幸運のお守り
結局カナエは、聖都まで後一日という街で隊商と別れる決断を下した。
太陽の具合を見るに、まだ午前中。
少し足を早めれば、日が暮れる前に聖都に着くだろう。
そんな立地のせいか、聖都へ向かう人々に素通りされることも多い少し残念な中都市だ。
「本当にここでいいわけ?」
なんだかんだで一番仲良くなった聖都推しのパレスティーナは、市壁に目を遣り少しだけ唇を尖らせている。
「えぇ」
縁もコネも土地もない身で、農村への移住など不可能だ。今度こそ全自動公衆便所扱いだ。絶対に御免蒙る。
人里離れた山中に隠棲して世捨て人になれるもんならなりたいが、三日で干上がる負の自信がある。
必然的に、都市へ移住するしかない。選択肢なんてあるようで全くない。
聖都はいやだ。
言葉が異なるクランフランでは仕事はもとより生活すら難易度が跳ね上がる。
外国だったらスヴェルに行きたいけど、正直カナエは現在地がよくわからない体たらくだ。世界地図などない。
王都の北西に聖都があったはずだから、たぶんその辺というざっくり具合。
「近くに聖都があるから目立たない、ごく一般的な周辺農村との取引の場としての街。領主の森と魔の森があって、人口そこそこで、代官がいなくて、都市領主が中継ぎの女伯爵!」
「領主が女だからって、女が優遇されてるわけじゃないわよ」
決め手を指折り数えるカナエに、パレスティーナは常識を告げる。
「そこまで期待はしてません――けど、基準が女性っていうのは大きいと思うんですよね。例えば街の乗り合い馬車の駅舎の間隔が歩いて半刻じゃなくて四半刻だったり、とか」
「あぁ――そうだったら、いいわね」
ただの例え話だが、移動に明け暮れる人生のパレスティーナは突き出していた赤い唇を解き、花開くように笑ってくれた。
「おいカナエ! なにぼーっとしてんだよ! はやく馬車にのれよ!」
「シーニー。カナエは此処で降りるのよ」
パレスティーナの言葉に、族長の息子のシーニーが驚いた顔をした。
王都で迷子になって隊商の出発を遅らせた張本人で、カナエにとっては間接的な恩人と言える。
御年六歳。約四倍年長のカナエを躊躇いなく呼び捨てにする大物の卵だ。
「な、なんでこんなとこで降りるんだよっ。今日の札あそびは誰が親をやるんだ。今日こそはおれが勝つんだぞ!」
「私がやってあげるわよ」
「ティナ、計算おそいじゃねーかっ」
「なんですって!?」
隊商の一族は、五歳になると、一から二十までの数字を書いた札で計算を教えるらしい。
夜寝る前に、その札で四則演算を叩き込まれている子どもたちの死んだ目を見て、カナエはちょっと競技性を取り入れる提案をした。
単純に、子どもたちが持つ札を全て混ぜ合わせ、一人相手に一枚ずつ置いていく。それをひたすら合算させる。間違えた時点で終了。もちろん間違えを判断するカナエも必死こいて暗算する。
全員終わったとき、一番札を取っていた子が優勝で、翌日カナエのおやつを進呈した。
娯楽が少ないからか、子どもの食いつき具合がカナエの想像の遙か上を行き、我も我もと集られたので、疲れてぶっちゃけ寝たいカナエは、十三枚四組に二十を二枚加えた札で二十抜きや七並べ、大貧民をムニャムニャ言いながら伝授、そして寝た。
翌日からは、なぜか大人たちが金を賭けて夢中で遊んでいたが――見なかったことにして、しばし子どもにつき合って、やっぱり寝た。
「カナエがいちばん計算がはやいっ」
「もう同じくらいよ。だから今日からは、シーニーとラオンが親をやって、年下の子に教えてあげてね」
子どもの吸収は恐ろしく早く、初日は考え考え足し算をしていたのに、昨晩などはポンポンと律動的に答えていた。カナエは暗算より筆算の方が得意なので、そろそろ追い越されるなぁと思っていた。
中でもシーニーは負けず嫌いを発揮して、著しく成長した。どうしても一つ年上のラオンに勝てなくておやつを貰い損ねていたが、カナエの見た限りラオンは別格だ。鶴亀算まで暗算でしていた。戯れに連立方程式を教えたら尊敬されて罪悪感を覚えた。
別にカナエが編み出したわけではない。
「しょ、しょうがねぇな! おれの嫁にしてやるから、このままいっしょに来いよ!」
「笑顔で人の傷口に粗塩擦り込むなんて女泣かせになるわねシーニー。将来刺されないように気をつけるのよー……」
女心は塩漬け肉じゃねーんだぞ。
いや、しかし保存が利きそうだ。腐るよりよっぽど良いか。
よしもっと来い。
「おう。振られたかシーニー」
涙目の少年の赤毛に分厚い大きな手を置いたのは、同じく赤毛で髭面の大男。
赤毛の多い一族の族長。シーニーの父親である。
「ふられてねーしっ!」
「なら現実を教えるぞ。相手にされてねーぞお前」
「うぐぬーっ」
頭に置かれた手から逃げ去り、ぽこぽこ父親の尻を叩く。
おうそこそこ、もうちょい上、などと言いながら、髭まで赤い族長は腰の位置を調節している。
按摩か。
「まぁうちのガキの初恋はともかくよ。あんたは計算が得意だから、このまま居着いてもいいんだぜ?」
「計算は得意ですけど。乗り物にはどうにも慣れませんでしたから――日程、遅れてますよね」
移動は荷馬車に女子供の半数が交代で乗り込む。御者以外は基本徒歩だ。
カナエは歩く体力はあるのだが、馬車から降りた半刻ほどは、馬車酔いが落ち着くまで足下が覚束無い。
その半刻。隊商は足を遅めてくれていた。
カナエは男衆のように一日中歩くことは出来ず、一日中馬車に乗っていることも出来ない。
長旅に向いていないとしか言いようがない。
王都までの旅路で知っていたけど、改めて自覚した。体質は早々変わらない。
「まぁなー……だがなー……。なぁ、あの札遊び、売っても良いか?」
「もちろんです。遅れた損失を補えればいいんですけど」
「過剰なんだよ。ありゃあ売れるぜ」
「過剰に出来るかどうかが腕の見せ所だと思いますけど。絵なんか描いたら、華やかでいいんじゃないですか」
カナエは絵が描けないので手は加えなかったが、さらっと完成系ぼかして提示してみる。
いつかカナエの手元に懐かしいトランプが届くかもしれない。差異を楽しむのもいいだろう。知らない遊技が出来るかもしれない。
――楽しみだ。
「……まぁ、これ以上引き留めんのも野暮だわな。あー俺が独身だったらなぁ」
「後ろで奥さんが浅鍋素振りしてますよ」
シーニーは良い。だが大人の冗談で塩漬けを許せるほどカナエの心は広くない。
むしろ超狭い。
やっちまえ本塁打。
「おぉっと。おい、遊んでないでアレ渡してやれよ」
族長は浅鍋を振り回しているシーニーの母に慌てて手で合図する。
奥さんは浅鍋を構えたままパレスティーナに声を掛け、荷台に走らせる。
「……アレ?」
「あぁ。俺らは旅の商人だ。過払いも未払いも絶対にしない。後が面倒だからよ」
駆け戻ってきたパレスティーナが、カナエの両手を握りしめるように、布物を持たせる。
「え、なに」
「餞別、兼、色々な対価ね。対価だから、受け取りは義務よ」
広げるとそれは、柔らかい白い布で作られた袋状の――。
「帽子?」
「そうよ。後頭部まで隠れるわ。この紐を顎で結んで、こっちのヒラヒラは側面から後ろに流すの。可愛いでしょ。あなたの衣装にも合うわ」
「で、でもこれ! なんか前縁に黄色いキラキラが付いてるっ!」
この世界、宝石などの“光るもの”は、光の反射ではなく“光るもの”として存在する。
要は、光るものは夜でも光る。
当然、ものすごく貴重だ。
「それ、レヌス河の大雷鯉の鱗よ。欠けたり砕けたものの破片だから気にしないで」
「いや、いやいやいや」
「うちの一族は、レヌス河を往復しながら旅をする。大雷鯉の鱗はお守りなの。幸運と魔除けのね」
ほら、とパレスティーナが色っぽく赤髪をかきあげた耳朶には、黄色い鱗が連なった耳飾りがあった。
見渡すと、隊商の人々が腕を掲げたり胸元をくつろがせ、様々な装飾品に加工された黄色い鱗を見せてくれた。
「黒髪は目立つから、これで隠して。黒髪狩りもまた流行ってるし、だから聖都に行きたくないんでしょ?」
黒髪狩りは何故か定期的に流行るはた迷惑な犯罪で、その犯人は大抵、終末派と呼ばれる狂信者だ。
辻斬りのようなそれは、カナエの宗教嫌いに拍車をかけている。
「あ……あ、ありがとう……」
予想外の涙腺破壊攻撃。
枯れ果てたと思い込んでいたものがこみ上げてくる。
「本当に……かわいいわ」
縫いつけられた不揃いな鱗の破片は、その形を活かしながら小さな黄色い花を作り、緑の糸で葉や茎が刺繍され、前縁を飾っている。
カナエがぐっすり寝ている横で、女衆が縫ってくれたのか。
「あなたの幸運を祈るわ」
「うぐぬーっ!」
六歳児と同じ奇声を発して、カナエはパレスティーナに抱きつく。
後頭部をよしよしされた。
言えない。
ますます言えない。
大人っぽい美女に見えてパレスティーナは十八歳。旦那募集中。
五つも年上とかもう言えない。一生黙っていようと子供扱いに決意を固める。
「わたしたちは半年後、またこの街を通り過ぎるわ」
その時。
あなたがもう、この街にいないことを願っている――。
そうして七日間お世話になった、赤毛の隊商一族とお別れした。
遠ざかる馬車を見送り、手を振り続ける子どもたちに、カナエも街に入らずに、手を振り続ける。
「でもね、パレスティーナ」
こう見えて、カナエはかなりの幸運の持ち主なのだ。
――故郷を失うは結婚は流れまくるは、突然婚約者を奪われるわ、権力者に対抗する術はないはで泣きながら逃げてきて今はどん底で這いずり回っているが。
死んだのに何故かもう一度産まれて、生きてるし。
年齢一桁で好きな人と出会ったし。
その人たちは、確かにカナエのことを、好きだと言ってくれていた。
全容も知り得ない、広い世界で。
自分が好きな人が、自分を好きになってくれるって、本当に幸運。
「とはいえスタートダッシュ決まりすぎて今めり込んでるんだけどー……」
そんな中でも親切な人たちに出会って、こうして涙腺破壊攻撃に耐えている。
最後の言葉なんかもうじわじわ来る。鼻が痛い。
「さてと幸運」
その名の通りの人を置き去りにして、これからは一人だ。
幸か不幸か、女が一人で生きていくのは厳しい世界。
生きること。ただ生活することに必死にならなければならないし、自分の身は自分で守らなければならない。
腕の立つ隊商の男たちは、別段追っ手はないと言ってくれたけれど、身の危険はそれだけじゃなくて日常に溢れている。
それでも幸運。頼むぜ幸運。
「一緒に行くぞ」
カナエは結構運が良い。
だからだろうか。
この厳しくも優しい世界で、何度道ばたの雑草の如く踏みにじられようと――カナエはこの世界を、何故か嫌いになれない。
どうしても、嫌いになんかなれないのだ。
ふと、顔を上げる。
秋晴れの空を遮るように、背の高い白い市壁が見える。
「……あーちゃん……?」
優しい声が、耳元で笑った気がしてその名を呼んだ。