5
採光窓から差し込んだ光が石壁に描いた方形は、日が沈むにつれ角度をあげ、やがてその輪郭を失くした。
一室のみに動き回ることを許されたヘルシンだったが、寝台と食事卓の他には何もない部屋で、半刻もしない内に耐え難い絶望に襲われていた。
窓の下に立って耳を澄ませると、時おり風に乗って城内の喧騒が聞こえる。
数日はそうして外の様子を伺っていたものの、やがて途方もなく感じられ、寝台に身を横たえるのだった。
室内に投げかけられる光が赤みを帯びる冬の午後に、物音を立てて扉の下から食膳が差し入れられた。空腹に耐えていたヘルシンは、扉へ寄って、責めるように口を開く。
「今日は遅いじゃないか」
扉の向こうに返事はなく、立ち去ったものかと思ったが、しばしの間をおいて低い声が答えるのだった。
「これからは日に一食です」
聞いて重いため息がこぼれた。外がどのようになっているのか、彼には想像するしかできない。少なくとも良い進展はなさそうである。
食事の出される頃に軽い運動をとった他は、横になって日をやり過ごした。
やりきれない程の長い一日も、体が単調な繰り返しを覚えると、日はあっけなく過ぎていく。ダンブリにいた時には冬の始まりだったが、今この独房にいて、季節はもっとも厳しい寒さに差し掛かろうとしていた。
数日たった昼下がりだった。
獣毛の外套で身を覆って自らの体温にもぐり込んでいるヘルシンの耳に、人の声が遠く空にこだまするのが届いた。
うっすら目を開いて天井を眺める。しばらく息をひそめても、他に音は聞こえない。夢とうつつの間の幻聴かと思われた。
しかし、空に忍び寄った夜が、やがて室内を闇に浸す頃、ふたたび同じ声が響いてくる。
言葉の判別はつかなかったが、何かを叫んでいるようだ。かつてそうしたように、採光窓の下に寄ろうかと思ったが、空気は身を震わすほど冷たく、代わりに暗闇の中で耳を澄ませた。
喧騒は夜空にこだまして、彼の寝床へも響きとなって届いた。
やがて窓向こうの空が明るんだ。赤く照らされた夜天は、城内で火の手があがっていることを知らせている。
火事か、それともーー。
ヘルシンは起き上がると外套を着込んだ。
寝台を降りて、急いで採光窓の側の壁へと身をよせる。低い轟に時おり甲高い叫びが混じった。
とうとうキリエスを城内に招き入れてしまったのか。暗澹とした思いが彼に面を伏せさせた。
扉の向こうに急ぎ近づいてくる靴音を聞いたのは、そんな時だった。呼ばれもしない内から、ヘルシンは扉へと寄った。
「誰だ」
扉の前で止まる足音に呼びかける。
「私でございます」
間をおいて返事が返された。
聞き慣れた声であった。ヘルシンは大きく息をついていた。
扉越しに閂が外される音に、待ちきれない思いで耳を傾ける。開かれた扉の隙間から、廊下を照らす弱々しい蝋燭の火が流れ込んできた。
彼を迎えたカルボは、やつれながらも眼光は鋭くこちらを見据える上官に、一瞬怯んで後ずさった。
獣毛の外套を着直すと、ヘルシンは訪ねるのだった。
「何があった」
「内紛です」
息を整えながらカルボが言った。
ヘルシンは思わず部下を見返す。外の喧騒は低いうなりとなって、狭い廊下内に不気味に響いていた。
「どういうことだ」
眉間に皺を寄せて彼は尋ねた。
「この食糧不足で、兵士たちの間に、ダンブリからの者から先に城の外に出されると噂がありまして」
「馬鹿な」
「噂に過ぎませんが、しかし」
悠長に話している場合ではないと思ったか、カルボは廊下の向こうの闇を振り返った。
一瞬の躊躇いの後、言葉をつなぐ。
「キリエスから逃亡してきた捕虜の話では、コランタムに援軍の要請は届いていないと」
ヘルシンの表情はさらに厳しいものとなった。
「そやつらがなぜ分かる」
「コランタムへ向かわせた我々の使者を、キリエスが捕らえたからです」
「捕虜の話だろう、嘘かも知れん」
「ええですが、」
言葉をつまらせたカルボに、ヘルシンは皮肉っぽく鼻で笑っていた。
「わが軍を動揺させるのには充分だったな」
かぶりを振ると、陰鬱な気持ちのまま彼は口を開いた。
「外の様子は」
「皆、あなたが幽閉されていることをいぶかしんでいます。誰も公爵の説得に耳を傾けようとしません」
首肯きを返す。ラセルには、疑心暗鬼に陥った人心をなだめることはできなかっただろう。
初めからダンブリの兵士たちを邪険したあの態度では、互いに歩み寄ることはできない。敵軍を前に互いに非協力であるなど、致命的な振る舞いであった。
カルボの差し出した短剣に、ヘルシンは手を伸ばした。鐺に装飾の施された鞘は、戦場を共にしてきた愛剣のものだ。
踵を返したカルボを追って、廊下に進み出る。廊下の暗がりと混じる蝋燭の薄明かりが、彼を迎えた。
「先にラセルのもとへ行く!」
前を走るカルボの背中に、ヘルシンは声をかけた。
二人が円塔の外に出た時、炎に照らされて明るむ夜天が目の前に開けた。喧騒の轟は空にこだまして、ものの焦げる匂いが鼻をつく。
暴動の大きさに愕然としたが、しかし立ち止まっている暇はなかった。しんと冷えた空気を切って、回廊を領主の居城へと急いだ。
背後の騒然とした城下と対照的に、彼らの進む先は閑散としている。途中にすれ違う人影のないことに、ヘルシンにもある予感がわき起こっていた。
大広間の階段を駆け上がった二人が、ラセルの私室の扉を開け放った時、中にいた小柄な影は飛び上がって驚き、彼らを振り返った。
ヘルシンのとっさに抜いた剣の白刃を見て、マギネティスは尻餅をついて後ずさるのだった。
両手を広げてみせて無抵抗を示した文官見習いの青年に、ヘルシンとカルボは呆気にとられていた。
丸腰の青年の他は、領主の居城はもぬけの殻であった。
一歩足を踏み入れたヘルシンに、青年が慌てて口を開く。
「わ、私は何も存じません。この騒ぎでここへ来たら、すでに公爵様のお姿はなく……」
マギネティスの目がちらりと向けられた先に気付いて、ヘルシンは剣を鞘へと戻した。
肩越しのカルボと視線を交わらせる。
城外には敵軍、城内には反乱兵と、収拾のつきかねたラセルは、いち早くグメリンを捨てて逃亡したのか。
敵軍の包囲網をくぐって逃げ果せるだろうか。そう考えて、おそらく可能だろうと思った。キリエスは逃亡経路があることを見せて、グメリン兵の動揺を誘いたいはずである。
取るものも取り敢えず逃げたか、荷物が散らばったままの室内を見渡しながら、ヘルシンは苦い思いを抱いた。
無能なグメリン公の尻拭いは、いつも彼の仕事として降りかかってくるのだった。
兵士たちの些細な小競り合いから始まった暴動は、領主の逃亡の噂が広がると、とり鎮めようと呼びかける声に応じて次第におさまりを見せた。
一時は混乱の中にあった城下も、夜明けには虚ろな静けさを取り戻した。
時おり往来を足早に過ぎ去る人影が、明け方までの騒乱を思い出させる。疲れ果てた表情の通り路に、冷えた空気にのって靄が流れ込んだ。
領主の居城のある丘を下って聖堂前の小さな広場には、領主からの達しがあると聞いて、城下の人々が早朝から集まり始めていた。
急ぎこしらえた演台のそばで、マギネティスは落ち着きなく辺りを伺った。
やがて丘へ続く道の向こうから、数人の従者を伴って青毛の馬がゆっくり姿を現せる。
数日着っぱなしだった服を替えて幾分かこざっぱりしたヘルシンは、広場に差し掛かると馬の歩みを止めさせた。安堵した面持ちでマギネティスは、新しい指導者へと駆け寄るのだった。
「あれから文面を考えたのですが」
夜が明けるまで練り上げた文章を記した羊皮紙を掲げてみせる。
ヘルシンはちらりと視線をやっただけで、あごをしゃくって煉瓦台を示した。杭を打って仕切りとした向こうで、人々は領主からの声明を今かと待ちわびている。
目を丸くしたマギネティスは、言葉を返そうと口を開いた。
「私が読むようには作ってないのですが、」
みなまで聞かないうちに、ヘルシンの手がマギネティスの肩におかれて、回れ右を促す。背中を押されるようにして、演台へと放り出されたマギネティスは、閉口しながらも、重い足を民衆の前へ向けた。
積んだ煉瓦の上にあがって、青年は手もとに広げた羊皮紙へと目をおとした。
マギネティスが一言を発するまでの間、広場は水を打ったように静まりかえった。彼は小さく息を吸った。
「私、グメリン公爵領領主ラセル・ソデュームは、我が民、我が城下を守るすべての兵に誓う」
マギネティスは声を張ったが、甲高い声は心持ち細く、弱々しい響きであった。
「この土地に住む全ての人々に隔てを設けず、貴賎出身を問うて戦乱の犠牲を強いることをせず、衣食住の機会を等しく分け与える」
そこでようやく青年は顔をあげて広場をみやった。
昨夜が明けて、人々は疲れきった顔を一様に浮かべている。果たして彼の声明文が伝わったのか、不安を覚える眺めだった。
視線を再び手元に落とすと、マギネティスは最後の一文を頼りなく読み上げた。
「代理人……マギネティス・オリクト」
人々の間から、まばらに拍手があがった。
視線をあげた青年は、次第に広場に広がっていく拍手の音を聞いたのだった。
城内の回廊を行くマギネティスの足取りは慌ただしい。
公爵の代理を名乗った上に、実質の取り決めを担っているヘルシンへの取り次ぎ役を相変わらず任せられていた彼は、城内にひとたび姿を見せれば、誰かしらに声をかけられてしまうのだ。
場を逃れるように急ぎ足の青年にすれ違いざまにかかる声があった。
「オリクトどの」
聞こえなかった素振りで通り過ぎる彼に、踵を返して男が呼びかける。
「兵宿舎の設備の件でお話がしたいのですが」
「その話は伺っております」
追いながら話してくる男へ、マギネティスは歩みをとめないままに返事を返した。
「今度の議会の場で取りあげておきます」
努めて丁寧ながら、男を振り払うように彼は答えるのだった。
そのやりとりが終わらない内に、向かいからやってきた男が、彼を見て思い出したように口を開く。
「オリクトどの」
内心でため息をつきながら、男の顔を見た。
「議会長がお探しでしたぞ」
「今、伺います」
「オリクトさま」
別の声が掛かって、マギネティスは息を吸い込んでいた。たまりかねてぞんざいに振り返った彼の目に、一人の守備兵が映る。
忌々しげなマギネティスをまっすぐに見て口を開いた。その表情には切迫したものがあった。
「キリエスより、使いの者がおいでです」




