足跡
ブローアム公爵ヴィオルは先王の年の離れた弟で、つまり現国王の叔父である。
王都の代官をつとめる彼は、齢四十五。精力的に働く姿は年よりも若く目に映り、引き締まった体躯もあって非常に魅力的だった。とうに妻子を持つ身で、目尻に皺が出来始めたが、社交界で頬を染める淑女は今も尚、絶えない。
その彼が、王宮を闊歩している。
ブローアム公爵は領地は持たぬが、花の王都の事実上の支配者。
職務は市庁舎で行い、王都の一等地に屋敷を持ち、家族はそこに暮らしている。
にも関わらず、宮廷に部屋を与えられている。
国王の親族であり、第一の廷臣である彼の権勢は、広大な領地を有する大貴族に勝るとも劣らない。
現に、彼が恭しく通されたのは、国王の執務室に一番近い赤鷲の間であった。
入室前に、自らの侍従に一言二言指示を出し、国王を待つ。
赤い鷲のつづれ織りが壁を飾る部屋は、落ち着いた楢の木の木工細工で統一され、外交用の間と違い華美さはない。
しかしその彫刻は細緻なもので、要所に施された金箔の装飾が、室内に貫禄を与えている。
待つことしばし。
「待たせたか」
やってきた国王は不機嫌な顔をしていた。
それでも挨拶は決まっている。
「これは陛下。本日もご機嫌麗しゅうございます」
「相変わらず、嫌味だな其方は」
叔父ではあるが、年の差は十もない。兄のようにと呼ぶには些か遠く、そして油断ならない。
自らのお膝元である王都を任せる程に信用し、そして手元で監視する必要のある人物だ。
力を持たせすぎるのも心配で、しかし遊ばせておくには惜しい。
一言で言うなら、面倒くさい相手だ。
お互い、そう思っている心温まる間柄である。
「陛下が真にご機嫌であるときなどそうはありませんでしょう。それを隠さないのは私くらいでしょうからな。つい揶揄いたくなるのですよ」
「……どいつもこいつも」
本日は、真に不機嫌であらせられる。
しかし、それに怯む公爵ではない。人を食ったような顔をして、笑うのみだ。
部屋付きの侍女が茶と菓子を用意し、無言で一礼して下がる。
王はそれに目もくれないが、ヴィオルは喉が渇いていたので遠慮なく口を付ける。
面会者ごとに茶を飲んでいると水っ腹になるし、国王の口に入る物は非常に気を使われねばならぬので、この茶も菓子も触れられることはない。
形だけの物だ。
「それで?」
「そうですね。大きな混乱が起こる前に竜を退治できましたから、王都はすでに平常を取り戻し――いえ、かなり賑わっておりますね。竜の素材を目当てに人が集まっております故」
王都を統べるのはブローアム公爵だが、彼を代官に任命したのは当然国王である。
文書による報告はもとより、定期的に顔を合わせ話を聞く。
そのように、決まった予定を設けなければ会う暇もないほど多忙な二人だった。
「景気がよくてなによりだな」
「そうでもありませんね。目にかけていた人物が出奔しましてね。残念に思っているところでして」
やれやれと肩を竦める。
わかりにくいが、ブローアム公爵もまた不機嫌だった。
「ほぅ、其方に目をかけられておきながら、逃げられたのか! 小気味良いな!」
「まぁ、勝手に期待していただけですので、面識があるわけでも援助をしたわけでもない。仕方ありません」
公爵の失策ではないと暗に言っている。
「王都では年々、同業組合の秩序と利益から排除された賃金労働者が増大してましてね。技術も商品も資力もない彼らは一様に貧しく、彼らが増えるに比例して治安が悪くなっていましてねぇ。すぐに賃金を上げろと訴えて仕事を止めますし、扱いづらいことこの上ない。王都が先んじているだけで、この問題は他の自治都市でもいずれ表面化するでしょうな」
困ったものです。
公爵は一息に喋りこめかみを揉む。
「それをどうにかするのが、其方の役目であろう」
「仰るとおりで!」
一刀の元に愚痴を切り捨て、国王は鼻を鳴らす。
「だからこそ注目していた商業組合がございましねて。私はもちろん、都市役人や、有力な資本家が光明をみた思いで熱心に観察しておりました」
「何の組合だ、それは」
「主婦です」
「は――?」
国王が絶句した。
「主婦ですよ。親方から徒弟、商人から労働者を問わず、夫を持つ身の女性の組合です。標語は“主婦の主婦による主婦のための今晩のおかずを一品増やすための活動”。最初は何の冗談かと一笑に付したものですが、事務に長けた者がいたんでしょうなぁ。書類手続きは問題ないし、既存利益を害するものでもないと判断され、馬鹿にされながら審査を通りました」
当時大いに馬鹿にしたのは誰もが同じ。公爵とて例外でなく、ただ書類を作成した者は遊んでないで外で働けと苦虫を噛み潰したものだ。
「その設立は近所の井戸端会議ですよ。主婦たちが合間を縫って内職していた小さな透かし編みを売るために組織されました。月末に最低二本、もしくはそれに相当する現金を納めれば、実は男女問わず誰でも参加できます。それを活動資金に、まぁ最初は七日市で余ったりぼんを売るところから始まりました」
「暇な女共の暇つぶしではないか」
「それがそうでもない。彼女たちはともすれば夫たちより多忙ですよ。家事に子育て。休憩はありませんからなぁ」
公爵は茶菓子に手を伸ばし、ザクザクと音を立てて咀嚼した。
らしくなく、音を聞かせるように噛み砕く。
当然、王は眉をしかめた。
「なんだ、その音は」
「珍しいでしょう。ザクザクなんですよ。この手の菓子は、ねっとりとしていて歯に付くとばかり思っておりまして、妻子と違って私は嫌厭していたんですがね、これは何とも歯触りが楽しい。つい音を立てたくなってしまいまして、いや、お恥ずかしい」
言いながら少しも恥じいる様子もなく、茶で口を洗う。
「次は七日市で、りぼんとともにこれを売り出しました。コツか秘密があるらしく、火加減や小麦や水分の分量をどう調整しても、この歯触りにはならなくて、娘にねだられたうちの料理人は困っておりましたな」
主婦たちは、時間を捻出するために得意分野で協力しあった。
掃除の得意なもの、料理が上手いもの、子供をあやすもの、編み物が早い者、それぞれがやりくりして、家庭に影響を出さず、隠したわけでもないのに夫に気づかれず彼女たちは活動を続けた。
「出た利益は、月末に納めたりぼんの数に応じて分配。彼女たちは今晩のおかずを一品増やすための資金を得た」
そして公爵はほくそ笑む。
ここからだ。
ここからが何とも傑作で、笑ってしまう。
「そんななか、一人の主婦が鍛冶屋に鉄の浅鍋をもって相談に来る――焦げに強い金属はないかと」
「……はぁ?」
「なんでも、焦げを落とす作業が面倒くさいと。その金属で浅鍋を作れないかと相談しに来たんですな。まぁ鍛冶屋は爆笑の渦ですよ。だが女は大真面目で、大真面目に肩を落とすわけですよ“鍛冶屋さんでも、焦げに強い金属はわかりませんか……”と。わかってやっているのなら、男の矜持をうまく操る狡い女ですなぁ」
鍛冶屋は矜持を擽られ、あるいはひっかき傷を付けられて考え、答える。
金剛鉄だろうと。
「金剛鉄と答えたら、女はそれで浅鍋を作って欲しいとまぁ、阿呆なことを言うわけですよ。金物屋の仕事ですよ。鍛冶師に鍋を作れという。当然親方は激怒しましたが、金剛鉄は金物屋では扱っているのかと問う。当然扱っていない。それにしたって鍛冶師が鍋を作るわけもない。そもそも金剛鉄で鍋を作れば、とんでもない高額になる。女に払えるはずもない――そう、笑ったわけですね。当然ですが」
「その阿呆な女は金剛鉄をなんだと思っているんだ」
「焦げ付きに強い素敵金属、でしょうな。それ以上でもそれ以下でもない」
稀少鉱石も形無しだ。
「諦めきれなかったんでしょうなぁ、女は食い下がる。表面だけでいい。表面だけで十分なのだが、それも出来ないのか、と」
「鍍金か!」
「そう。当たり前の技術なのに物が浅鍋と金剛鉄ということで職人には思いも寄らない要望でしてね。そこで女は有り金を出す。何とかこれで間に合うくらい、薄く、均一に、表面だけ覆えませんかと」
その願いは、幾人かの職人魂に火をつけた。
「そうして何故か本当に、金剛鉄の浅鍋が誕生してしまったんですよ。女は大いに喜んで、自慢したんでしょうなぁ。次の日に同じように鍋と金を抱えた女が鍛冶屋に来るわ来るわ。主婦にとって、鍋の焦げ付きを落とす時間というのは実に煩わしいものであったという証拠ですな。なんだか釈然としないながらも、鍛冶師は鍋を鍍金する――女たちは年甲斐もなくはしゃいで喜ぶ。悪い気はしない……――こうして主婦たちは、今晩のおかずを一品増やすための時間を得る」
部屋付きの侍女が入室し、公爵は口を閉ざす。
侍女は王の冷めた茶を交換し、公爵の杯を継ぎ足す。
甘い匂いがした。
「申しつかりました、“ほっとけーき”でございます」
「おぉ、これよこれ!」
公爵は芝居がかった仕草で喜びを表す。
国王の記憶では、公爵は甘い物嫌いだったはずなのだが。
「その浅鍋を使うと、こんなにきれいな焼き目が付くらしいですね。油は引かないのがコツだとか」
ふっくりふくらんだ丸い菓子の真ん中に、溶けかけた牛酪が乗っている。
それに蜂蜜をふんだんに掛け、公爵は嬉しそうに大きな口で頬張る。
「次の七日市ではこれも売り出されました。この菓子を焼くには金剛鉄の浅鍋が必要だが、どうもそれだけではない、どうにも膨らまない。うちの料理人は、先ほどの菓子と同じで、何か秘密があるはずだと今日も頭を抱えています。妻と娘の大好物でしてねぇ。彼は毎日のようにこれを焼いていますよ」
「焼けぬのではないのか?」
「焼けます。その次の七日市から、専用の粉が販売されました。卵一個と牛乳を既定量混ぜて焼くだけ。表面がふつふつと泡だったらひっくり返す。それだけです。なんとも簡単すぎて情けなく、彼は果物や粉糖、泡立てた乳などでの飾り付けに腐心し、もう妻と娘は大喜びです。ただ、そろそろ腹周りを気にし始めましたな」
楽しそうに微笑む公爵の家庭は円満のようだ。
王妃と愛人が火花を散らす国王は面白くない。
「……話が脱線している。それのどこが労働者の増大と治安悪化を解決するという」
「おや、おわかりにならぬと」
癪に障る物言いをすると、王は舌打ちをして考えた。
主婦と労働者。特別な技術も商品も資力も持たない存在だという共通項。
主婦は徒党を組んで商売を始め、利益を分配している。
「――……労働者が組合を作る」
「その通り! さすが我が陛下。我々は彼女たちの活動に、労働者たちによる自助という可能性を見た!」
公爵は良く出来ましたとばかりに手を叩く。
偉そうに!
「労働者の雇い主である資本家は馬鹿でも悪人でもない――いや、なかにはそういう者もおるのでしょうが、そのほとんどは、大学で学んだ頭の良い、見る目のある優秀な者たちです。己の資本が労働者によって成り立っていることを良くわかっている。時には損失も自己犠牲も厭わずに労働者に職を失わせんと尽力している。それでも彼らの要望は際限がない。すべてを飲んでは経営はあっと言う間に破綻する。与えるだけでは不可能なのです。労働者は無知で、無分別で、反抗的な者すらいる……」
彼らは悩みに種だった。
徒党を組めば反抗する。仕事を止める。
資本家は彼らの代表者を解雇せざるを得ない。
彼らの代表者は、労働者の中では頭も良く、そして人の良いものが多かった。だからこそ担ぎ上げられ、人が良い故に断れず矢面に立ち失職する。
資本家は目にかけた者を失う。
その繰り返しだった。
「潜在的に、労働者が仲間を集めるとろくなことになりませんので、警戒しかしませんでしたがね。もし彼らが、自らの力で自らを助けることが出来たなら――……」
夢を見た。
「竜の襲来で確信しました。主婦組合は、活動の利益を分配するにとどまらず、月末に最低二本、またはそれに準ずる現金を納め――彼女たちは、なんとそれによって貯金をしていたんですよ」
同業組合の親方とて、なにか事故や病気でその技術を失うと、瞬く間に貧民に落ちる。
そんな街で、家で働く生産性のないと思われていた女たちが、自らの手で、金を貯めていた。
公爵は感嘆する。
「あれで流通止まり、物価が高騰しました。まずは貧しい者から飢えてゆく。そして暴動が起こるだろうと我々は身構えていた――だが、主婦組合が、今まで納めたりぼんに応じた金額を彼女らに返還した――彼女らも、我々も。そのとき初めて、会費は活動費だけではなく、自動的な貯金でもあったと知ったのですよ」
そして、彼女らの金で、王都は持ちこたえた。
暴動が起こる前に、竜は退治される。
「これは、新たなる可能性だと思いましたね。興奮すらした。彼女たちは“ほっとけーき”の粉をもっと大々的に売るために、水車小屋の所有を視野に入れていた節がある。近隣の村に、土地を探しておりましたからな。どこまで行くのか! ――……だが、そこまででした」
公爵は、遣る瀬なく首を振った。
「代表……、いや、正確には会計でしたが、彼女を失った組織に、これ以上の伸長は望めないでしょう。彼女たちの活動を模範例として、労働者が組合を作るという可能性はその芽を摘まれた。これにより、この問題の解決は百年遅れ……いや、百年先取りする機会を逸したと、我々は肩を落としている……」
実際に肩を落とし、公爵は慨嘆した。
「……女一人。連れ戻せば良かろう。そもそも何故その女は出奔した」
「あぁ。婚約者を貴族の令嬢に奪われましてなぁ。為す術もなく泣きながら出て言ってしまったようです。あぁ、どこかで聞いた話ですなぁ」
国王は盛大に舌打ちした。
もともと彼は不機嫌だった。
それは救国の英雄に、与えた褒美のせいだ。
「あぁ。そういえば竜殺しの英雄に、金剛鉄の宝剣を授けたとか。喜び難いでしょうなぁ。もともと彼の獲物は弓と聞きます。対人では槍を用い、平民が故か、剣に対する憧憬はない。そもそも竜はその弓すら使わず短刀一本で打ち倒している。無用の長物を授けられ、さぞ扱いに困ったことでしょう。しかもかの英雄の内縁の妻こそが、我々の注目していた女性です。鍋も彼女だ。金剛鉄の宝剣も、彼の目には浅鍋の固まりに見えたことでしょう!」
ついに王は卓を叩いた。
「――……何が、言いたい?」
「……我々市政が不満を抱いている。それをこそこそするのは危険ですから、はっきり申し上げた――それだけですよ」
本当に、それだけだ。
王にどうせよという話ではない。
王は謝らない。
もし誤ったとしても、謝れない。
それが王だ。
「我が陛下。あなたは我々が戴くにふさわしい、強く、賢い王です。都市には積極的に自治を認め、ただし重要な拠点には代官を置く――そうして徐々に、貴族の領地から力を殺ぎつつ、緩やかに王の封臣として組み込んでいる」
低く、静かに公爵は語る。
「貴族子弟の捨て場にすぎなかった近衛軍の門戸を平民にまで開き、金食い虫と罵られながらも規模を拡大、質を向上させた。英雄を輩出し、罵っていた者は掌を返した。我らが王の先見の明は、いったいどこまで未来を見抜くのか――」
そのどこかを見るように、公爵は宙を睨む。
彼は――王と同じものが見える、数少ない人間だ。
「領主貴族の力を殺ぎつつ、あなたは常に動かせる軍隊を手中にしつつある――労働者の増大に伴い、都市の自治機能は麻痺する……あぁ、そうだ。市政役人の目端の利く者は、土地を持たせない貴族として取り立てるなんて良いと思いませんか? さすれば都市も手中に収められる」
王は何も言わない。
「我らの代では無理でしょう。数十年、あるいは百年後か……その時代の王は、国内のすべての権力を手に入れた、輝かんばかりの王なのでしょうなぁ」
その輝きに隠され、その礎を作り上げた王の名は、さして人々の記憶に残らないかもしれない。
「その輝ける王ですら、人の心だけは思い道理に操れない……」
公爵は、ここで初めて作り物ではない笑みを浮かべた。
落ち着いた年長者の、身内の顔である。
そして、低く穏やかに吐き捨てる。
「思い知っただろう――?」
それでも王の決定は、人の手では覆せない。