「放送禁止の時間」
蓮は水の檻の中で、目を閉じていた。
肺の中の空気は、もう空っぽだった。
自発的に、全て吐き出した。
水中での圧迫に対して、肺に空気を残すことは浮力という優位をもたらす。だが、蓮が欲しいのは浮上ではなかった。マリーンの気を逸らすことだった。
配信ドローンを通じて、視聴者全員が見ている映像。その中で——蓮が自ら肺の空気を放棄するのは、自殺行為にしか見えない。マリーンもそう認識するはずだった。
そして、人は、目の前の人間が諦めた瞬間、一瞬だけ油断する。
蓮が賭けたのは、その一瞬だった。
彼は水の檻の中で、残った視力で、タンクの陰のミオを見た。
少女の指先が、リズムを刻んでいる。
——タイミングを取っている。
先ほど「指先が動いていた」のは、蓮の周囲の状況を、マナ・ネットワーク越しに計測し続けていたからだった。呼吸を止めた人間の生存限界時間。水圧の変化の周期。マリーンの集中力の波。
すべてを計算して、最適な瞬間を、ミオは待っていた。
そして、蓮が肺の空気を吐き出した瞬間——。
ミオの指先が、止まった。
計算完了、発動。
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マリーンが、呼吸を止めた。
彼女自身が、何が起きたか分からなかった。
いきなり空気が肺から抜けて、喉の筋肉が勝手に弛緩した。数秒後には意識を失うほどの、強制的な呼吸遮断。
『な——』
声が出ない。
マリーンの足元の水が、制御を失って崩れた。彼女の足場となっていた水の足場が形を失い、彼女自身が宙に投げ出される。
同時に、蓮を閉じ込めていた水の檻も、支配者の集中力を失って、維持できなくなった。檻の水圧が急激に低下する。蓮を覆っていた水が、重力に従って、一気に床へ崩れ落ちた。
蓮は水と共に地面に転がった。
咳き込みながら、空気を吸い込む。三秒ほど呼吸を整えてから、彼は素早く立ち上がった。
目の前には、空中から落ちてくるマリーン。
地面に叩きつけられる寸前、彼女の身体が自分自身の水に受け止められ、派手な水柱となって着地した。意識は、まだ戻っていない。呼吸遮断は、五秒ほど続いている計算だった。
残り時間、三秒以内。
蓮はマリーンの着地点から約二十メートルの距離を、一気に駆け抜けた。目指すは、液体窒素タンクの放出バルブ。
走りながら、蓮は左手でミオにサインを送った。親指を立てる。呼吸を止めた状態の維持、継続を意味する合図だった。
ミオが頷いた。
まだ、彼女は手を止めない。
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液体窒素バルブまで、到達。
蓮はレバーを掴み、全開放の位置に押し下げた。
瞬間——エリア全体に、白い霧が噴き出した。
超低温の液体窒素が、気化しながら床に広がっていく。マイナス一九六度の冷気。接触した水は〇・一秒以内に凍結し、空気中の水分までもが瞬時に氷の粒子となって降り注ぐ。
半径三十メートル以内が、一瞬で冬の世界に変わった。
立ち上がりかけていた残りの取り巻き三人も、接近していた配信ドローンも、全て同時に凍結した。彼らが纏っていた水属性の能力装備や、電子装備の回路が、低温で一斉に停止する。
そして——マリーン。
意識を取り戻しかけていた彼女は、自分の周囲の水が全て凍結したことに、気づいた瞬間、目を見開いた。
『——え』
彼女の身体を受け止めていた水柱が、足から頭まで、瞬時に氷の塊に変わった。彼女自身の身体の表面も、水着の水分までもが、強制的に凍って、彼女を氷の像として固定した。
配信ドローンが、その光景を映し出す。
氷漬けになったマリーン。目だけがかろうじて動き、自分の状況を把握できないまま、視聴者の前で晒された姿。
視聴者コメントの流速が、完全に止まった。
次の瞬間、悲鳴のようなコメントが一斉に流れ始めた。『マリーン?!』『助けて!』『誰か通報!』『これ、どう見ても殺しに来てる!』
しかし。
蓮は、ミオに再び手でサインを出した。親指を横に振る。
呼吸遮断の、解除命令。
ミオが、手を降ろした。
マリーンが、氷の中で、咳き込んだ。
呼吸は戻った。だが、彼女の身体は氷に完全に固定されていて、動けない。腕も、足も、首から下の全てが、液体窒素で凍結した水の中に閉じ込められている。
生きていた。
しかし、戦闘は、終わっていた。
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蓮はマリーンの元へ、ゆっくりと歩み寄った。
氷の中の彼女は、涙目で蓮を見上げた。配信用の可愛らしい表情は、もうどこにもなかった。ただ、状況を理解できない困惑と、自分が敗北したという屈辱だけが、そこにあった。
蓮は彼女の前で、しゃがんだ。
「お前の負けだ」
短く告げた。
マリーンが、何か言おうとした。だが、彼女自身の震える声が、歯の噛み合わせが悪くて、言葉にならない。
蓮は続けた。
「理由は三つ。——一つ、自分の能力を過信して、環境を確認しなかった。この施設に、水を凍らせる設備が残っていることを、配信で何回も来ているくせに、一度も調べなかったな」
マリーンの目が、揺れた。
「二つ、配信に夢中で、俺が何かを仕込む時間を見過ごした。お前が俺を追い詰めているつもりで、俺はお前のホームで罠を完成させていた」
視聴者コメントが、徐々に静かになっていた。罪悪感を覚えたリスナーが、配信から離脱し始めている。
「三つ——」
蓮は、手を伸ばして、マリーンの顔のすぐ横にある配信ドローンの送信モジュールを、ナイフで、正確に切断した。ドローンが火花を散らして停止する。
蓮は、残った配信ドローンを素早く撃ち落としていった。一機、二機、三機。
そして、最後の一機が残った時——蓮はそのドローンのメインカメラに、視線を合わせた。
視聴者全員が、彼の顔を見ていた。
「俺は、映るのが、大嫌いなんだよ」
彼はナイフを最後のドローンに突き立てた。
配信が、途絶えた。
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静寂が戻った。
エリアに残ったのは、氷漬けのマリーンと、気絶した取り巻き数名、そして第四十層全体に蔓延した白い霧だけだった。
蓮は氷の中のマリーンを見下ろし、最後に一言、付け加えた。
「企業に連絡して、救助を呼べ。凍傷は早ければ治る」
マリーンの目が、驚愕に見開かれた。殺さないのか、という疑問。
「俺はテロリストじゃない。——お前を殺したいと思う理由も、ない」
彼は立ち上がり、ミオの方へ歩き出した。
少女は、タンクの陰から出てきて、彼に歩み寄った。まだ無表情だが、彼女の歩幅が、先ほどより少しだけ早い。
合流した二人は、液体窒素の霧を掻き分けながら、第四十層の出口へ向かった。
途中、蓮はミオに声をかけた。
「助かった。——お前がいなきゃ、俺は死んでた」
ミオは、歩きながら、数秒考えてから答えた。
『あなたの、策に乗りました。……私が、決めたわけではありません』
「決めたんだろ」
蓮は短く言った。
「お前は、俺の指先のサインを読んで、自分で動いた。命令じゃない。——判断だ」
ミオは、その言葉の意味を、何度か頭の中で繰り返したようだった。
しばらく沈黙した後、彼女は小さく答えた。
『……判断、という概念を、辞書に追加しました』
蓮は笑った。短く、喉だけで。
「いいね。——どんどん、覚えろ」
二人は、白い霧の中を歩いていった。
後ろでは、マリーンの配信を見ていた数百万の視聴者が、疑問と罪悪感と困惑に包まれたまま、『最重要指名手配テロリスト』の新しい一面を、一斉に目撃していた。
その中に、サキのジャンク屋の裏部屋で、モニターを静かに見つめる一人の男がいた。
男は呟いた。
「——工藤透の息子か。……面白いな」
男の名前は、まだ誰にも知られていなかった。
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第9話 完




