85.「神域」
「む~ん…む~ん…」ポツポツと平野に生えていた木々が風に揺られる中、自らのマナで衣服を編もうと苦戦する少女アキの悩み声がこだまする。一歩手前を歩くアダルティーが風に撫でられる銀髪を耳に掛けながら笑顔で彼女を見守り、助言をしてくれる。隣に浮かぶイブキが私の肩に手を添えながらアキを覗き込み、感覚的な助言を伝える中で些細な言葉の一つからアキが「わかってるよ!」と奮起し、私の目の前で両者の視線が火花を飛ばす。そこに私が仲裁に入って、二人をなだめて…それを見たアダルティーが楽しそうに笑う。
…なんてことない日常の一時。けれど、その楽しさと別れを知っているから私は願っている。
神様でも星でもない。運命とか…そういう見えない何かに願って、お願いして‥‥きっと私は恐れている。
「壊れないでほしい」と切に惨めに願っている。そして私自らが願いを打ち砕いてしまわないようにと、私は私に言い聞かせている。
二度目は無い、と自らのうなじに断罪の刃を据えながら…。
◆
行商人オマルと別れてから2日…細長い柱が現れた。
ずっと左辺に見えていたギャロップ山を漸く背に抱えようとしていた時のことだった。
「あんな柱…今までありましたっけ?」
天高く伸びた柱。その頂点を見据えることは叶わない。いくら細い柱といってもギャロップ山よりも高さがあるものを今まで見逃していたことに鱗は心底驚いていた。
「あの柱は左手の山脈を境に遠くからは見えなくなるのよ。景観を壊したくないからって…いつの間にか母様が隠してしまったの。」
「じゃあ、あそこが神域…?」
「ええ。あの柱は地の母様が天へと伸ばした御手。そして私の、私たちエルフの母が生まれた場所よ。」
山脈に降り積もった白雪はほどけ、雪解けの冷水は山を下り、山脈を突き抜けた細い川の水と合流して共に一つの終着点へと向かう。遠く流れる川を眺めながら柱へと進むと草の青臭さと共に薄く香ばしい匂いが鼻をひくつかせてくる。一嗅ぎの内に鼻先は川とは正反対の方向へと引かれ、次に嗅覚を研ぎ澄ますために閉じた両目を開くと視線の先には波を立てる小金の畑が一面に広がっていた。
成長によって小麦と大麦に分けられるアフロ麦。畑に実っているのは未だ若い小麦であるらしいが、その色艶は陽の光で時おり黄金の輝きを覗かせる。風に揺れては陽を返す際に現れる一時の黄金を目にすべく、長らく小麦畑に注目していると忙しなく動き回る二つの人影が見えた。小さな影と大きな影。親子と思われる人影を眺めていると二人の動きがピタリと止まって手を振る動作を見せる。それがコチラに向けたものだと分かって手を振り返すと小さな影がぴょんぴょんと跳ねながら嬉しそうに手を振り返して、小さな影から順に再び忙しなく走り回る。
この世界の人にとって年齢の節目ともなるアフロ大麦の収穫期。けれど子ども達からすれば小麦の収穫期を大麦のそれと勘違いする者が多く、はしゃいだ子を追いかける親の姿が多く見られることからアフロ小麦は「早知らせの麦」または「(親)走らせの麦」と呼ばれることもあるのだとか。
そんな小麦畑を眺めながら歩いていると遠くの方で麦刈りをしている集団が見えた。老夫婦、母子、姉妹、小さい兄弟…と、どうやら二人一組になって麦を刈っていく形式らしく一人が小麦を刈り、その後ろの者が麦を束ねて一括りにしていく。それを4列ほどで同時進行していくわけだが各列(各家庭か?)で麦の刈り方や麦束の渡し方などが微妙に異なり、遠目で見ているだけでも中々面白い。
まず、小麦を刈る刃物は引き切る鎌ではなく刃先が平らな小刀。そのため麦を掴んで横に回し切るという形になる。
刈った麦束はそのまま地面に落とすか。もしくはバトン回しのように後ろの者へと渡す。熟練者だと小麦を抱くように両腕を回し、小刀を自身の方へと向けながら抱いた麦束を一気に刈り取って脇で軽く固めたものを後ろの者が受け取って一括りにする。
集団の中では老夫婦の動きが明らかに練度が高く、刈られたそばから括られた麦束が地面に転がっていくのは見ていて爽快さすら感じられる…。
「本当に良いところですね」「ありがとう♪」
牧歌的な風景を眺め、暖かな風に運ばれたアフロ小麦の香りに包まれながら穏やかな気持ちで道中を進む。けれど永遠に続く麦畑は無く、風景から小金が薄れ始めたあたりで涼やかな風が鱗の首を撫で過ぎ去っていく。「こっちを向いて」と冷ややかな声で囁かれた気がして目的地である柱に再び視線を戻すと、先程までとは違う光景が目前に広がっていた。
「え———」
平野から傾斜の緩やかな坂道の先に広がるのは鮮やかな緑が際立つ森林。その中にネルバ木もあるのか白皮の太い幹が緑の中から顔を覗かせる。道を進めば坂の下の風景が徐々に明らかになって…そして世界で最も美しき透明が若槻鱗の足を止めた。
「大地に空が…」
この世界に来てから、龍を見て、火の少女を見て、スライムを見て、騎士を見て、魔法を見て、エルフを見て‥‥これまで様々な幻想を見てきたはずなのに、ここにきて鱗は初めて異次元の光景に理解が追い付かずにいた。
森林の中央に広がる第二の空。その美しさたるや上空の空とは比べ物にならないほどで「これこそが空の青さだ」と言わんばかりに鮮烈な青が視覚を魅了する。そして極めつけとなったのは第二の空の中央に立つ例の柱。大地に広がる第二の空と天へと伸びた地の大神の手。それらを天上の空と総じて見ると、まるで天地が逆さになったような錯覚に襲われる。
「あれは『氷』…?」
大地に広がる第二の空の中央。天上へと伸びた柱の根元から数ロット上の辺りに氷の柱が埋め込まれていた。
『氷』と聞くと、鱗たちと出会う前のアダルティーが出会ったクザの遊牧商人のことを思い出す。たしか彼らは家系独自の魔法である『氷』を使った氷菓子を売っていると以前ベルマーも話していたのだったか…。
「あそこは、この世界に落ちた天の母様のマナを全て集めた場所。この世界に流れる全ての水が辿り着く終着点よ。そして、あの氷の柱の中にいるのが私たちの母…エルフの始祖よ」




