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さよならイエロー 作者:香山
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8/13

沈黙の鼓動


 クスートン伯爵領ペイジュラの昼時の広場では、蚤の市が開かれていた。
 衣食住の確保が文字通りの死活問題であるカナエとしては、賑やかな露店市を冷やかす余裕は残念ながらない。

「……人材市の日程を、確認しとかないと」

 王都では、月に一回は人材市が開かれていた。
 そこでは、それぞれの職業の象徴的な道具――例えば煙突掃除屋ならば、長柄の刷毛――を掲げた人間が集まり、労働力を求める者がその道具を目印に求職者に声をかけ、その場で交渉するのだ。

 同じヴェルメリア王国内だから、職の探し方にそう大きな違いはないと思いたいが、代官のいない都市だから、独自性が強い可能性も捨てきれず――調べるしかない。

 さらに、なんの目印を掲げるかという問題もある。前職専業主婦、前々職農婦という履歴を思うと胃のあたりに寒風が吹く。

 読み書き計算ができることは、ちょっとした特殊技術といえるが、カナエにはまずコネがない――己の人格と能力に対する信用と保証がないのだ。

 正式な文書の作成や金勘定に携わるには致命的な欠陥である。

「……痛い」

 古物を冷やかす体力もなく、人通りの邪魔にならない街路樹の下でカナエは足を止めた。

 足が痛い。
 荷馬車に乗ったり降りたりしながら移動し続けた七日間。
 赤髪の隊商の人々には本当に気を遣ってもらっていたが、足は肉刺だらけだった。

 そもそもカナエは柔らかい室内履きで家を飛び出した。
 日本と違い土足の世界だが、農村のような土間ではなく、王都の家の床は板張りだったので、カナエとアスファルは玄関で室外用と室内用で靴を代えて生活していた。
 留め具もないような室内履きスリッパよりもきちんとした靴ではあるが、素材は厚手の布で――要は、長旅をするような物では決してない。

 履き代える暇なんて無かったし、あの時はとても悔しかった。

 当然だが、お嬢様は土足でやってきた。
 当然なのだが、カナエとアスファルの家に、土足でやってきた。

 当然、なの、だが!

 うんこ踏んだ靴で室内に入って来やがった!
 現代日本じゃないのだ。歩けばそうなる。そればかりは身分の貴賤は関係ない。平等だ。あまりにも平等だ。クソが! クソか!

 だからこそ靴を履き代えるという生活をしていたのに、そこに、土足で踏みいられた。心象の比喩であり、本当にあった怖い話でもある。


 ――あれはほんと泣けた。


 先日、ついに水膨れが破けた。
 今も鼓動にあわせて爪先から踝までじんじん痛む。足に心臓があるみたいだ。

 日の出ている時間は移動に費やし、休憩を挟みながら歩いた体感は、一日二十キロくらいだと思う。七日で百四十キロか。

 東京名古屋間新幹線で一時間半なんて考えると気が遠くなる。
 しかし徒歩で箱根は越えたと思えば、頑張ったと思う。平地だったが。

 情けないことに、本当に限界だったのだ。

 しかしあの悔しさを思い返せば歩ける。まだまだ歩ける。明日寝込んだとしても。
 ゆっくり足を治療できる場所を――今日の寝床を探さねばならない。

 聖都にほど近い街であるからか、中小都市とは思えないほど立派な神殿の鐘楼が聳立しょうりつしている。

 よたよたと、老人のように人を避けて歩き出す。
 今、足を踏まれたら確実にひっくり返ると怯えながら、カナエはこの都市の象徴であろう鐘楼に背を向ける。

 此の期に及んで、医師も兼ねる神官がいる神殿を避けるのはもう、意地でしかない。

 広場を出て、大通りの人の流れに逆らいながら左右を見渡す。

 銅製の看板を確認しながら星形の花を掲げる店舗を探す。実物はカナエの手のひらに収まるくらいの薄紫の花冠のシクベルの花は、代表的な薬草であり――薬になるのはその太い根なのだが――薬屋を示す。

「あっ、あの!」

 さほど歩かず見つけた目当ての店の前で、掃き掃除をしている老婆に声をかける。

「……なんだい」

 第一声はその小柄な体躯に似合わず低く、険のある眼差しを突き刺され仰け反る。
 慌てて丸まっていた背筋を伸ばし、俯いていた顔を上げる。脊髄反射だ。

「あ、の。こちらは、薬屋さんですよね?」

「見ればわかるだろう」

「あ、はい。それで、今日開いてますか?」

 固く閉ざされた扉に視線をやりつつ、半分諦めつつ問いかける。

「見ればわかるだろう」

 取り付く島もなく肩を落とす。

「なんだい、急患かい?」

「いえ……急ぎでは」

 灰色の髪をぴっちりとまとめた小さな老女の鋭い目に貫かれ、なにも悪いことはしていないはずなのに背中に冷や汗が流れる。
 躾に厳しい母親の前で正座させられたかのような心境を味わう――カナエの二人の母親は、どちらものほほんとした人だったのだが。

 彼女は遠慮なくカナエのなりを上から下まで睥睨し、その足下で視線を縫いつけた。

「……入ってすぐの階段を上がった一番手前の部屋で、薬師が寝てる。入って叩き起こしな」

 ふと背を向けて、灰色の老婆は閉ざされた薬屋の扉を細く開いた。

 王都は大通りに面した店舗の間に細い路地があり、その奥に長屋が建ち並んでいたが、この街では、集合住宅の一階が店舗になっている造りのようだ。

「あの、今日はお休みなのでは?」

「こんな時間まで酒瓶抱えて眠りこけてるなんてだらしがないんだよ! いいからさっさと叩き起こしてやりな」

「……あ、ありがたいのですが――休日とはいえこんな時間まで酒瓶抱えて眠っているというのは……」

 薬師として――否、人として、どうなのかとカナエは思ってしまう。

「……腕は悪くないよ」

「目を逸らしながら言われてもー……」

「いいから、さっさとお入り!」

「はいぃ!」

 厳しい声に反射的に返事をし、恐る恐る店内を覗くと薄暗く、薬独特の臭いがした。

「あ」

 間近で自然と見下ろす形となった老婆の灰色の髪は、よく見ていると同量の白髪が混じった黒髪だった。

「その階段を上ってすぐの、左手側の部屋だよ。鍵をかけ忘れるやつだから、開いてるはずだ。閉まってたらまた降りといで」

「……ありがとうございます」

 全身で訳ありを主張してる情けない姿形のカナエの、帽子から零れた前髪と眉を一瞥した老婆はふん、と鼻を鳴らすだけだった。

 隊商から貰った帽子の前縁、つるりとした黄色い鱗を撫でる。

 出会う人に恵まれているとつくづく感じる。

 だからきっと、おそらく、たぶん、飲んだくれ薬師も大丈夫――だと思いたい。
 ですがおばあさん。出来れば一緒に来ていただきたかった――。

 急勾配の階段を上り終え、意を決して扉を叩く。

「すいませーん」

 叩く。

「あのー」

 叩く。

「お休みのところ申し訳ありませんがー」

 叩く。

「……」

 叩く。
 叩く。
 叩く。

「起きろっつってんだろーがっ!!」

「ひょえっ!?」

 寝穢い休日のアスファルを起こす癖が出た。
 確かにあったはずの遠慮会釈を彼方に吹き飛ばし、無遠慮かつ乱暴に戸を開け放つと同時に怒鳴り込む。

「いつまで寝てるんですか!? うわホントに酒瓶抱えてるっ、しかも零れまくってるっ!! 酒じゃないアレコレが零れまくってるー!!」

「うぇえ!? えっえ?」

 寝ぼけ眼を白黒させる薬師は――女性であった。
 豊かな金髪に埋もれ、前合わせの寝間着から重量ある胸が、寝乱れたムッチリした太股が露わになって、同性の目にすら毒だ。

 ちゃかちゃかと着せ直す。
 窓の戸板は勢いよく取り外し、日差しを呼び込む。

「な、何!? 誰!?」

「急患ですっ!」

「――どこ」

「わたしです!」

「元気っ!?」

 年齢不詳のむちむち美女が叫んだ。

「足が痛いです! 傷薬ください! ただし金属類を使った薬は絶対いやです! 植物性に限る!」

 水銀とか水銀とか水銀とかは断乎拒否する強硬な姿勢を全面に出す。

「――……あぁもう、なんなの。いろいろ本当に……アタシの薬は植物中心よ……」

 カナエ相手に果てしなく無駄な色っぽいため息をついた女性は、目をこすりつつ体を起こし、すぐさまきっちり髪を結んだ。

「ヒルデよ。あんたは?」

「ご挨拶が遅れまして大変失礼いたしました。カナエと申します」

 名乗るとともに丁寧に頭を下げた。

「今更取り繕われても……“大地カナエ”? 本名なの?」

 カナエの名は珍しいものではないが、その雄々しさから男性名であることが多い――というか、己以外の“カナエ”という女性と会ったことはない。
 紛う方なき男性名である。

 前世と同じ響きであることもあり、カナエに違和感や不満はないが、初対面の人間は必ず奇妙な顔をする。

 ついでにいえば抑揚が違う。
 両親が授けたカナエの音は、前世同様の“低低低”。しかしこの世界の人々は“高低低”で呼ぶ。

 カナエの名を正しく呼ぶ、この世に残されたたった一人の人は、もう隣にいない。

「……本名です」

「まぁ、いいけど――うわ、何その足ひっどい! 血と滲出液が乾いてバリバリ!? 薬塗るもなにもまずその靴脱げないじゃないの!」

「痛いです!」

「でしょうね! ほらまず水場いくわよ」

 急き立て背を押されたヒルデの白い手は、じんわりと暖かかった。
 そして吐息は酒臭かった……。

 水を汲みヒルデの部屋にとって返すと、彼女はテキパキとカナエの足に治療を施し清潔な布を巻いてくれた。

 色々ありえない治療が横行する世界で、カナエにとってヒルデの腕は大当たりだった。酒臭いが。

「あの、それで、おいくらですか?」

「あ? あー……使った薬は商品じゃなくてアタシに私物だし、別にいいわよ」

「そんなわけにはいきません! きちんとしてください」

「休日なのーめんどくさいのー」

 子どものような駄々をこねる美女に、ただより怖いものはアスファルしかないカナエとしては、きちんと対価を払いたい。

「じゃあ、一杯つきあってよ。それでいいでしょ」

「よくないですよ何もかも! まだ昼ですよ、わたし一応怪我人ですよ!?」

「だからあんたは一杯でいいわ。アタシはもっと飲むけど――洗ったあんたの靴はまだまだ乾かないし、いいでしょ」

 確かに靴もないまま外出はできないが、それとこれとは話が別だ。

「それともあんた、飲めないの?」

「いえ、普通ですが……」

「酒飲みじゃないの。ほら、いま肴出すから座ってなさい」

「普通なんですけど!」

 食料を保管している木箱を漁りだしたヒルデの背を追いかける。

「飲めない女は飲めないと言うわ」

「……そうですね」

「大して飲めない女は、嗜む程度って言うわね」

「……ですね」

「アタシみたいな大酒飲みは、飲めるって答えるわ」

「……」

「かなり飲めるけど上には上がいることを知っている酒飲みは、“普通”と答えるの。これヒルデさんの酒飲みの法則」

「…………」

 ドンと音を立てて、ヒルデが葡萄酒の瓶と
白目の杯を置く。

「アタシにとって葡萄酒は酒じゃありません。命の水よ」

「大酒飲みですね」

 それ以外、言いようがない。

「あんたは?」

「葡萄酒ですか? お酒に決まってます」

 昼に飲めば罪悪感を抱く。
 そもそも酒盛りしている場合ではないし、血流がよくなって痛みが増す。

「――じゃ、林檎酒は?」

 山の民の衣装から、当たりをつけたのだろう。馴染み深い酒の名に、カナエは白旗を上げた。

「……命の水です」

「林檎酒もあるわよー」

 どうしてこうなった。

 カナエは注がれた林檎酒に口を付ける。
 一杯だけという話であるが、林檎酒は酒ではない。命の水である。

「はあー? なにアンタ、婚約者取られて逃げて泣き寝入りぃ? なっさけないわねぇ!」

 ムッとする。
 塩漬け肉しんぞうに、今度は胡椒を塗り付けられた気分だ。
 ちゃくちゃくとなんだか美味しそうに仕上がっている胸が痛む。

「身分が違ったんです。どうにも出来なかったんです!」

「金持ちのお嬢様のワガママくらいどーってことないじゃない」

「貴族だったんですっ!!」

 否、劇辛唐辛子ハバネロか。
 あまりの痛みに悲鳴を上げた。

「ふーん……」

 叩き起こした意趣返しと思い、ひたすら耐えているカナエを半眼で眺めつつ、ヒルデは木の実をポリポリ食べる。

「煽って聞き出した訳だけど、公言しない方がいいわね、それ。アンタ逃げてきたんでしょ。隠れる気があるなら変に説明しないで寡婦で通しなさい」

「……それ?」

 ぐびりと葡萄酒を呷ったヒルデの白い喉が上下する。

「貴族のお嬢様がー、平民から平民の男を奪う? 男女逆ならよく聞くけど所詮愛人だし。権力にあかして男を侍らすなら、やっぱり愛人で十分でしょ。婚約者あんたが逃げる必要があるわけ? 結婚できなくなったってことは、平民の男が、正式に貴族の娘と結婚するってことでしょー? そうそうないわよそんな話」

「…………」

「この国でー、最近でありえそうなのってー、王都の竜殺しくらいでしょ」

「…………」

「わかる人はすぐわかっちゃうわよ。アタシみたいにねー」

 ぐうの音も出ない。

 大酒飲みだし口調も間延びしたものであるが、ヒルデは頭の回転が速いのだろう。

 そもそも王都では、薬師の親方権は女性には与えられていなかった。女性の親方権が認められる職種は非常に限られている。

 クスートン伯爵領は王都とは違うと言えばそれまでだが、それでも女性の身で薬師の看板を掲げるには並々ならぬ努力が必要なはずだ。何せ店の立地も良い。

「ふーん、へー。これがあの竜殺しの妻ねー。だいじょーぶ、言わないどいてあげるわよー」

 肯定はしていないが、否定もしていない。したくない。

「ま、未練たらたらな上に旦那が生きてるんだから、寡婦って名乗りたくはないんでしょーけどー」

 正にその通り。
 パレスティーナにも言われたが、カナエの身はほとんど寡婦だ。非処女という点において。

 そんな気には到底なれないが、新たな相手を探すと仮定する。
 その際、カナエが出品される花嫁市場は中古市場だどちくしょうよけいなお世話だ結婚する気だった好きな人と寝て何が悪い。

 寡婦だなんて自ら表したら、縁起でもないしもう二度と会えないような気すらする――未練なんて、あって当たり前だ。

 喉は干からびたみたいにカラカラだし、林檎酒がなぜかとても苦い。

 しかも脳裏でアスファルが捨てられた小犬のような顔をする――そんな殊勝な性格ではないくせに、こんな時ばかりは年下であることと破壊力のある面の皮を躊躇いなく利用する――だがしかしカナエには余裕がない。その顔に勝てた試しはないけれど、二十年分の情報と経験に基づいた表情とはいえ所詮、妄想!

 カナエは頭を振った。

「……ご忠告痛み入ります。王都さんち直送もぎたて寡婦です」

「何ちょっと美味しそうに言ってんのよ」

 ヒルデは笑い飛ばしてくれた。

「うん。貴族娘にさっさと鞍替えする男なんてアタシの元旦那並の屑ね。今は辛くてもすぐ清々したーって気になるわよー」

「……彼の意志は、確認してません」

 目を逸らしつつボソっと言う。後ろめたい人間の典型的な反応だ。
 ――そんな暇はなかった。

「――は? 出世に目が眩んだ男に捨てられたんじゃなく?」

「そうなる可能性からも、とっとと逃げてきたんです」

 それだけしか選べなかったのも事実だが、逃げる理由だけは沢山あった。

「……じゃ、もし。英雄が出世なんか欠片も望んでなかったら、ブチ切れてんじゃないの? ちょっと――今頃、王都滅んでんじゃないー?」

 徒歩で七日の距離である王都とペイジュラは、早馬なら一日だ。噂だって二、三日で届く。

 そんな話も騒ぎも聞いていないし、そんなことはあり得ない・・・・・


「アスファルは、そんなカッコ悪いことしません!」


 ぐびぐびぷはーと杯を呷り、手酌で命の水の追加を注ぐ。ぐびぐびぷはー。

「カッコ悪い? 万難排してアンタを迎えに行くってこれ以上ない意思表示じゃない」

「カッコ良いところの正反対だから、カッコ悪いでいいんです! そんな乱暴で短絡的なこと、絶対に、しませんからっ!」

 飲み干した杯を卓に叩きつけると、木の椀に盛られた木の実と干し果物が飛び跳ねた。

 ヒルデとて、王都滅亡のような力任せの手段を賞賛しているわけではない。
 ただ、力を持つ者が怒り狂えば、ごく自然にそうなるのではないかと予測しただけだ。無抵抗である理由はないと考える。

 それをカッコ悪いと断言するつまの感覚は、理解しがたいものがある。

 破壊衝動の権化である竜は、人の身にはただただ過ぎ去るのを待つしかない災害だ。
 その竜を倒すような人間は、人の姿をした竜である。
 表でどんなに賞賛したって、裏では皆そう思っている。

 むしろ、人の形をして、言葉を話し、考えるだけ竜よりも遙かに恐ろしい。
 しかも、“竜殺し”アスファル・ル・ステナーは――魔法使いでもあるのだ。

「――アスファルは元々、魔の森の森番で魔物を狩るのが仕事なんです! 魔物相手は鼻歌交じりに無双しますが、人を害すなんてことはあーりー得ーまーせーんー! 近衛軍は魔物相手だから入隊したんですよ! 戦争に行くくらいなら大工やるって言ってましたから! 手先器用なんですよ!」

「って言われてもねー……しかも最後の情報どうでもいい」

 ヒルデはカナエの杯を奪い取り、白湯の入った薬缶を置いた。
 カナエは特に抵抗もせず、素直に白湯を飲む。
 ――酔っているのか酔っていないのか読めない女だ。とりあえず、飲み慣れてるのは疑いようがない。

「弓と短刀ナイフを持つことを許されたとき、約束したって言ってました。『この鏃と刃は、容易たやすく人の命を奪うことも出来るから、力を持つ者は、その力を己のために振るってはならない』って! お父さんの言葉を、アスファルはちゃんと守ってました! わたしは知っています」

 その彼が、激昂したからって、あいつやこいつを皆殺し? あり得ない。
 そもそもあの・・アスファルが激怒するところを、カナエは想像すら出来ない。
 二十年分の記憶を浚っても、一度たりともないのだ。

「あぁ……そう。そこに・・・惚れたの」

「そうですが何か!?」

「いや……うん。強い人はそうであってほしい。そりゃカッコ良いわー」

「そうですよ! 無駄に顔が良いから変な誤解されやすいですけど、優しいんですよ!」

 別段、カナエの知っている彼が、彼の全てではないだろう。
 普段職場でどんな顔をしているかなど、カナエは全然知らない。

 だが中身は、この世の終わり――のような悲愴な顔をしていたので、慰め体勢で何があったかよしよししながら問いただしたら……「なんで切った林檎は茶色くなるのか」と悲しげに呟いてうさぎ林檎をシャリシャリ食べるような男だ。人の胸に頭を預けて。

 ――慣れてるカナエをして「絵になる美形めんどくせぇ! 酸化酵素ォ!」と叫ばせた実績を持つあの面の皮。

 王宮で「おなかすいた」とムスッとして誤解されてないだろうか。心配。
 あぁ心配。

 だが――王都のあいつやこいつは、知らずに肝を冷やせばいい。ざーまーあー。

 一頻り悶えて顔を上げると、ヒルデがなまぬるーい笑みを浮かべていた。

「なんですかその笑顔」

「いやね。うん。竜殺しはそれ、知ってんの? 惚れた理由トコ

「……改めて言葉にしたことなんて、ないですよお互い」

 そんな隙間もないほどに――いつも一緒にいた。幼なじみなのだ。

「や、うん。嫁が自分のどこに惚れたか理解してたらさー……英雄、身動きとれなくね? とね、思ってねー……」

 いくらなんでもそんなことはないかと、ヒルデは薄ら笑いを引っ込める。

「ただそれまで弟扱いしてたのに、なんだか急に恥ずかしくなって一緒に水浴びできなくなった十五の春」

「――露骨っ!!」

 十五せいじんまで一緒に水浴びしていたというのも非常識だが、嫌がらなかった英雄もなんなのか。思春期とは。

 王命だ。拒否出来ない。
 逃げたら反逆罪。嫁にまで類が及ぶ可能性が高い。ただし嫁は逃亡済み。
 圧倒的な個人の武力を背景にした強引な手段をとれば、誇りと嫁が愛した己を失う。

 人の姿をした竜、歩く災害という認識だった見も知らぬ英雄が、二進にっち三進さっちも行かず「嫁の愛が重い……」と項垂れている姿を幻視した。

 哀れだ。
 ただただ哀れだ。

「……貴族の娘と婚約したって噂も、王が殺されたって話も届かないんだから、竜殺しめっちゃ硬直してるじゃないのよー」

 気の毒だった。

「そう……なのかなぁ? とりあえず不気味なほど何の噂も聞こえませんでしたね。七日も経ってるのに」

 しかも、竜殺しを石化させただろう女は、自覚乏しく寂しげに笑っている。

「あぁ……そうか」

 人型の竜を、その力と魔法を手に入れたくば、押さえるべき点は地位や名誉、金や美女でなく、この女・・・か。
 外付けの心臓か。

 英雄の反応次第でそれが発覚するだろうが、当の嫁はとっくにドロン。

「だから、逃げたのー?」

「はい?」

「いかなる勢力にも、人質になるわけにはいかなかった?」

「なるほどそこまで考えてませんでした」

 速攻で否定された。
 即答だった。
 あらかじめ答えが用意されていないと、こうはいかない。

「……ただ、一人なら――アスファルは自由に、なんだって、その手に選びとれる。空も飛べるんです」

 さんざん迷惑かけたがそこはお互い様で、カナエは自身をアスファルの足枷だなんて卑下したことはない。
 ないけど。

 彼が一人なら、空だって飛べることを知っていた。

「比喩でなく」

「飛ぶのか英雄……!」

 魔法使いの操る魔法は個人差が大きく、手法も効果も規模も千差万別。
 人類の夢、飛行魔法など聞いたことはないけれど――……。

「魔法でなく」

「…………」


 そいつは、ほんとに、人間か。


 その当然の疑問を、ヒルデは賢明にも飲み込んだ。
 この酒の席だけでもわかったことがある。

 そんなことを口にした暁には、この女、息子を庇う母親のような理不尽かつ面倒くさい擁護をするに決まってた。

「まだ七日。もう七日……たった七日かぁ。もう会いたいなー」

 白い布が巻かれた両足をぷらぷら揺らしながら、自分で逃げたのにねと笑う。

 どうすれば正解だったのか、今もわからない。
 きっと、明日もわからない。

 全知全能の神様だとか、人生の達人で一度も間違えたことのない人がいるのなら、伏して乞う。
 誰もが納得する唯一絶対の正解があるのなら、教えてほしい。
 カナエには、わからなかった。

 どうしたら、この先も一緒にいられたのか。

 教えてくれたなら、一から十まで我を捨て言うとおりにするのに。

 誰も教えてくれないし、そもそも唯一絶対の答えそんなものが端から存在しないのなら、人の数だけ答えがあるなら――結局自分で考えるしかない。

 だから、とっさに飲み込んでおなかに隠した、ちっぽけなプライドが捨てられない。
 どうしても、捨てられない。

 それ・・は――わたしのすきなひとは、ほんとうに強くてカッコ良い人なのよ――と、あの時から腹の中でずっと叫び続けている。




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