75.「罪の終わり」
「あら。もう目覚めていたのね」
まだ陽が現れるまで幾ばくかの猶予がある頃、急いでソジェール家に戻るとアサミの祖母が早くに目覚めていた。正座をして天井代わりの布に空いた穴から空を見上げていた彼女。罪の継承に生きる彼女が空を眺めることに——彼らが荒れ地から目を放す姿に胸の締め付けが静かに緩まる。
「おかえりなさいませ。アダルティー様」
「身体は大丈夫?」
「ええ。お恵みをいただきましたから」眠る前に食べた干しイモの味を思い出したのか。老齢の彼女が美味しいものを食べた子どものような顔を浮かべる姿に要らぬ妄想がよぎる。それは本来の彼女の言葉なのか。それとも彼らのものなのか。
「彼女たちを見ていると何故だか娘のことばかり思い出すんです」
戸口の傍の壁で眠るウロコたち4人を眺めながら雨が降り始めたように語り出す彼女。視ると、やはりウロコのマナがかなり減衰しており額に妙な汗が流れていた。
「この子、また無茶をして…」眠るウロコの前髪を上げて額に接吻する。唇でなくともマナを渡すことはできるけれど「マナ」とは母様達の「愛」だから私はこうして愛をあげることにしている。
「アサミの母…私の娘はアサミを生んだ次の日に亡くなりました。元々、身体の強い子ではありませんでしたが二人の子を残したことは同じ母親としても大変誇らしいことだと思います。」
「…二人?」
「ええ。アサミにはカニエという兄がいたのです。カニエは家族想いの優しい子で…早く大人になることを望んだ子でした。魔術を覚えたら自分の水は自分で賄い、幼いころから食糧集めも手伝ってくれていました。ただアサミと違って記憶の継承が上手くいかず、しまいには寝物語に聞かせていた冒険者に憧れて家を飛び出していってしまいました。…今では生きているのかさえ分かりません」
「そう。冒険者に…生きているといいわね」
「そうですね。生きていたら、最後にもう一度だけ会いたかったですね…」
「もう…長くないのね。あなたは」
「そうですね。年を重ねれば身体の異常が分かってくるように、老いれば死という異常も掴めてくるものです。」
死の予感。生命の刻限。エルフには決して理解できない命の終着を彼女は揺るがず受け入れていた。
「アサミちゃんは、どう…なるの?」
「どうなる」か「どうする」かを迷って私は前者を選ぶ。
「彼女次第でしょう。既に継承の礎は築いてありますから。この土地を眺め、時が経てば…いずれは私たちと同じになるでしょう。」
まるで他人のように事実を告げるアサミの祖母が巨大な樹木のように見えた。自分の種から芽吹き、育っていく木々を黙って見下ろす物言わぬ大樹。見守るわけでもなく、ただ高い場所から遠くを見据えるだけの存在…。
「やっぱり、そうなるのね」
祖母が亡くなった後のことを想像する。誰もいなくなったこの土地で一人孤独に生きていく少女。その命の終わりが意味するのはアサミ=ソジェールの終わりではなくガルーラの罪の終わり。命が事切れるまでアサミはガルーラの罪と共に在り続ける…。
「——ガルーラの民に告白しましょう。私は、過ちを犯しました。」
…かつての彼らが母を蔑ろにしたことだけは事実だ。そして母が初めて見せた怒りを受け止めきれず、私は彼らに罪を忘れぬよう約束を結ばせた。約束を交わしただけでガルーラの地を避け続けた——過ちから目を背け続けた私の弱さが彼らの「時間」を奪い続けた。
「私は、この地を不毛の大地へと変えた母の、母の怒りへの恐怖から「貴方たちを守る」という名目で約束を交わさせました。母の怒りが人間たちに及ばぬように「この罪を、ゆめゆめ忘れぬように」——と。」
ワカツキウロコに伝えたことを再び語ると胸の締め付けが強まる。「やはり…そうか」と落胆しながらも顔には出さず。自らの真実に確信をもって、私は自らの罪を告白した。
「私は、愛する人間を逃げ道にしてしまった。自分の愛情が正しいものだと妄信した私は、母の怒りを受け止められなかった私は「人間を守る」という正しい愛情に従ってしまった。自分の正しさという「楽な手段」を選び取ってしまった。…そうして罪を犯した貴方たちを責め続ける偽りで、今日まで私は私の弱さから目を背け続けた。
重ねて告白します。ガルーラの民よ。私は、あなたたちの母は…過ちを犯しました。」
約束を結んで以降、一度として終焉の地を訪れなかったのが何よりの証拠。
私は自分の弱さを受け入れがたいがためにガルーラという地を避け続けた。
『 アダルティーさん。きっと誰だって間違えるんです。 』
誰だって間違える…ウロコのその言葉に救われた気がした。
そして人間の母であるエルフとしての自覚と誇りが私を意固地な臆病者にしていたことを悟ったのだ。
「—―かつて、貴方たちは罪を犯しました。我らの母である地の大神を蔑ろにし、怒りを刻んだ大罪です。ただ、そんな貴方たちはこの愚かなエルフとの約束を見事に果たしました。自らの犯した罪を忘れぬことなく今世まで生き継いでくれました。この不毛の大地は私たちの罪の象徴…消えることは決してありません。ですが罪とは相応の報いによって償われ、約束とは果たすべきもの。ガルーラの犯した罪‥その最期の継承者である貴方に裁定を下します。…ですが、そのまえに」
大事なことを聞き忘れていたことを思い出し、私は彼女に最初にすべき質問を尋ねる。
「アサミちゃんの御婆様。貴方の名前を教えて頂けますか。」
「わたくしは‥‥シロミ=ソジェール、でございます。アダルティー様」
「ありがとう。あなたの名前…一生忘れない」
大きく息を吸って、自分の中の答えを再確認する。決めるのは彼らであり彼女。私の答えが彼らの求め続けた「真なる裁き」でないとしても…私は、もう二度と彼らの「時間」を奪いたくはない。
「シロミ=ソジェール。あなたの天命を以てガルーラの民の罪を拭うものとします。」
…区切りをつけるべきだと思った。
赦しを求めない彼らは、その血が絶えるまで罪と共に在り続ける。この地でアサミが——最後のガルーラの民が死ぬことが彼らにとっての終着点であり、私との約束を遂げたことになるのだろう。
「アダルティー様…それは」「ごめんなさい。それでも最後まで聞いて頂戴」
本懐を遂げる一歩手前で無下なことを言われたのだからシロミの言いたいことも分かる。それでも私は伝えなければならない。
罪を忘れぬことを彼らに強いておきながら自らの過ちから目を背け続けた私だけど、それでも私は彼らを救いたいと願ったのだから…。
「シロミ。あなたが、貴方たちが…どう思おうとも構わない。ただ私は、貴方たちを許したい。私は、貴方たちが幸せになることを願いたい。赦されないのは‥‥私だけで良いから。どうか私に貴方たちの罪を拭わせてください。」
シロミの手を握る。少し力を加えたら折れてしまいそうな細枝のような手。萎んだ皮の僅かな皺越しに薄い骨と脈があり、トク…トク…と今にも消えてしまいそうな脈動が彼女の命の終わりの短さを表しているようだった。
「そういえば…私たちが最初に受け継ぐ記憶について話していませんでしたね。」
「・・・え」
唐突な言葉に戸惑いながらもシロミを見上げると、そこには悲し気な表情を浮かべる彼女の顔があった。
「私たちが最初に引き継ぐ記憶。それは地の大神様の怒りを表すような黒焦げた不毛の大地と、そこに立ち私たちを諫める貴方様のお顔でした。」
罪の象徴たる大地でも、気ままに見上げる大空でもなく、晩年の老婆は両手を握る小さな私を見つめる。
「私たちを諫めて下さる貴方様の御顔は、とても美しく、とても苦し気でした。そんな貴方様を見た私たちの誰もが‥こう思ったのです。・・・ああ、こんなにも優しい御方を、罪を犯した我々さえも愛してくださる母に「怒り」を語らせてしまったのだと。」
「え、そ…そんなの…だって…わたし、は」
視界が僅かに曇る。きっと、私を見つめる彼女の瞳が余りにも美しかったからか。握っていたはずの老婆の手は私の手をすり抜けて、いつしか私の手を包み込んでいた。
「謝りの言葉は赦しを求めるもの。ですから罪を犯した私たちから貴方様に送る言葉は唯一つ—―――咎人である私たちに愛をくださり、ありがとうございました。」
‥大事なものを包むように私の両手を束ねて膝に返す。
何も言えない私を待つまでもなく、シロミは曲がった姿勢を震えながら正すと裁定への返答を送る。
「貴方様の御言葉を全て聞き入れるわけには参りません。ガルーラで生まれた罪は我々だけのもの。ですから、どうか我々のような親不孝な者たちが再び世に現れぬよう御見守りください。」
総意を述べたのち「ただ…」とシロミは曲がりかけた背に抗うように片手をついて私に懇願する。
「アダルティー様にお願いがございます。私は、わたくしは…あの偉大なる騎士に御恩をお返ししたいのです。ですから…アサミを…!」
「…ずっ…ええ。分かりました。それが我が子の望みならば…」
「感謝致します。アダルティー様」安堵の笑みを浮かべると腰を曲げたシロミは再び空を見上げる。老齢の大樹の如く、そのまま動かなくなってしまいそうに思われて、私は取り留めもないことを尋ねる。
「貴方たちの記憶を…私が引き継ぐことはできないの?」
「いいえ。それは叶いません」
「お腹は…空いてない?」
「いいえ。胸が一杯で…もう何も入りません」
「それじゃあ—――この木の根は、どうやって食べるのかしら?」
根先が折れた木の根を見せながら尋ねると、ようやくシロミは視線を私へと向けて…それから床で眠るアサミを見て、再び私を見つめると、満面の笑みを浮かべてカクリ‥と頭が垂れる。
「…ごめ—―――」
『 謝りの言葉は赦しを求めるもの 』
彼女の言葉が頭をよぎり、私は吐き出しそうになる言葉を強く噛み締める。赦しを求めなかった彼らにそれを求めるのは侮辱になるから。だから、私は謝ってはならない。
「‥‥ぐぅ!‥‥んんっ!‥‥むぐぅ‥‥!」
必死に塞き止めていた涙が溢れ出す。言葉を吐き出さないようにしていると余計に涙が溢れて、両手で受け止めきれなくなる。
「どう、して、‥‥どうして、ありが、とう‥‥なんて…ひっぐ」
正座して果てたガルーラ最後の罪。その膝元に泣き縋りながら尋ねる姿は親に泣きつく子のようだった。
「一度だけ、‥‥だから‥‥」
泣いて、泣いて…散々に泣き散らかして。そうして膝元から垂れた頭を見上げて乞うと老婆の両耳を抑えて、額を合わせる。
「私のせいで…辛い思いをさせて…本当に…ごめんなさい‥‥!」
やっぱり言うべきではなかった、と後悔する。彼らを侮辱してまで打ち解けた言葉は私の胸を締め付けるだけだったから…。
「—――わたしたちの方こそ。ほんとうに、ごめんなさい。」
耳に触れた細い手。
その小さな手は私の長い耳を覆えるほどではなかったけれど、私は彼女の言葉を聞かなかったことにした。




