73.「ワガママ」
—――惜しみない愛を注いでくれた両親が「怒り」を露わにしたとき若槻鱗は何を思うのだろう。
その状況を空想する。そんな過去など無いから仮に他人からの怒りを両親に貼付すると案の定拒絶される。
—――「怒り」と逆なら?
笑った両親の顔を想像する。太陽みたいに笑う母と私と二人きりの時にしか笑わない父。3歳の夏のころ、なぜ母に笑顔を見せないのか尋ねると「母さんに笑った顔を見られたくないからね」と語る父。その翌日いつも遊んでいた公園からの帰り道で、母のことを話す父が(このときは母が初めて父に作ったケーキの生クリームが砂糖ではなく塩が入っていて大変だった、という失敗談)クスクスと笑う癖を発見し、それを指摘すると父は右手首の外側を口に当てて顔を隠してしまった。夜眠る前、父の秘密を母に告げ口すると母は平手にした左手の三本指を口に当てて「エヘ」と少し気味の悪い声をあげて喜んでいて//—―――再生終了。
再生を止める。全てを見返したところで答えはない。
初めて親の怒りに触れた不忘の彼女を、在り得たかもしれない自分と重ねても空想では薄い言葉にしか与えられないだろう。
「ガルーラの人たちも同じだったかもしれませんね。アダルティーさんの、母親の怒りに触れて…」
酷い言葉だと自分でも思う。ただ事実を告げることでしか今の彼女と向き合うすべがない。
「でも、だからこそ必死に約束を守ろうとしたんです。他の誰でもない母の言葉だったのだから」
彼らとの約束を後悔していると彼女は言った。自らの言葉で彼らを縛りつけてしまったから。
約束と向き合い続けてきた彼らはどうだろう。彼らにとっての約束とは…やはり「果たされるべきもの」だったのだろうか。
「そのための手段が‥あの罪の継承だったとしても私はあれが間違いだったとは思いません。」
「それは…なぜ」
「だって…約束を果たしたのですから。」
正しい選択。器用なやり方。もっと楽な道もあったかもしれないというのは野暮な言葉だ。彼らは今生に至るまで自らの犯した罪を抱え、向き合い、未来へと繋ぎ、そうして遂に約束の人が…運命が訪れた。人間が紡ぐのは、言葉とかモノとか偉業とか形あるものだけで遺志なんて透明な感情は受け取る側の解釈で変貌するものだと決めつけていたけれど、彼らは記憶と感情を不変のまま現代にまで繋いできたのだ。
「約束の真意はどうあれガルーラの人たちは貴方の言葉を忘れなかった。自らの犯した過ちを継承し続けた。だから今度はアダルティーさんが約束を守る番なんですよ」
アダルティーの来訪に狂気交じりに歓喜していたアサミの祖母の反応。ローヒ家で見た紙片の一文「真なる裁き」とは、エルフとの再会であり約束の言葉を残したアダルティーの来訪を待ち望んだものだったのだろう。
「私が言えるのはここまでです。彼らが望んでいるのは貴方自身の言葉。罪を継承し続けた彼らに答えを—――”真なる裁き„ を下しましょう」
四つん這いになっていたアダルティーを押し上げると彼女は鱗の腿の上に尻をつく。上体を起こすと少女のような不安げの表情を浮かべる彼女の顔が近くなって…そのまま軽く抱擁する。腕ごと抱きこんでいるせいか相手からの抱擁は返ってこず、そのままアキにやるのと同じように頭を撫でる。放心したままのアダルティー。彼女が敷いている両足を引き抜いて立ち上がると、銀髪の麗人は救いを求めるように鱗を見つめる。
「ウロコ。私…自信がもてないの。また私のせいで彼らを苦しめてしまったら…って考えると言葉が浮かばない。どうすればいいのか分からない。何より、もう…間違えたくないの」
「アダルティーさん。きっと誰だって間違えるんです。二度目の生を受けても私も間違えますし、永く生きてたら尚のこと間違えます。…だって生きてるんですから」
また一人。高い高い大岩の上に彼女を置いて鱗は立ち去る。
過去と生きるエルフの麗人。人間を愛する彼女にとって今回の出来事は永い生涯でも癒せぬ過去となるだろう。
起きた出来事は変わらない。もう忘れることもできない。それでも彼女には笑っていて欲しいと切に願う。
銀髪緑眼の美しきエルフ。古い歴史を携え生きる者。大神の御子でありながら人間に寄り添う人。色香漂う危ない人。この世界にいることを認めてくれた大切な人。笑って、怒って、悲しんで…色んな表情を見せる彼女。どこまでも輝かしい彼女に焦がれたから若槻鱗は彼女と旅をすることを選んだのだから…。
「早くいつもの頼りがいのあるアダルティーさんに戻ってくださいよ。私…余裕いっぱいに笑うアダルティーさんが結構好きなんですから」
●
…過去の言葉は変えられない。
分かり切っていたはずなのに私は私の言葉で愛する者の時間を縛りつけてしまった。守りたかった彼らを傷つけてしまった。
あのとき母の怒りを受け止められる器量があれば変わった結末があったはずなのに…。
不毛の大地を見つめる。ありもしない未来が現実で塗り潰される。ここでの出来事を私は一生後悔することになる。
「誰だって、間違える…」
立ち去ったウロコの影を見つめながら彼女の言葉を繰り返す。
口にするだけで気が晴れて、お腹の辺りがキュッと引き締まったように感じる。犯した過ちは消えない。忘れられないし忘れる気も毛頭ない。私はこの胸を締め付ける感情と一生を共にするのだろう。…ならば、あとはもう腹を括るだけだ。
彼らが罪を忘れなかったように。私自身も自分の言葉に、彼らとの約束に向き合わなければならない。もう遅いかもしれないけれど、それでも私は彼と彼女らにも幸せであってほしいと願うから。
「故郷に帰ったら…謝らないといけないわね」
終焉の地を見つめ、何もない空を見上げ、夜明けを待つ。
考えても考えても、それは間違いかもしれない。それでも間違えのないように…あの子たちの明るい未来を私は想像する。それだけで時間が風のように過ぎていって、気がつくと陽がぼんやりと現れ始めていた。
「…やっぱり人間たちには敵わないわ。たったの一夜じゃあ時間が足りない」
限りある時を生きる人間の一生懸命さを一夜の熟考から学ぶ。その儚さが深まって、自らの言葉と罪に重さが加わる。人間を理解するほどに私を締め付ける胸の痛みは増すだろう。過去の縛りが時に私を鈍らせることもあるだろう。
それでも私はエルフだから。人間を生んだ母だから。彼らが焦がれた誇らしい母で在り続けたいと願う。
「私にも…弱いところはあるのね」
決意を固めたところで先程のウロコとのやり取りを思い返し、途端に耳が熱くなる。ここまでの弱みを見せたのは母以外では初めてのことだった。彼女が別の世界の人だからか。だとすれば、この感情も血に刻まれた始祖の影響か。
「今は抑えるのよ。アダルティー」
両頬を軽く叩き、火照った両耳を軽くつねって大岩から飛び降りる。大岩から地上に降りるまでの間、ヒュー‥と風切り音が耳を撫でる瞬きの間に自分の選択について考え直す。
「…ワガママね」
卑下して、それも当然だと飲み込む。また間違えるかもしれない。受け入れられないかもしれない。結局のところ最後に選ぶのは彼女らだ。だけど、それでも我が子らの幸せを願うことは決して間違いでないと信じたい。彼女らがそれを受け付けないとしても私は「幸あれ」と望み続ける…。




