「父の書斎」
ヴェスパー邸は静まり返っていた。
企業の管理下に置かれてから人の出入りはほとんどなくなっていた。
「裏口はここ」
ルシアが壁の一部を押すと隠し扉が開いた。
「昔からある抜け道よ。企業も把握していないはず」
クロが辺りを警戒しながら続いた。
「警備は」
「表側だけ。裏の使用人通路までは手が回っていない」
二人は薄暗い廊下を進んだ。
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書斎の扉には埃が積もっていた。
ルシアは鍵を取り出し静かに開けた。
「父はここで多くの時間を過ごしていた」
彼女は懐かしそうに部屋を見渡した。
棚には古い書籍と資料箱が並んでいた。
「手分けして探そう」
クロが提案した。
「時間はあまりない」
二人は黙々と資料を漁り始めた。
棚の奥から古い写真立てが出てきた。
「これは」
クロが手に取った。
写真には若い頃のヴェスパー氏と見知らぬ男が写っていた。
「父の若い頃ね」
ルシアが覗き込んだ。
「隣にいる人は誰だろう」
写真の裏には日付と場所だけが記されていた。
「名前は書いてない」
クロが写真を裏返した。
「三十年近く前の日付だ」
「かなり古い付き合いということね」
ルシアはその写真を鞄に入れた。
「これも持ち帰りましょう」
クロは棚のさらに奥を照らした。
「他にも何か資料があるな」
彼が引き出した箱には手紙の束が入っていた。
「差出人の名前がない」
クロは一通を開いて確認した。
「内容も暗号めいている」
ルシアが覗き込んだ。
「これも一緒に持ち帰りましょう。後でゆっくり調べれば何かわかるかもしれない」
「わかった」
クロは手紙の束を鞄に詰めた。
「思ったより収穫が多いな」
「まだ時間はある」
ルシアは棚の奥を見渡した。
「もう少し探してみましょう」
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しばらくしてルシアが手を止めた。
「これ」
彼女は一冊の日誌を取り出した。
表紙には鍵のかかった留め具があった。
「父の私的な日誌よ」
ルシアは震える指で鍵を外した。
ページをめくると見覚えのない専門用語が並んでいた。
「評議会、という文字がある」
クロが覗き込んだ。
「なんて書いてある」
ルシアは声を落として読み上げた。
「『評議会は我々の想像を超えた存在だ。彼らの目的は人類の管理ではなく均衡の維持にある』」
「均衡の維持」
クロが繰り返した。
「どういう意味だ」
「わからない」
ルシアは首を振った。
「でも続きがある」
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彼女はさらにページをめくった。
「『工藤という男と接触した。彼の研究は評議会の関心を引くだろう』」
蓮の父の名字だった。
「工藤って」
クロが息を呑んだ。
「蓮の父親のことか」
「間違いない」
ルシアは頷いた。
「父と蓮のお父さんは知り合いだった」
彼女はさらに読み進めた。
「『工藤は危険な道を選ぼうとしている。評議会に知られれば無事では済まない』」
日誌はそこで途切れていた。
続きのページは破り取られていた。
ルシアは焦げたような跡を指でなぞった。
「破られたんじゃなくて燃やされてる」
クロが眉をひそめた。
「誰かが意図的に処分したということか」
「父自身かもしれない」
ルシアは静かに言った。
「危険すぎる内容だったのかも」
彼女はさらに他のページを確認したが手がかりはそこで尽きていた。
「破られてる」
クロが眉を寄せた。
「誰かが処分したのか」
「わからない」
ルシアの表情が曇った。
「でも、この日誌だけでも十分な手がかりよ」
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彼女は日誌を鞄にしまいながら言った。
「父は評議会と接触していた。蓮のお父さんもそうだった」
「二人とも評議会に関わっていたということか」
クロが腕を組んだ。
「厄介な話になってきたな」
彼はしばらく考え込んだ後言葉を続けた。
「もしかしたら蓮の父親も、評議会に何かを警戒されていたのかもしれない」
「危険な道を選ぼうとしていた、という一文が気になるわね」
ルシアは日誌のページを見つめた。
「工藤さんは、何をしようとしていたのかしら」
「それも含めて、蓮に確認するしかない」
クロは言った。
「持ち帰って蓮に見せましょう」
ルシアは立ち上がった。
そのとき廊下から足音が聞こえた。
「誰か来る」
クロが素早く灯りを消した。
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二人は物陰に身を潜めた。
足音は警備員のものだった。
巡回のルートを外れて書斎に近づいてくる。
「気づかれたか」
クロが小声で聞いた。
「わからない。でも今は動けない」
ルシアは息を潜めた。
足音が扉の前で止まった。
長い沈黙が続いた。
やがて足音は遠ざかっていった。
「助かった」
クロが小さく息を吐いた。
「定期巡回だったみたいだな」
ルシアは胸に手を当て呼吸を整えた。
「久しぶりに緊張したわ」
「昔はこういうこと、よくやっていたんじゃないのか」
クロが小さく笑った。
「兄から逃げ回るのとはわけが違うもの」
ルシアも小さく笑い返した。
「油断はできない」
ルシアは日誌を強く抱きしめた。
「急いで戻りましょう」
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二人は隠し扉から邸を後にした。
夜の街を戻る道すがらルシアは静かに呟いた。
「父が何を知っていたのか、もっと知りたい」
「焦るな」
クロが言った。
「日誌はまだ全部読んでいない。戻ってからじっくり調べればいい」
ルシアは頷いたが表情は晴れなかった。
「兄がなぜあんなふうになったのか。答えの一部がここにある気がする」
「答えが見つかっても、楽になるとは限らないぞ」
クロは静かに言った。
「それでも知りたい」
ルシアは前を見据えたまま歩き続けた。
「子供の頃、兄はいつも父の書斎に入り浸っていた」
彼女はぽつりと語り始めた。
「私は難しい話にはついていけなくて、いつも部屋の外で待っていた」
「今になって、それを悔やんでいるのか」
クロが静かに聞いた。
「悔やんでいるというより」
ルシアは少し考えてから答えた。
「知らなかった時間の分だけ、兄との距離があるように感じる」
「距離を埋められるかもしれないのが、その日誌だな」
「そうだといいけど」
彼女は鞄を強く抱えた。
クロが空を見上げながら言った。
「星が見えないな、この街は」
「昔からそうよ」
ルシアは静かに答えた。
「マナの濃度が高すぎて、大気の状態も不安定なの」
「不便な世界だ」
クロは呟いた。
「それでも、守る価値はある」
ルシアは小さく頷いた。
「そうね」
隠れ家までの道のりが今はやけに長く感じられた。
夜風が二人の間を静かに通り抜けていった。
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第82話 完




