声なき声を聞いて【4】
透一郎の容態を聞いて都が戻ってくる頃には、梛も泣き止んでいた。久しぶりに大泣きしたので瞼が腫れぼったい。祐真が濡らしたハンカチでそっとぬぐってくれた。それから梛も透一郎の状態を聞いた。一度聞いていたが、念のため。詳しいことは手術が終わらないとわからない。梛は祐真の肩に頭を預けて目を閉じた。
「祐真、悪いけど、後任せていい? さすがに戻らなきゃ。あなたも仕事だっけ」
「俺はいま戻ったら袋叩き似合うと思う……ので、任された」
「そうね。大事な梛ちゃん、放り出せないわよね」
ふふっと楽しげに笑う都に、梛も姿勢を正して言う。
「都さん、急にすみませんでした。ありがとうございます……」
「ううん。こういう時のために透一郎君が私を頼ったんだからね。頼れるものには頼っていいのよ」
「……はい」
都は梛の頭を撫でて仕事に戻って行った。入れ替わるように、晴季が香江に連れられてやってきた。
「姉さん!」
「晴季」
香江に連れてきてもらうにあたり、彼女に大体のことを説明した。なので、晴季は香江から、透一郎が倒れたことを聞いたのだろう。不安げに姉に抱き着いた。梛もよしよし、と抱きしめる。晴季はあまり状況が理解できていないようで、不安げに姉や祐真を見上げていた。
「香江さん急にお願いしたのに、ありがとう」
「ううん、大丈夫よ。……教えてくれようとしたのよね。むしろありがとう」
香江が柔い笑みを浮かべる。梛ができるだけ自然に、透一郎の不調を伝えようとしていることに気づいてくれたのだ。全然自然じゃないけど。
晴季たちが到着してからしばらくして、手術が終わった。必要な手続きはすべて終わっている。透一郎はそのままICUに入れられた。そんなに悪いのか。
医師の説明を一緒に聞いた祐真が、かみ砕いて説明してくれた。職業柄、医学知識も豊富なのだ。人体にはそれほど詳しくない梛でも、あまりよろしくない状況だというのはわかった。
「兄さん、死んじゃう?」
「……死んじゃわないよ」
たぶん。心の中で付け加えた。根性論で言うのなら、透一郎が梛と晴季を置いて死ぬことはあり得ないと思う。だが、現実的に考えて言いきることはできないとわかっている。
『陽炎』にいる以上、いつ死ぬかわからない。覚悟はしていた。できていると思っていた。重いため息がでる。
「そういえば、今日、透一郎がいないなら、梛ちゃんと晴季君、二人きりよね。大丈夫?」
ふと気づいたのだろう。香江が尋ねた。晴季も自分のことは大体できるし、家事も梛は普段から行っている。何なら、先に戻った佐崎が夕食の用意まで気を利かせてくれているだろう。だから、生活面では大丈夫。だが、そういうことではない、というのはわかった。
「何なら私、泊ろうか?」
香江が心配そうにそう提案するが、さすがに梛の学校の司書である香江と、一緒にいるのはどうかと思った。かといって、祐真だと風紀上の問題がある。双方何もないだろうけど。
こういう時、近くに親戚がいないのが痛い。いや、親戚自体あまりいないのだが。祐真も泊りに来るか、と言ったが、合理的に考えた結果、香江に家に来てもらうことにした。瀬名家は母親と息子二人の三人家族で、父親はすでに亡くなっている。都がいるので瀬名家にお世話になることも考えたが、環境が変わることが晴季にとってあまりよろしくないのではないか、と思った結果、香江を水無瀬家に招き入れた。祐真はちょっと寂しそうにしていた。
梛の見立て通り、佐崎があらかた夕食を用意してくれてあったので、夕食の準備は簡単だった。さすがに食欲はなかったが、食べられるときに食べるのが資本であるので何とか飲み込む。香江が片づけを買って出てくれたので、梛は兄が入院生活で必要と思われる着替えなどを荷造りしに行く。というかこれ、女子高生の妹に荷造りされるのと、元カノに荷造りされるのと、どちらの方が二十六歳男性の心の傷は少なくて済むのだろう。部屋に入る前にちょっと考えてしまったが、この際なので気にしないことにした。だって、絶対梛が入院したら、透一郎が荷造りしてくれるし。
透一郎は足が悪いので、一階に部屋がある。淡々と荷造りし、明日持って行けるように準備する。その他必要なものは、兄が目を覚ましたら聞けばいい。
目を、覚ましたら。
急に寂しくなった。梛にとって透一郎は、兄で、師範で、四年前を生き残ってくれた大事な家族だ。晴季にとっては父親にも等しいだろう。それが、ここで失われるのだろうか。
どれだけ憎まれ口を叩こうが、それは信頼があるからだ。大好きだ。大好きなのだ。十八年近く、透一郎の妹として生きてきた。そうじゃなくなる日が来るなんて、ありえるとわかっていたのに、本当の意味で理解していなかったのだ。
兄の部屋の真ん中で膝を抱える。涙があふれそうで鼻をすすった。部屋の外から「梛ちゃーん」と香江の声が聞こえ、慌てて涙をぬぐって立ち上がった。
「香江さん、ここ」
「あ、よかった。梛ちゃん、タオル借りてもいい? 忘れてきちゃった」
肩をすくめて香江が申し訳なさそうに言うが、来てもらったのはこちらだ。梛は「もちろん」と答え、タオルを渡した。
寝る段階になり、晴季が珍しくぐずった。たまにあるが、めったにない。梛と一緒に寝るのだ、と言ってきかなかった。学校に行っている間に透一郎が倒れたからだろうか。姉と離れたくないらしかった。気持ちはわかるので、梛は八歳の弟と一緒に寝ることにした。
のだが、真夜中に目を覚ました。どうにも夢見が悪い。隣で寝ている晴季を起こさないようにゆっくりとベッドから降りる。一階に降りると、洗面所で顔を洗った。顔を上げて鏡を見る。……透一郎によく似ている、という顔が鏡に映っていた。少女である分、梛の方がいくらか繊細な顔立ちをしている。透一郎が子供のころの写真を見ると、なるほど。梛とよく似ていると思った。
がん、と鏡を殴りつけた。さすがに割れたりはしなかったが、結構な音がした。うつむいた顔から涙がこぼれる。
何もできなかったから、強くなりたいと思った。そして、足手まといにならないくらいの力を手に入れた。けれど、透一郎は梛の力の及ばないところで、結局生死の境をさまよっている。梛には何もできない。
「梛ちゃん?」
はっと顔を上げると、洗面所を香江が覗き込んでいるのが、鏡に映って見えた。同じように、香江にも梛が泣いているのが分かっただろう。少し驚いた顔をされた。
「梛ちゃん」
手を引っ張られて振り向いた。目の前に立った香江は梛より顔半分ほど背が低かった。梛は完全に泣いていたが、香江も大きな瞳をうるませていた。小さな手で梛の頬をはさんだ。
「眠れないわよね。私も」
「……夢見が、悪くて」
「そうね」
香江はただうなずいた。小さな手が頬を滑る。目を細めた梛を見て、香江は小さく笑った。
「その表情、透一郎とそっくり」
「香江さん……」
この状況で言うことではない。元恋人の香江は、透一郎の泣き顔を見たことがあるのだろうか。妹の梛すら、ほとんど見たことがないのに。梛は香江の知らない透一郎を知っているが、香江は梛の知らない透一郎を知っているのだ。
リン、と耳元で鈴の音が聞こえた。香江が微笑む。
「大丈夫。今度はよく眠れるわ」
「……うん」
香江の穏やかな精神干渉魔法を受けて、梛は小さくうなずいた。目覚めれば状況がよくなっているわけではないけれど、少し、自分の心が落ち着いたのが分かった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
もう失いたくなくて力を手にしたけれど、一人で何でもできるわけではない。すべてを救えるわけではない。透一郎の「助けられなかった」という思いは傲慢で、梛はこの時点でその本質に気づいている。たぶん。




