死んでるんだ」
アラトの正論に、俺が奥歯を噛み締めた、その時だ。
「ちょっと! 防壁の前にゴミを捨てないでって、いつも言ってるでしょ!」
騒ぎを聞きつけたキャルルが、怒り心頭といった様子で村から飛び出してきた。
「また帝国の脱走兵? それとも酔っ払……ッ!」
文句を言いかけていたキャルルの目が、男の腹部の傷でピタリと止まった。
彼女のウサギ耳が、緊張でピンと張り詰める。
「どきなさい!」
キャルルはアラトを乱暴に突き飛ばすと、泥にまみれるのも構わず男の横に膝をついた。
懐から青々とした『陽薬草』を取り出し、両手で包み込む。
「おい、ウサギの姉ちゃん。やめとけ。そいつを治すには、お前の魔力と体力がどんだけ必要か……」
「黙っててッ!!」
キャルルの悲痛な叫びが、アラトの言葉を遮った。
彼女はギュッと目を閉じ、己の生命力(HP)そのものを薬草へ注ぎ込み始める。
淡い銀色の光——『月光薬』の輝きが手元から溢れ出す。
だが、他人の致命傷を癒やす代償は、俺の擦り傷を治した時とは比べ物にならなかった。
キャルルの顔から一瞬で血の気が引き、真っ白になる。
細い肩がガクガクと震え、彼女の端正な唇の端から、ボタボタと赤い血がこぼれ落ちた。
「キャルル! やめろ、お前が死ぬぞ!」
「……ッ、はぁ、はぁ……う、るさいわね……! ほっとけないじゃ、ないのよ……ッ!」
血を吐きながら、キャルルは光り輝く月光薬を男の傷口に押し当てた。
ジュゥゥッという音と共に、男の腹部の傷が急速に塞がっていく。
男の呼吸が穏やかになり、死の淵から完全に引き戻されたのを確認した瞬間——キャルルは糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
「キャルル!」
「……大丈夫よ。ちょっと、貧血になっただけ」
俺が抱き留めると、彼女は弱々しく笑い、人参の刺繍が入ったハンカチで口元の血を拭った。
「なんで、赤の他人にそこまで……」
俺の問いかけに、キャルルはフイッと顔を背けた。
「か、勘違いしないでよね。村の入り口で死体が腐ったら、病気が流行るかもしれないでしょ。村長としての危機管理よ……ただの、ね」
それは、俺が拾われた時と全く同じ、不器用すぎる照れ隠しの捨て台詞だった。
*
その夜。
村長の家の縁側で、キャルルは一人、月を見上げていた。
顔色はまだ悪い。俺はそっと近づき、彼女の隣に腰を下ろした。
「ほら、食え」
俺は【コンビニショップ】で出した『100円のなめらかプリン』を差し出した。
少しだけ体力を消費したが、今のキャルルの無茶に比べれば安いものだ。
「これ……甘い匂いがする。いいの?」
「あぁ。疲れた時は甘いもんだろ」
キャルルは一口食べると、ウサギ耳をパタパタと揺らして幸せそうに目を細めた。
「……私ね、元々はレオンハート獣人王国の、第三王女だったの」
ポツリと、キャルルが語り始めた。
「王族は月兎族の治癒力を独占したがる。私はずっと、お城の『鳥籠』の中で、偉い貴族や将軍たちのためだけに力を使わされてた。……城壁の外で、傷ついて泣いてる人たちがたくさんいるのに」
「……」
「それが嫌で、逃げ出したの。だからね、私の手の届く範囲で傷ついている人は……誰であろうと、絶対に死なせたくないのよ」
自分の血を吐いてでも、他人の痛みに寄り添う。
それが、キャルル・ムーンハートという不器用な少女の、決して折れない魂(芯)だった。
「……わかった。なら、俺がシフトに入ってる間は、あんたにこれ以上血は吐かせない。約束する」
「ふふっ。時給0円のバイトリーダーが、頼もしいこと言ってくれるじゃない」
俺たちが静かに笑い合った、その直後だった。
奥の部屋で寝かせていたあの男が、うわ言のように叫び声を上げた。
「逃げ、て……! 勇者の旗を掲げた、黒い鎧の連中が……ッ!」
男の絶望に満ちた声に、俺とアラトは顔を見合わせた。
「……魔物の群れを、この村に誘導して、くる……!」
理不尽な悪意の足音が、すぐそこまで迫っていた。




