72.「エルフ」
好奇心を糧に生きる私たちエルフは時おり「時間」という概念さえも忘れてしまうことがある。
私は、それが嫌いだ。永遠に甘えて時間を忘れてしまえば精神が弛む。別に常にピンッと張っておく必要もないけれど、弛んだ精神を余裕と解釈して、懸命さを忘れてしまうのが私は怖い。永く世に生きる者が努めることを忘れてしまったら、きっと私たちは未来を縛るだけの楔となってしまう…。
私は、限られた生涯で懸命に生きる人間たちが大好きだ。
生死が身近にある彼らは自らに刻限があると知るからこそ奔走し、熱中し、努力し、欲深い。あぁ、欲深いと聞くと大抵は「わるいもの」と捉えてしまうか。けれども、きっと世でいうところの悪い欲とは「強欲」なのだ。「器に見合わぬ欲」もしくは「余裕のない欲」とも呼ぶべきか。欲しがるのは人間の性だから大抵は欲の優劣や満ち引きの匙加減が分かってきて我欲と上手く付き合っていく。…ただ人間の欲とは、大抵押さえつけられてしまうものだから何かの拍子で歪なまま暴発してしまうことが多々ある。
けれど、それも悪いことばかりではない。そうした性を抱えながらも人間は欲望を原動力に生き続けてくれた。
私たちへの憧れから魔術を学び、剣の模倣から物作りが普及し、食欲から農業や料理と幅広く枝を伸ばして「貨幣」という文化まで作り上げた。何物とも並ぶ価値を有する貨幣によって商いが盛んとなり、貨幣文化は世界に大きく浸透。暫定的に欲の単純化が為された。
現代では作る者、営む者、守る者、諸々つとめる者…各々が自らの望む道を選び、進んで、やがて死んでいく。ある者は生涯の中で誰かに影響を与え、ある者は子に意志を託して、その断片が未来へと繋がれていく。
死後も伝播する人の意志たるや。なんと愛おしいのだろう。そして、なんて儚いのだろう。
私たちの手を離れて生き続ける彼ら。一生懸命な人間たちが私は堪らなく大好きなのだ…。
「—――この荒れ果てた大地を御覧なさい。これが地の母の怒りです。」
…あれは二度目のガルーラの訪問だった。緑豊かであった土地が一夜にして何もない荒野へと変わり果てた。
地の母が人間を見限るなど初めてのことだったから、大いなる母が「怒り」を表したことに私たちエルフは動揺していた。
「貴方たちは私たちの言葉を聞き入れず地の母に怒りを刻みました。この何も育たぬ大地を目に焼き付け、生涯を賭して自らの過ちと向き合うこと。エルフの始祖が第一子、第二世代である私アダルティーが告げます。」
地の母の怒りを代弁すべく私は絞り出した激情によってガルーラの民を諫め、約束を結ばせた。
「この罪を、ゆめゆめ忘れぬように」
人は忘れてしまう生き物だから罪を忘れぬよう心に留めておく事を彼らに意識させるための言葉だった。
しかし永い時を生きたというのに、人間が好きだというのに、私は気づけなかったのだ。
限りがあると知るからこそ人間は時に頑張り過ぎてしまうものなのだと…。
■
一際高い大岩の上に麗人が一人座り込んでいた。高台から何気なく下界を見下ろす鳥類のような静けさで荒野を見下ろす彼女。
地上から見上げただけでは表情までは見て取れない。ただ若槻鱗の眼には彼女の上にだけ雨が降り注いでいるように思われた。
「大空よ。未知の旅人と出会う階を御与え下さい—――大空の片隅で」
浮遊の魔術を発現させる。ところが初めてガルーラで行使した鱗の魔術は普段よりも出力が落ちて、上手く高度を維持できない。
「まず…い」
地の神が見捨て、天の吐息も敬遠する終焉の地ガルーラ。その性質ゆえに鱗が天から借り受けられるマナが少なくなったのか。上昇するために無理やり自身のマナを消費したせいで身体が空中でぐらつく。「あと少し…」と不安定な体勢のままアダルティーの方に手を伸ばすと、
「何してるのよ。ウロコ」
大岩から身を乗り出したアダルティーに手を掴まれると、そのまま釣り上げられた魚みたく鱗の身体は空中へと舞い上がる。その勢いが引かぬうちに鱗は息を吐いて浮遊の魔術を解除。落下が始まる前に身を丸めたところで飛び上がったアダルティーが空中で上手く受け止めてくれた。
「珍しいわね。あなたが魔術に失敗するなんて…」
「すみません。天から受けられたマナが少なかったみたいで…ガルーラにいるせいでしょうか」
礼を述べたところで妙な沈黙が流れる。地上よりも高い場所だというのに風の音が全く聞こえず鼓動の音だけが徐々に大きくなっていく。ここまで彼女を追いかけて来たというのに肝心の掛ける言葉が思い浮かばない。
ガルーラの民が罪を犯した事は変わらず。エルフ族との、アダルティーとの約束を現代まで守り続けた事実も変わらず。もはやガルーラの民はアサミとアサミの祖母の二人だけ。彼らの罪の継承も終わりが見え始めている…。
「一緒に空を見上げましょう。ウロコ」
彼女と向き合う心情を探すうちに銀髪の麗人は地面に横になっていた。釣床に寝そべるように両手を頭の下に敷きながら気楽そうな雰囲気で鱗を誘う彼女。その真意も分からぬまま鱗も彼女に倣って同じ姿勢で空を見上げることにした。
「星が…見えないですね」
何気なく放った言葉だった。この世界に来てから幾度も夜空の星を見上げた。「星」といっても小さな白い点々が時おり光って見えるだけであったが、このガルーラに来てからは一度も星らしき光を見てはいない。「普段よりも高い位置ならあるいは…」とも思ったが、どうやらこのガルーラでは星さえも避けているらしい。
「・・・・ウロコの世界にはホシがあるの?」
「ええ、ありますよ。この世界の陽—――天の大神の秘部…と同じように朝昼を照らす「太陽」があって、夕方には太陽が沈む代わりに「月」っていう別の星が現れるんです。太陽ほど明るくないですが暗い夜をぼんやりと照らすんです。他にも時期や場所によっては小さな星々が夜空を埋め尽くすんですよ。星の一つ一つが宝石みたいに輝いて…って、私も一度しか見た事はないんですけどね。」
偶然夜空を見上げた時の星が「綺麗だ」と思う程度。「あれが白鳥、鷲、琴…」などと星空を見ただけで大三角を描けるほどの知識は鱗にはない。
「じゃあ、ウロコの世界にも龍はいるの?」
「え、いませんよ。似たようなものはいますけど…どれも空想上の生物として伝わっています」
星から龍。太陽と天の秘部のように二つの世界にある共通点を探そうとしたのか。急な転換に少し戸惑いながらも答えると「…そう」と空気が抜けたような声が返ってくる。
「それならウロコの世界のホシは…きっと美しいものなのでしょうね」
「この世界の星も綺麗ですよ。…遠くて見えづらいですけど」
この世界の星について感想を述べると彼女は「それなら——」と消え入るような声。空を見ていたせいで口の動きまでは見ていなかったが何か呟いたような吐息は確かに聞こえた。
「アダルティーさん。これから…どうしたいですか?」
「どう‥すべきだと思う?」
一間挟んで本題を尋ねると尋ね返される。何となく察していたが彼女自身もどうすればよいのか分からない状態なのだろう。直前まで鱗の接近に気づかないほど荒野を見つめて思案に没頭。次は空を見上げて、荒野から目を離して…それでも答えが出ずに絡み合っている。
「あの家に辿り着くまでの間に彼らの畑を見たの。もちろん何も育ってはいなかったし、この地は水を飲んでしまうからマナも残ってはいなかったけれど耕された跡がいくつもあった。」
先導する彼女の後に続くだけだった鱗は何も気づけなかった。
これまでと同じ「変わらぬ景色」と決めつけて、周囲を観察することを諦めてしまっていた。
「それから彼女たちが食べていた木の根ね。ここに来るまでの間に私も掘り出して食べようとしたの。‥でも、ダメだった。どういうわけだが私の体が木の根を受けつけないの 。こんなこと初めてだわ。一体彼らは…どうやって生き延びてきたのかしら。」
そこで息を飲むような呼吸が聞こえると「いえ違うわね…」と尖った声。好奇心を押し殺して自らを律する彼女の声は、とても窮屈なものに聞こえた。
「私ね。本当は誰もガルーラに住んでいないと思っていたの。彼らを養うローヒ家がいなくなったのなら尚のこと誰もこんな場所には住めないだろう、って。だからアサミちゃんを視つけたときに私…嫌な予感がしたの。何かの間違いであってほしい…そう願いながら彼女の元へと駆けた。そうして倒れた彼女を見つけたときに私—――涙が止まらなかった。
嘘であってほしかった。私の言葉が、こんな場所に彼らを縛りつけてしまった。私がガルーラの土地を嫌って、ぬくぬくと自分勝手に生きてる間に、あの子たち…ずっとお腹を空かせていたのに。あんな小さな子の手足が枯れ枝みたいに細くなって‥‥」
魔力感知でアサミを視たアダルティー。一度の目配せの後、彼女の元へと駆けたアダルティーは一体どんな顔を浮かべていたのか。揺れる銀髪の残影しか鱗には思い出せない。
「後悔しているのですか、あの約束を」
「当たり前でしょう!!!」
視界にあった暗い夜空が遮られると絹よりも柔らかな髪が鱗の顔を撫でる。垂れ落ちた髪が目に入りそうになって反射的に目を閉じる。そして、ゆっくりと目を開くと感情を剥き出しにしたエルフの顔が鱗を見下ろしていた。
「私のせいで、どれだけの人間たちが苦しんだと思う?心と身体を擦り減らすように生きて、死んで未来に受け継がれるのが過去の失敗だけ…心に留めておくだけでよかったのに。もう二度と母様を軽んじることがないように、母への感謝を忘れぬように暮らしてくれれば、それだけで…」
その美しき顔に余裕など一欠けらもない。
言葉を打ち出す唇は震え、涙を流す瞳の孔は無機質に開き、後悔を語る彼女の頬や眉は強張ったまま。
言葉と感情と表情の不一致。後悔を語りながらも驚愕と怯えが混ざった表情から鱗は「エルフ」という種族の業を理解する。
永遠を生きる不忘のエルフとは、果てしない未来を生きながらも心を過去に縛り付けられる者。故に、いま目の前で後悔を唱える彼女の心は過去の——ガルーラの荒野を最初に目にした彼女なのだろう。そして、その事実に彼女自身も気づいている。
「この荒れ地を最初に見たとき…私、コワかったの。何も芽吹かず、天の吐息さえも避けて通るガルーラの地が世界から切り離されたように感じた。これが母の怒りだと知ったとき私は…その矛先が、あの子たちに向いてしまうことを恐れた。」
龍族との大戦とは違う家族に向けられた怒り。
多大な愛を受け続けた大神の御子にとって、初めて触れた親の「怒り」は衝撃的過ぎたのだ。




