「海王マリーン」
第四十層への降下は、公式ルートではなく、配管シャフトを使った。
企業の公共エレベーターは当然、蓮の指名手配に合わせて検問が厳重化している。代わりに選んだのは、サキが手配してくれた旧式の貨物用シャフト。ジャンク・ギルドが密かに管理している、非公式の垂直通路だった。
降下用の昇降機は、蓮が生まれる前の代物だった。軋みながらも、何とか第四十層の出入口まで二人を運んでくれる。
「……着いた」
蓮は昇降機のハッチを押し上げた。
外に出た瞬間、鉄と苛性溶液の匂いが鼻をついた。
第四十層、工業廃水処理エリア。
崩落前の東京、臨海工業地帯の地下排水系統が、ほぼそのまま地下深くへ押し込まれて保存された階層。高さ三十メートルの巨大な円筒形タンクが何十基も林立し、その間を、太さ五メートル近いメインパイプが血管のように絡み合っている。
頭上の空間は、四方八方から垂れ下がるバルブと計器で複雑に区画されていた。床には十センチほどの水が常に張っていて、足を踏み入れるたびに、青白くアテロイドの輝きを反射させる。
蓮は計測器を見た。
マナ濃度:標準の一・九倍。
水分の多い環境では、マナが水に溶けて均質化しやすい。水使いには、絶好の環境だった。
「……最悪だな」
ミオが蓮の横に立ち、あたりを見回した。
『この地形データは、私の内部記録にあります』
「あるのか」
『はい。旧東京都下水道局・臨海第三処理場。地上部分は二〇二〇年の崩落で完全に消失しましたが、地下の処理機構は九十パーセント以上が残存しています』
「残存、か」
蓮は周囲を見渡した。
残存している、というのは生ぬるい表現だった。地下に押し込まれて二十年、ここの処理機構は——半分、生き続けていた。
一部のポンプはまだ自動稼働しており、どこからかどこかへ、汚染水を送り出し続けている。崩落で分断された地上の都市から、一体どこへ流れていくのか、誰にも分からない。ただシステムだけが生きて、無意味な循環を二十年間、続けている。
蓮にとって、この光景はどこか皮肉に映った。
——この地下世界そのものが、似たような状態だ。
---
蓮とミオは、タンクの陰に身を寄せた。
ここに来たのは、偶然ではなかった。
サキから渡された装備パックには、マリーンの過去配信データの解析結果が入っていた。彼女の配信記録を遡ると、水分の多い階層——特にこの第四十層の工業廃水処理エリアで、配信回数が突出している。ゴールドランクに昇格した勝負回の八割以上が、ここで撮影されていた。
水使いにとっては、ホームグラウンド。
つまり、彼女は蓮を追う必要がない。
蓮の方から第四十層に入った瞬間、位置情報は必ずマリーン側に流れる——協力関係にある企業の監視網を通じて。あとは、彼女が舞台装置の整った自分のホームで、獲物を待つだけ。
——ならば、先に入って、先に仕掛ける。
それが、蓮の選択だった。
逃げ回れば、どこで襲われるか分からない。しかし相手のホームに、相手より早く入れば、舞台装置の使い方を、こちら側が先に決められる。ホームアドバンテージの、逆転利用。
計画は単純だった。マリーンがどこから来るかは分からないが、必ず配信ドローンを先行させる。その光を頼りに、接近前に場所を特定し、逆に仕掛ける。
蓮は手早く、腰のジャマーを一基、近くのメインパイプに貼り付けた。これは囮。マナ撹乱の発信源を、自分とは違う場所に設置しておけば、相手は一時的にそちらを脅威と誤認する。
もう一基は、自分の近くに温存。
最後の一基は、——ヴォルグ戦で使用済みで、回収できていない。
残り二基。
「ミオ、状況を聞いてほしい」
蓮は声を落とした。
『応答します』
「名前を呼んだら命令待ちになる仕様は、切れないんだろ? ——なら、名前を呼ばずに話す方法を教えてくれ。何て呼べば、あんたは普通の会話として応答する?」
ミオは数秒、考えた。
『……指定外呼称であれば、応答義務は発生しません。例えば「お前」「あなた」「そこの君」などです』
「そうか」
蓮は短く頷いた。
「じゃあ、お前。——今のこの環境、お前の権限で観測できる範囲を教えてくれ」
少女の顔が、ほんの僅かに動いた。
応答義務がない状態での会話。命令でも報告でもない、普通の問いかけに、彼女がどう答えるべきか、検索している表情だった。
しばらくして、彼女は答えた。
『私に観測できるのは、半径三百メートル以内のマナ分布と、生体反応のおおよその位置です。細かな心拍や装備構成までは判別できません』
「十分だ」
『現在、半径二百メートル以内に、生体反応が七つ——いえ、八つ、検出されています』
蓮は眉を寄せた。
「八つ? マリーンが連れてきたのか」
『可能性が高いです。一つが中心、残り七つが包囲陣形を形成しています』
包囲陣形。
予想より多かった。マリーンは個人配信者だと聞いていたが、取り巻き(バックダンサー)を雇っているのか、あるいは企業が協力して別の配信者を派遣させたのか。
蓮はサーマルゴーグルを下ろし、周囲のタンク群を見渡した。
ふと、頭上の巨大なバルブの陰に、青白い光が灯ったのが見えた。
浮遊ドローン。
既に、見つかっていた。
---
『ハァーイ、ファンのみんなっ!』
廃水処理エリア全体に、拡声された女の声が響いた。
蓮とミオのいるタンクの上空、巨大なメインパイプの交差点——そこに、派手な赤い水着姿の女が立っていた。彼女の周囲を、二十機以上の浮遊ドローンが衛星のように旋回している。
海王マリーン。
ライトニングの時よりも、ドローンの数が多い。配信の規模が大きい。コメント欄の流速も、空中に投影されたホログラムで激しく流れていた。『きたー!』『マリーンちゃん今日もかわいい』『一発で仕留めて!』『スパチャ三万CR!』
マリーンがカメラに向かって、指先を咥えて微笑んだ。
『今日の獲物は、工藤蓮くん。企業発表のテロリスト候補。でもね、私はこういう狂犬タイプの男、嫌いじゃないの。——だから、優しく洗ってあげるから、出てきてね?』
彼女の足元の水面が、持ち上がった。
直径五メートルほどの水の球が、ゆっくりと彼女の横に浮遊する。マリーンはそれをくるくると手のひらで回しながら、歌うような口調で続けた。
『ちなみに、ファンのみんなに朗報! 今日は私だけじゃなく、公認サブダイバーのみんなも参加してくれてま〜す! 場所の特定と包囲は任せて、私が決め打ちするのが今日の構成ね!』
蓮はミオと目を合わせた。
ミオは、頷くように僅かに首を傾げた。
——取り巻き七人は、マリーンのスタッフではない。別の配信者たちだ。
マリーンが一人で戦って負けても、彼らが撮影を続ければ、マリーンの配信としてアーカイブされる。彼女は自分の配信の質を、他の配信者を使って向上させるビジネスモデルを構築していた。
ライトニングより狡猾。
だが、蓮にとって、この情報は使えるものだった。
——取り巻き七人は、マリーンほど戦闘に特化していない可能性が高い。
彼らを先に潰せば、マリーンは包囲の目を失う。
蓮は思考を切り替えた。
「お前」
『応答します』
「先ほど検出した七人の位置、リアルタイムで俺に流せるか」
ミオは数秒だけ沈黙した。
『可能です。ただし、私のマナ干渉を外部観測者が感知する可能性があります』
「マリーンには、バレるってことか」
『はい。——ですが、マリーンは現在、自分の配信と演出に集中しています。気づく確率は低いと推定します』
「やれ」
『了解しました』
ミオの薄紫の瞳が、一瞬だけ薄く光った。
蓮の視界の隅——左腕のホログラム表示に、七つの青い点が浮かび上がった。タンクの陰、頭上のパイプの上、メインポンプの脇。それぞれの配信者の位置が、一メートル単位の精度で、蓮に伝わってくる。
蓮は低く笑った。
——これは使える。
彼は背中のパイルバンカーのセーフティを外し、囮のジャマーを起動した。
---
囮のジャマーが、五十メートル離れた場所で青白く発光した。
マナ撹乱波が広がる。
マリーンの水球が、一瞬だけ、形を失って崩れた。
『——あら?』
マリーンが頭上から、ジャマーの光源を見下ろした。浮遊ドローンの数機が、そちらに偵察に向かう。マリーンの水球は素早く再構成されたが、彼女の注意が一瞬でも囮に向いたことで、包囲陣の連携に隙が生まれた。
蓮はその隙に、反対方向に走った。
左腕のホログラムに表示された、最も孤立した配信者——タンクの陰に身を潜めている、男一人。位置、タンク三基目の裏。武装、能力系統不明。
蓮はタンクの間を縫って走り、その男の背後に、音もなく回り込んだ。
男は、自分の配信ドローンと交信していた。
『ねえねえ、マリーン姉さんさ、あれが囮って気づいてないよね? 笑えるんだけ——』
蓮は男の首に、パイルバンカーではなく、小型スタン・ガンを押し当てた。
「寝てろ」
男は声を上げる前に、意識を失って崩れ落ちた。
ドローンが三機、混乱して空中で停止する。蓮は素早くそのドローンの送信モジュールにアテロイド弾頭を一発ずつ撃ち込み、通信を遮断した。
これで、配信者一人、脱落。
蓮は次のターゲットの位置を確認した。最短ルートで、タンク二基分の距離。移動時間、十秒。
走り出した、その瞬間——
視界が、水で覆われた。
蓮は咄嗟に膝を落とし、身体を縮めた。
彼の立っていた場所の真上、天井から巨大な水の刃が落ちてきて、床のコンクリートを卵の殻のように切り裂いた。水のエッジが、数ミリの所で蓮の肩をかすめた。特殊繊維のコートが、布の端から細く裂けた。
頭上から、マリーンの声が降ってきた。
『残念、もう気づいちゃった』
彼女は空中のメインパイプの上を、水を足場にして歩きながら、蓮を見下ろしていた。
『私ね、配信に集中してるように見えて、ちゃんと周囲は観測してるの。一人、通信が消えたでしょ? ——あれ、お前の仕業でしょ?』
マリーンの水着姿は変わらなかったが、瞳の色が変わっていた。
最初の挑発的な笑みは消え、代わりに獲物を追い詰める捕食者の目が、蓮を見ていた。
彼女の周囲に、十個以上の水の塊が次々と浮かび上がる。球、刃、針、槍——形を自在に変えながら、蓮を多方向から狙う位置に配置されていく。
『ごめんねぇ、レンくん。——私、配信のために、一度負けたフリしてから勝つつもりだったの。でも、お前みたいな賢しいネズミは、早めに始末したほうが数字が伸びるらしいのよね』
マリーンが右手を振り下ろした。
十個の水の武器が、同時に蓮に向かって降り注いだ。
---
第7話 完




