声なき声を聞いて【5】
朝起きると、すでに香江が起きていた。朝食を作っている。
「おはよう香江さん。朝ごはん、別によかったのに」
「あら、おはよう、梛ちゃん。気にしないで。大したものじゃないし」
というか、勝手に冷蔵庫とかあさっちゃったわ、と香江は笑う。それはかまわない、と梛は笑った。
「朝食、任せてもいい?」
「もちろんよー」
朝食を香江に任せ、梛は郵便受けを見に行った。少なくとも、新聞は入っているはずだ。新聞のほかに封筒が一通入っていて、あて名は梛だった。消印もなく、不審に思いながらもとりあえず回収した。後で開封しよう。
梛がリビングに戻ると、晴季が起きてきたところだった。起き抜けに梛に抱き着いてくる。
「おはよう、晴季」
「おはよう。姉さん、抱っこ」
「甘えただね。というか、さすがに抱っこも重たくなってきたからね」
わかってる? と梛。八歳の男の子を抱き上げるのは、結構大変だ。成人男性ほどの腕力がある梛にも、さすがに苦しい。とにかく椅子に座らせた。
「ハル、今日は学校やめておく?」
金曜日なのでまだ学校があるが、梛はそう尋ねた。夏休みが近いのでまとめ学習に入っているだろうし、そもそもこの心理状況で授業を受けるのは不可能だ。取り繕える自信のある梛も、今日は休もうと思っていた。
「でも、勉強……」
まじめな晴季は不安そうにするが、わからないところは梛が教える、ということで決着がついた。おそらく昨日梛が早退したことで、高等部から初等部に連絡がいっていると思うが、梛が電話をかけて再度説明した。欠席する旨も伝え、朝食だ。
「本当に任せきりにしてごめんなさい」
「いいのよ。私は出勤しなくちゃだから食べたら出るけど、二人で大丈夫?」
「うん。祐真さんが車で迎えに行くから、一緒に病院に行こうって」
昨日の時点である程度決めておいたのだ。まあ、昨日は梛も動転していたので、今朝再度やり取りはしたが。
「ふうん……瀬名君も、梛ちゃんに甘々ね」
「どうだろう? 優しいけど」
その優しさを自分だけに向けてくれたら、などと図々しいことは言わないが、ちょっと特別が欲しくなるのは許してほしい。
香江が出勤した後、祐真が来るまで少し時間があった。消印のない封筒を思い出し、封を切る。思えば、消印がない時点でおかしいと思わなければならなかったのだ。中にはレポート用紙と写真が入っていた。写真は恐らく昨日の帰宅途中。梛が半泣きだからだ。明らかに隠し撮りされたものである。
レポート用紙には、泣いた顔もかわいいね、だの、すぐに駆け寄って慰めてあげたいだのと書かれていた。かなり気持ち悪い。
俗にいうストーカーというやつだ。これまでも兆しはあったが、透一郎が倒れたことですっかり忘れていた。都がとりあえず記録をつけておけ、と言っていた気がするので、覚えているだけすべてノートに書きだした。自分が妙に冷静であるのが不思議だった。
「姉さぁん! 兄さんに会いに行こうよー!」
半泣きの晴季の声に、梛はカバンをつかんで階段を下りる。
「もうすぐ祐真さんが来るから、ちょっと待とう」
「うん……」
そう言っている間に祐真が来たので、戸締りをして車に乗り込む。ふと思い出して、梛は周囲を見渡した。千里眼を発動しなくても、梛は『視える』方だ。
「どうかしたか?」
バックミラー越しに祐真が梛を覗き込んで尋ねた。梛は首を左右に振る。
「ううん。なんでもない。というか、迎えに来てくれてありがとう」
「それはかまわないが」
祐真は納得していなさそうだが、梛が話さないとわかったのだろう。ゆっくりと車を進め始めた。
透一郎は、一般病棟に移っていた。一応個室だった。梛は持ってきた兄の着替えなどを棚に置く。
「……今更だけど、妹に着替えを用意されるって、結構恥ずかしいな」
「あ、やっぱりそうなんだね」
昨日、荷造りをしながら梛が考えていたことを祐真が言うので、やはりそういうものか、と苦笑した。
「晴季。兄さんの邪魔しちゃだめだよ」
「……うん」
一般病棟に移ったものの、透一郎はまだ目を覚ましていない。昨日していた酸素マスクも外れているが、点滴が二本、左腕に刺さっていた。右腕は……ない。
「あれ? 兄さんの義手は?」
「俺が預かっている。……気づいていなかったということは、やっぱりお前も動揺していたんだな」
晴季を抱き上げて膝の上に座らせながら、祐真が目を細めて言った。梛は「うん」とうなずく。彼らとは反対側の枕元に椅子を持ってきて、兄の顔を覗き込んだ。
「……何もできなかったから後悔して、強くなったと思うけど、それでも、自分の力の及ばないところで大切な人が死にかけるんだなって」
「……そうか」
「うん」
梛は手を伸ばして透一郎の頬をつついた。ねえ。兄さんが私と晴季を置いて死ぬなんて、そんなこと、ないでしょう?
いつまでも兄の寝顔を眺めているわけにはいかない。これでも梛は受験生だ。個室であることをいいことに、堂々と参考書を開いて勉強をし始めた。晴季は祐真が相手をしてくれる。
一度昼食をとりに病室を出たが、それ以外はほぼ透一郎の側にいた。梛と晴季はともかく。
「祐真さん、今更だけど本当に仕事は大丈夫?」
『陽炎』の隊員である、という面の方が強い祐真であるが、一応研究所の研究員である。こんなところで婚約者の弟の面倒を見ていていいのだろうか。
「いいんだ。今、お前たちを放り出せば、バッシングを受ける」
誰から? と思ったが、祐真が真面目な表情なので突っ込むのをやめた。とりあえず、彼は本気でそう思っているということだ。彼が良いと言っているのなら、梛が何度も蒸し返すようなことではない。と思うことにする。
午後には弘暉が顔を出した。相変わらず透一郎は眠っている。医者によると、このまま目覚めれば問題ないそうだ。目覚めなかった時は植物状態も覚悟してほしい、と言われた。
「お前たち、一日中そうしてんのかぁ?」
ちょっと呆れたように言われ、祐真が晴季を抱えたまま「そうだな」とうなずいた。
「二人の気が済むまでいる」
祐真にもたれかかって眠ってしまった晴季を透一郎のベッドに寝かせながら祐真は言った。ここは突っ込むべきだろうか。
「そうか」
弘暉が存外優しくそう言ったので、梛は突っ込む機会を逸した。
「ほら、これ。見舞い。親父も心配してた」
透一郎に遭遇するたび、むしろ梛の顔を見るたびに挙動不審になる弘暉の父・将だが、透一郎を心配してくれているらしい。ちなみに、弘暉の妹の双葉と彼女の依織は、今は大学で講義中なのだそうだ。
「そっか。うん、ありがとう」
素直に礼を言って、弘暉から見舞いの品を受け取った。普通に果物だった。
「傷みそうだったら食えよ」
「うん」
とりあえず、ベッドサイドに置いた。
「で、透一郎さんの容体は?」
自分で椅子を持ってきて座った弘暉が尋ねる。梛は冷蔵庫を開けて昼に補充したコーヒーを渡す。
「ああ、無糖でよかった?」
「渡してから聞くな」
よかったようだ。弘暉がツッコミを入れつつ、受け取る。容態については祐真がかみ砕いて説明した。よくわからないが、内臓の不調で、呼吸器不全も起こしていたようだった。
「おい、梛。嫌なことを聞くが、お前、透一郎さんが目覚めなかったらどうする」
「弘暉」
咎めるように祐真が弘暉を呼んだが、それは梛も考えていたことだ。祐真に「大丈夫」と答える。
「最も手続き的に簡単なのは、私と祐真さんが結婚してしまうことだろうね。兄さんがいなくなれば、晴季の保護者がいなくなる。兄弟間には扶養義務があるけれど、私はまだ学生だし、一人だと扶養できないと判断されると思う」
「お、おお」
思ったより合理的な話をされて、弘暉が戸惑った声を上げた。梛が祐真と結婚すれば、そのまま晴季を連れて行くことができる。祐真はちゃんと社会人なので、晴季の保護者と認められるはずだ。
「まあ、祐真さんがいいならだけど」
「俺に否やはない」
「ありがと。でも、本当は兄さんに目を覚ましてほしい……」
そうつぶやいた梛は、いったいどんな表情をしていたのだろう。祐真が目を細め、弘暉は慰めるように乱暴に頭を撫でてきた。
「そんな顔するな。調子狂うだろ」
投げやりにそう言い、弘暉は帰る、と言った。
「お前らもほどほどにしておけよ」
「ああ。いざとなったら抱えて帰る」
「……そうか」
祐真のちょっとずれた言葉に、何とか返す弘暉。梛はやっと、笑った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
梛はきっと、透一郎が志半ばで倒れることも想定していた。




