声なき声を聞いて【3】
次の登校日、梛はまず律子に謝った。気の優しい彼女は首を左右に振る。
「びっくりしたけど、お兄ちゃんもあんなこと、言う必要なかったと思いますし」
優しいが、情だけに流されないのだな、と梛はちょっと感心した。偉そうなので、心の中でだけ。
その律子は翔に話しかけられてほんのり頬を赤くした。明日香が梛と肩を組んで言う。
「ちょっとこれ、脈ありっぽくない?」
律子も浮かれているが、翔もなんだか緊張しているように見える。クラスメイトの大半が、この臆病で心優しい二人の恋路をほほえましく、あるいはにやにやと見守っていた。
異変に気付いたのは、授業の準備をしようとカバンを開けた時だった。思わず「うん?」と声を上げる。
「梛、どうしたの?」
「いや……扇子がない……?」
いや、入れ忘れただけかも。暑くなってきたので、梛は扇子を持ち歩いているのだが、それがない。また、梛の場合はいざというときに武器にもなるので持ち歩いているともいう。ちなみに、いたって普通の扇子だ。
「家に置いてきたんじゃない?」
「かな?」
確証が持てなかったので保留にしたが、家に戻って探してみても扇子は見つからなかった。
次の日は物がなくなるのではなく、物が増えていた。誰のハンカチだよ。男物のようだが、兄や弟のものを間違って持ってきたわけではなさそうだ。気持ち悪かったのでそのまま捨てた。
その二日後、明らかに隠し撮りされた自分の写真がカバンに入っていたことで、梛の疑惑は確信に変わったが、すぐにそれどころではなくなった。
透一郎が倒れ、緊急入院したのである。
そもそも、その日は朝から少し嫌な予感がしていたのだ。起きてきた透一郎は、はっきりわかるくらい顔色が悪かった。
「ねえ、兄さん大丈夫? 一緒に病院行く?」
「大丈夫だよ。学校に行っておいで。遅刻するよ」
微笑んでそう言われ、後ろ髪をひかれつつ晴季と一緒に家を出たのが朝七時半。学校まではそんなに遠くない。
透一郎が倒れたという電話は、昼にかかってきた。家政婦の佐崎からだった。
「はい?」
『ですから、透一郎さんが倒れて! 今、救急搬送されて病院なんですが……!』
「待って。ちょっと待って。とりあえず、どこの病院?」
病院名を聞き出し、近くの総合病院であることを確認すると、梛は「わかった。すぐに行く」と言って電話を切った。焦った佐崎が、通信アプリではなく直接電話をかけてきたのだ。昼休みじゃなかったら出られなかった。
「梛ぃ。どうしたの?」
「何かあったんですか?」
昼休みになってすぐ電話に出てしまった梛を待っていてくれたのだろう。弁当を開かず明日香と律子が声をかけた。梛は食べていない弁当をカバンに突っ込む。
「兄さんが倒れた。このまま病院に行く」
「ええっ!?」
明日香が大声をあげて、周囲の視線が集まった。すぐに彼女は声量を下げる。
「大丈夫なの?」
「……容態を聞くのを忘れた」
緊急搬送されて緊急手術中らしいが、容態を聞いていなかった。梛も見た目にはわからないが、相当動揺しているらしい。
「は、早く行かないと!」
逆に目に見えてうろたえているのが律子だ。彼女にうん、とうなずき、カバンを持って教室を出た。職員室で簡単に事情を説明して学校を飛び出る。なお、この時梛は、晴季のことをすっかり忘れていた。
贅沢だがタクシーを拾う。まあ、近くの病院だったので、それほど距離はなかったのだが、真昼間から女子高生が全力疾走しているのはどうかと思ったので。
「佐崎さん!」
「ああ、梛お嬢さん!」
病院までついてきてくれていた佐崎は、梛を見てほっとした表情を浮かべる。梛は手術中のランプの付いた部屋を見て、近くの椅子に座った。隣に座った佐崎が背中をさすってくれる。
「……兄さんは?」
「まだ手術中で……内臓がかなり傷んでいたようです」
「そう……」
四年前……もう五年経ちそうだが、あの時、透一郎の体は、内部に至るまで傷ついていた。一応は小康状態だったが、いつ調子を崩しても不思議ではなかった。わかっていたのだが。
「水無瀬さんの妹さんですか?」
「あ、はい」
女性に声をかけられ、梛はうなずいた。白衣のようなものを着ているが、看護師や医師ではなさそうだ。名札を見ると、メディカルクラークであるらしかった。
「実はですね、透一郎さん、手術が成功しても、入院する必要があるので承諾書が必要になるんですが……妹さん、未成年ですよね……?」
「十七歳ですね」
大人びて見られることの多い梛だが、今はがっつり制服を着ているので、メディカルクラークも察したのだろう。高校生なら学生でも十八歳の可能性はあるが、残念ながら梛の誕生日はあとひと月ほど先だった。病院の承諾書にサインできるのは、この時代のこの国では十八歳以上からである。どうやら運ばれた直後は透一郎の意識はあったらしく、彼自身がサインしているようだが、どちらにしろ入院するときは保証人のサインがいるのではないだろうか。
「ほかにご家族は?」
「ええっと」
まず思いつくのは晴季だが、八歳になったばかりで梛より駄目だ。父方の祖父母はすでに他界しているし、母方の祖母はまだ生きているが、かなりの老齢だ。こういう場合は。
「代理人とかでも大丈夫ですか?」
「え、ええ」
梛はすぐさま電話をかけた。
『もしもし』
「あ、間違えた」
『……さすがに怒るぞ?』
動揺しすぎて祐真に電話をかけてしまった。本当は彼の母にかけようと思ったのだ。瀬名違いである。祐真の母は弁護士で、透一郎に何かあった場合、梛たちの後見をしてくれることになっていた。
「あ、えっと。都さんに連絡を取ろうと思ったんだけど、間違えた……」
『そうか。お前、大丈夫か?』
「自分が動揺してるのがはっきりわかるくらい動揺してる」
『わかった。母さん連れてくから、今どこにいる?』
さくっと言い切った祐真に、梛は病院名を告げる。理由も何も話していないが、祐真は『わかった』というと、『三十分くらいで着く』と電話を切った。基本おっとりしている割には決断が速い。
「ええっと……?」
「三十分くらいで、世話をしてくれている弁護士さんが来る……予定です」
直接話した相手が祐真なので、はっきりとは言えなかった。病院にいる時点でなんとなく察している気もするけど。
きっかり三十分後、本当に来た。
「本当に来た」
心の声も含めて二回言った。ちゃんと祐真の母・都も一緒だ。
「梛ちゃん、大丈夫?」
都は五十間近のきりっとした女性だ。いかにも仕事のできる女です、というような彼女から、どうやったらこんなにおっとりした男が生まれるのか不思議でもある。
都に声をかけられ、梛は「うん」とうなずく。都は梛の代わりにメディカルクラークの説明を受けてくれた。
「あの、梛お嬢さん」
佐崎に声をかけられ、梛は彼女を見る。
「私、一度家の方に戻りましょうか。晴季坊ちゃんが帰ってくるでしょう?」
「忘れてた……」
大事な弟を忘れているあたり、梛の動揺も激しい。確かに、間もなく二時になる。初等部の授業が今日は何時間目までだったか忘れたが、小学ニ年生なのだから、少なくとも三時半ごろには帰ってくるだろう。それまでに、帰れそうにない。
「佐崎さんは、家のこと頼んでいいい? 晴季には病院に来てもらった方がいいけど」
「俺が迎えに行こうか」
車で来たぞ、と祐真が名乗り出るが、梛は首を左右に振った。
「香江さんに頼む」
「透一郎さんの元カノの?」
「その人」
香江に連絡を送り、了承の返事があった。佐崎には家のことを頼み、定時にはいつも通り帰ってもらう。佐崎は心配そうにしていたが、うなずいて水無瀬家へ向かった。
「祐真さんもごめん……仕事中だったよね」
「まあそうだが、お前が動揺しているのが分かったし」
放っておいても仕事が手につかなかっただろう、と祐真は言った。だから、研究所を出て事務所で母を拾い、病院まで駆けつけてくれた。今も隣に座って背中を撫でてくれる。
「……あまり、一人で無理をしてくれるな。少しでいいから、俺たちがお前を心配していることをわかってくれ」
梛は祐真を見上げた。祐真も梛を見つめたが、彼女の瞳から涙があふれたので驚いたようだ。ゆっくりと瞬きをする。
「ど、どうした」
「どうしよう……兄さん、死んじゃったらどうしよう」
「……梛」
抱きしめられ、背中を叩かれた。次々と涙があふれてきて止められない。すがるように腕を回すと、強く抱きしめてくれた。
どうしよう、どうしよう。どうしようもなく、失うのが怖い。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
急展開(笑)
この章は長いです。




