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「ルシア・ヴェスパー」

暫定合意から十日が過ぎた朝、ライアンが険しい表情で隠れ家に駆け込んできた。


「カインが浮遊居住区に籠城している」


彼は端末を掲げた。


「国際仲裁機関の職員の立ち入りを一切拒否している。企業の代表権は剥奪されたはずなのに、居住区そのものを私物化する構えだ」


「予想通りの動きだな」


蓮は低く言った。


「奴が大人しく引き下がるとは思っていなかった」


エマが端末で最新の報道を確認した。


「装置についての情報も途絶えています。稼働状況が全く掴めません」


---


「厄介なことになったな」


クロが腕を組んだ。


「居住区ごと立てこもられたら、手が出しにくい」


ジェイクが地図を広げた。


「浮遊居住区は独自の防衛システムを持っている。強行突入は現実的じゃない」


「話し合いの余地は」


灯が尋ねた。


「今のところ皆無だ」


ローレンが答えた。


「カインは完全に孤立を選んだということだろう」


蓮はしばらく黙考した。


「奴が孤立を選んだということは、次に何かを仕掛けてくるということだ」


タクマが端末を操作しながら口を開いた。


「居住区内部の状況について、少し情報を集めてみます。古い伝手が使えるかもしれません」


「頼む」


蓮は答えた。


灯が窓の外遠く霞む浮遊居住区を見つめた。


「あそこに、まだカインさんがいるんですね」


「ああ」


蓮は頷いた。


「奴の考えていることが読めない。それが一番厄介だ」


エマが険しい表情で言った。


「情報が途絶えているということ自体、何かの兆候かもしれません」


「不気味な静けさだな」


ローレンが低く呟いた。


---


その時、隠れ家の扉が静かに叩かれた。


タクマが警戒しながら扉に近づいた。


「誰ですか」


「話がある」


若い女の声が返ってきた。


タクマが扉を開けると、そこには黒いコートを纏った女性が立っていた。年齢は二十歳前後、鋭い目つきをしていたが、どこかカインの面影を宿していた。


蓮はその顔に息を呑んだ。


「お前は……」


「初めまして、というべきかしら」


女性は静かに言った。


「私はルシア・ヴェスパー。カイン・ヴェスパーの異母妹よ」


---


「なぜここに」


蓮は警戒を解かずに尋ねた。


「兄を止めに来たの」


ルシアは静かに答えた。


「あなたたちと同じ目的よ。信じてもらえるとは思っていないけれど」


クロが前に出た。


「随分と都合のいい話だな」


「疑うのは当然ね」


ルシアは動じなかった。


「でも私には、兄の情報が誰よりもある。装置の本当の構造、居住区の防衛システムの弱点。全部知っている」


蓮はしばらく彼女を見つめた。


「なぜ、今になって現れた」


「機は熟すのを待っていたの」


ルシアは答えた。


「兄が孤立するまで、私が動けば余計な混乱を招くだけだった」


---


「証拠はあるのか」


ジェイクが冷静に尋ねた。


「私の言葉が証拠よ」


ルシアは短く答えた。


「今すぐ信じてほしいとは言わない。でも時間はない。兄は近いうちに、必ず何かを仕掛けてくる」


灯がミオと目を合わせた。


『彼女の言葉に、嘘の気配はありません』


ミオが小さく言った。


「感覚だけで判断するのは危険だ」


蓮は言った。


「だが話は聞く価値がありそうだ」


ルシアは僅かに口の端を上げた。


「賢明な判断ね」


---


「一つだけ聞かせてくれ」


蓮は続けた。


「お前は、なぜ兄を止めたいと思っている」


ルシアの表情が僅かに翳った。


「兄は父の遺志を歪めた形で継いでいる。本当の意味での強さとは何か、あの人はわかっていない」


彼女は静かに、だが強い意志を込めて言った。


「これ以上、誰かを踏みにじらせるつもりはない」


ミオがルシアの前に進み出た。


『あなたも、辛い思いをしてきたんですね』


ルシアは一瞬驚いたように目を見開いた。


「知性体には、そこまでわかるものなの」


『言葉の端々から伝わってきます』


ミオは静かに答えた。


ルシアは小さく息を吐いた。


「変わった存在ね。噂には聞いていたけれど」


灯が二人のやり取りを見つめていた。


「ルシアさんも、これからは一緒に戦ってくれるんですか」


「そのつもりよ」


ルシアは頷いた。


「ただし、私は私のやり方でしか動けない。それだけは覚えておいて」


蓮はその言葉の奥に、何か深い因縁を感じ取った。


「わかった」


彼は静かに言った。


「話を聞かせてもらう」


ルシアは円卓に着き懐から小さな端末を取り出した。


「これが、居住区の内部図面よ」


彼女は画面を展開した。複雑な構造が浮かび上がった。


「装置は最上階の中枢に設置されている。守りは厳重だけど、一つだけ穴がある」


「穴とは」


蓮が身を乗り出した。


「換気システムの保守用通路。私は昔、そこを使って何度も出入りしていた」


ジェイクがその図面を食い入るように見つめた。


「これがあれば、正面突破せずに済むかもしれない」


「簡単ではないけどね」


ルシアは付け加えた。


「兄も馬鹿じゃない。今頃は警備を見直しているはずよ」


クロが図面を睨みながら言った。


「それでも、手がかりがあるのとないのとでは大違いだ」


蓮は頷いた。


「感謝する」


ルシアは僅かに目を伏せた。


「感謝されるようなことじゃない。これは、私自身のけじめでもあるから」


ローレンがルシアに一つの部屋を案内した。


「ここを使ってくれ。当面は、ここが拠点になる」


「助かるわ」


ルシアは静かに頷いた。


タクマが彼女に近づいた。


「俺も、かつて企業側の人間でした。何か困ったことがあれば言ってください」


ルシアは彼を見つめた。


「あなたも、裏切り者ということ」


「そう言われても仕方ありません」


タクマは正直に答えた。


「でも今は、こちら側の人間です」


ルシアは小さく笑った。


「似た者同士かもしれないわね」


蓮はその様子を見ながら静かに考えを巡らせていた。新しい戦力が加わったことは心強い。だが同時に、まだ拭いきれない疑念もあった。


彼はルシアに向き直った。


「一つだけ言っておく」


「なに」


「裏切れば容赦しない。それだけは覚えておいてくれ」


ルシアは真剣な表情で頷いた。


「望むところよ」


新たな仲間か、それとも新たな謎か。まだ判断はつかなかった。だが確かなことが一つあった。カインとの本当の対決が、すぐそこまで迫っているということだった。


---


第75話 完

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