86.「こんにちは。異世界の人」
「あそこは、この世界に落ちた天の母様のマナを全て集めた場所。この世界に流れる全ての水が辿り着く終着点よ。そして、あの氷の柱の中にいるのが私たちの母…エルフの始祖よ」
淡々と静かな語り草で話すアダルティーの顔に浮かぶのは影を帯びた橙。早暮れの夏の夕日を想起させる憂いの彼女を見ていると何故だか見た事もない少女姿のアダルティーが透けて浮かんできそうな気がした。
「氷の中…」目視で確認しようにも此処からでは遠く、氷の内部まで見通すことはできない。
試しに魔力感知で視ようとするもアダルティーに止められてしまう。あそこにあるのは言わば天のマナの塊、それを自らのマナを世界に浸して視る系統の魔力感知だとマナの厚みに気圧されてしまうのだと言う。
「どうして始祖は囚われているのですか…?」
「‥‥母様自らがそれを望んだからよ」
嫌がるというより怯えたような語気。「アダルティー」という彼女の根幹の震えによって軋み出た言葉に鱗も戸惑っていると暖かな手が鱗の手を握っていた。
「アダるん。あたしたちもいっしょだよ!」
そして片方の手でアダルティーの手を取ると、少女アキはニコッと明るい笑みを浮かべて柱の方へと突き進む。小さなアキに手を引かれて鱗とアダルティーは前かがみになりながらも同じ目線になって顔を合わせると、アダルティーは困り顔で——けれど砕けた笑みを浮かべていた。
「それにしても…あれは海だったんですね」
アキに手を引かれながら大地に広がる第二の空を見て、無意識に感想を述べる。
遠く尊き空の一部を明瞭に映し出した最も美しき透明。波紋の一つでさえも崩れる儚き美の均衡。淡いと知るからこそ感じる絶景から心からの驚きを口にする。
「ウミ、ってなあに?」
アダルティーの口から出た子どものような問い。この世界には「海」がないことを鱗は初めて知る。
「この湖みたいな世界中に流れる全ての水が辿り着く場所のことです。私の世界だと全ての生命が生まれ、そして最後に帰っていく場所とされています。」
「じゃあ、ウロコもウミから生まれたの?」
「いえ、私は人の股からですが。私たち人間の起源も海から生まれたもの、とされています」
「そして最後はウミに帰っていく…?」
「そこは人それぞれではありますけど私はそう信じています。う~ん…この世界でいう「マナ」に対する考え方と近しいものかもしれませんね」
「それでも帰る場所があるのは良いことよ」
やがて緩やかな坂を下り終える頃になると湖と氷の柱は森林の陰に身を潜める。
思わず話してしまった「海」という前世の名称。些細な言葉の有無でも世界は変わり、そして言葉には魔法のように思想や願いが宿る。だから、この世界の者に前世の情報を伝えるのは止めた方が良いのだろう。
…かつて真実の神は、この世界のことを三色を薄く塗っただけの世界だといった。
鱗にとっては未知のことばかりで「世界の薄さ」など感じてはいない。むしろ、この世界には確かな魅力がある。その基盤が世界の薄さにあるというなら余計な色は落とさない方がいい。
『 密度の薄い世界を繋ぎ止めるほど世界境界の鎖は甘くない。本来無いはずの「二」の世界は存在そのものが曖昧であるからな。世界が薄まれば鎖は即座に千切れてしまう。だから私は時おり「一」の世界から「二」の世界に濃い色を送り込むことで繋がりを保っているのだ。 』
真実の神の目的は「一」から「二」の世界に濃い色を送り、自らの領域である世界境界を広げて両世界の繋がりを強めること。若槻鱗を送り込んだ時点で彼の神の目的は果たされているわけだがワカツキウロコが世界に与える影響は予想以上に大きい。
なにせ「二」の世界に来たことで〝世界の異変〟と呼ばれる異常事態を引き起こしたのだ。そのおかげでアダルティーと出会う機会に恵まれた訳だが…今後もそうとは限らないかもしれない。
「この先で湖の周囲を囲む〝始まりの森〟はエルフ族の住居。右辺に進めば人間たちが暮らす街があるのよ」
「同じ街に暮らしているわけではないのですね」
「住処が違うだけよ。収穫期とか有事の際とか…普段の買い物でも街へ降りることはあるわ。それに高いところの方が見渡しやすいから、—―――」
そこで言葉が途切れると彼女は足を止めていた。柱を目指して彼女の手を引いていたアキも動きが止まり、鱗も足を止める。何か気になるものでもあったのか。森の方へと視線を伸ばすと木々の陰から一人…。
【こんにちは。異世界の人。】
弓張の長耳に雅な銀線。そして碧玉の瞳。
この森に澄むエルフの一人かと思われたが彼女の目を見た瞬間に体が「違う」と叫ぶ。目は口ほどに‥等というが眼差し一つで生物としての格の違いを受け入れたのは龍黒以来のことであった。
【こんにちは。天地の写し身たち。おかえりなさい。アダルティー。】
森の陰から一歩ずつ現われて陽光を浴びる彼女。
その神々しきかな。彼女が纏うのは天衣無縫の白布。イブキの白ドレスよりも丈が短い簡素な白布から健康的なおみ足が露わになっている。背は鱗とアダルティーの中間あたりで胸まで下ろした銀髪には植物油が塗られているためかアダルティーの髪よりも色艶が目立つ。
【おかえりなさい。あなた】
‥などと観察している間にエルフの彼女は鱗の目の前へと詰め寄り、鱗の体を両手で包む。風に触られたような気配のない動きだったために鱗が抱擁されたと気づいたのは彼女の髪に塗られたものが花の何かだと匂い、感じ取ったときだった。
「…お母様。お戯れが過ぎます。それ以上の顕現はタイツの身体が持ちません。」
突然のことに呆気に取られていると固い表情をしたアダルティーがエルフの彼女を引き剥がす。
【あら…】玩具の棚から引き剥がされた子どものような顔を浮かべるエルフの彼女。そして数秒も立たずして彼女の鼻から赤の線が一筋流れ落ちる。
【ごめんなさいね。タイツ‥‥でも、もう少しよ】
鼻に目を寄らせて、地面に落ちた赤の飛沫に目を落とす彼女。その様子は初めて自分の血を見た子どものように純真であり、同時に遊んでいた玩具を壊した程度の感覚が滲み出ていて酷く恐ろしかった。
【絶対に帰って来てね。私、待ってるからね…あ、あな…あなた】
言葉を残してエルフの彼女は膝を落とすと、上体が倒れる前にアダルティーが彼女を抱きかかえる。
「タイツ、しっかりなさい」
どうやら倒れたエルフの彼女はタイツという名らしい。意識を失ったためかマナで編んだ衣服がほつれてしまい、代わりにアダルティーが自らの外套で彼女をくるんで抱き上げる。アダルティーの呼びかけも空しく、タイツは意識を失ったままだ。
「なんだったの…今の」「マ~ちゃん、だいじょうぶ?」
怖い憑き物が落ちたような脱力から鱗もその場で座り込む。心配したアキが駆け寄り、イブキは鱗と倒れたタイツのことを気に懸けながら宙で右往左往する。
「アダルティー。いまのは…」
タイツが残した言葉。「あなた」の三文字が途切れた回線が生んだ雑音だとは到底思えなかった。あのタイツが若槻鱗に向けていた感情は初対面の者に向けられるものではない。相思相愛だとか離れ離れになった家族だとか…ともかく最愛の者に向ける感情だった。…碧玉の眼が蘇る。最愛の眼差しを向けた彼女に鱗は「歪み」を抱いた。「壊れた」ともいうかもしれないが…。
「あれはタイツの身体に顕現した母様———エルフの始祖よ」




