「天空への、ふたつの道」
地上組——蓮、エマ、ジェイクの三人はゴーストタウンを出て、北東への登り通路を進んでいた。
第八十五層から中層への登りは深層からの帰路の中で最も精神的に長い部分だった。空気は徐々に薄くなり、温度は変動し、地下深部の独特の匂いが少しずつ薄れていく。人間社会の領域に近づいている——その感覚が三人の中で共通の感覚として、共有されていた。
ジェイクは先頭を歩いていた。
彼の機械化された左腕はホログラムマップを表示し続けていた。二十年前の地形を基にしたマップだが深層住民の情報ネットワーク経由で最新の情報がリアルタイムで補正されていく。
「第七十層を抜けたら、中層下部の闇市場」
ジェイクは低く言った。
「そこで装備を更新する。蓮の電磁抗体スーツは修理が必要だろう」
「ナタリアに連絡は取れるか」
「ライアン経由で可能」
ジェイクは頷いた。
「俺たちの動きはジャンク・ギルドの上層部にも伝わるはずだ。支援を要請できる」
「カインの動きは」
「情報を集める必要がある」
ジェイクは率直に答えた。
「俺たちが地上に近づいていることが彼に知られると——潜入は極めて困難になる」
蓮は奥歯を噛んだ。
情報戦——これから始まる潜入は深層での戦闘とは完全に別の質を持つ戦いになる。正面突破ではなく、影に潜って動く。それは彼が一番、得意とする戦術ではあったがスケールがこれまでとは違う。
浮遊居住区——アッパー東京、ギガ・フロート社の本拠。
そこに潜入する。
その重みを彼は改めて受け止めた。
---
エマが彼の隣に並んだ。
「蓮さん」
「ああ」
「私の身分証を最大限活用するためには地上で私の同僚と接触する必要があります」
「国際機関の同僚、か」
「東京支局の、信頼できる人物が二人います」
エマは続けた。
「一人は私の直属の編集長。もう一人は機材担当の技術者。彼らに連絡が取れれば、浮遊居住区への正規取材ルートで潜入できます」
「正規ルート?」
「ええ。国際機関の記者として、藤原灯さん——あなたの妹へのインタビューを正式に申請します。ギガ・フロート社は国際的な悪評を恐れているため、断ることが難しい」
蓮はその戦略の妙を感心して聞いた。
「それは上手い」
「ただし——」
エマはわずかに目を伏せた。
「カインが何らかの形で介入してくる可能性は高い。警備体制も最大限になるでしょう」
「それは覚悟している」
蓮は短く頷いた。
「お前の同僚との連絡は」
「中層下部の闇市場——あそこに国際機関の情報ドロップポイントがあります。そこで暗号化された連絡を入れることができます」
蓮は頷いた。
エマの存在が潜入作戦の核心の鍵だった。彼女がいなければ、浮遊居住区への正規ルートは開かなかった。
「ありがとう、エマ」
「まだ感謝するのは早いです」
エマはわずかに微笑んだ。
「潜入はこれから始まります」
---
深層組——ミオ、クロ、ローレンの三人はゴーストタウンから南西へ進んでいた。
第八十五層から再び第九十八層、そしてコア層への、進入路。クロが先頭で道を確認し、ローレンが中央、ミオが最後尾を歩いていた。三人の歩みはゆっくりしかし確実だった。
深層に戻ることはミオにとって、二度目だった。最初の時とは感覚が確実に違っていた。自分の正体を理解した上でコアに向かう——それは意識的な選択として、彼女の中に確かにあった。
ローレンがふと低く言った。
「ミオ」
「はい」
「コアでの対話——お前はどんな話をするつもりだ」
ミオはしばらく考えてから答えた。
『……まだ決めていません』
「そうか」
「人間と知性体の和解の橋になる——という、私の役割をエールさんから聞きました。ですがその実行方法は私の中でまだ形になっていません」
「それでいい」
ローレンは頷いた。
「コアの前に立てば、自然にお前自身が判断できる。事前の計画は必要ない」
「そうでしょうか」
「地下知性体は何億年も独りで思考してきた存在」
ローレンは続けた。
「そんな相手と対話するのに人間の事前計画はほとんど意味を持たない。——お前自身の、感覚と判断。それが唯一の指針になる」
ミオはローレンの言葉を深く受け止めた。
事前計画ではなく、感覚と判断。
それはこれまでの彼女には最も難しい領域だった。彼女はデータを処理し、計算し、最適解を出す——そういう存在として、設計されていた。だがこれからは直感的な判断が求められる。
人間として、判断する。
それが彼女の、最後の課題だった。
---
クロがふと足を止めた。
「周囲、生物の気配がない」
彼女は低く言った。
「異常なほど、静か」
ミオが即座にマナ波形を確認した。
『確かに深層生物の反応が第九十八層方向でほぼゼロです』
「何が起きている」
「コアの覚醒の影響、と思われます」
『地下知性体の意識が強くなることで深層生物たちが近づくのを避けている——そう、解釈できます』
ローレンが頷いた。
「それは私たちにとっては好都合だ」
彼女は皮肉な笑みを浮かべた。
「深層生物の妨害なしにコアに進める。——コアそのものは決して好都合な相手ではないが」
三人は再び、歩き出した。
コアに向かう道は第三章でミオが歩いた、あの道。だが今度は彼女ひとりではない。仲間とともに戻る——それが第三章で得た、最大の収穫だった。
---
地上組、第七十層、闇市場の入口。
三人は再び、酸霧の湿原を抜けて、闇市場に到達した。第三章への扉だった、あの場所。今度は逆方向から辿り着いた。
市場の質感は変わっていなかった。雑多な店、人種の混合、目を合わさない住民たち。
ジェイクは慣れた足取りで市場の奥へと向かった。
「ガラスの店に行こう」
「ガラスの店?」
「酒場・霧の鴉」
ジェイクは頷いた。
「ガラスはライアンとの連絡経路を持っている。それと装備の修理も彼の店で相談できる」
蓮はその情報を確認した。
ガラス——深層出身のゴーストで機械化された右腕と義眼を持つ案内人。最初の闇市場での接触者。
三人は市場の通りを闇市場の常連のように自然に歩いた。蓮はフードを深く被り、エマもジャケットの襟を立てて、地上人らしくない雰囲気を作っていた。
酒場・霧の鴉の扉をジェイクがノックした。
扉が開いた。
内部から——ガラスが姿を現した。
彼は三人を見て、わずかに笑った。
「……戻ってきたか、工藤の息子」
ガラスは低く言った。
「ローレンから連絡が来ていた。お前たちがこっちに向かっていると」
「装備の修理と情報を頼みたい」
「入れ」
ガラスは扉を大きく開いた。
---
深層組、第九十八層、コア進入路の手前。
ミオ、クロ、ローレンは岩窟の入口に到達した。
第三章でミオが最初に立ち止まった場所。コアからの呼び声を初めて聞いた場所。
ミオはしばらく岩窟の入口を見つめていた。
『……戻ってきました』
彼女は低く呟いた。
『今度は独りではありません』
クロが彼女の肩に手を置いた。
「お前が決める番だ」
「はい」
『進みます』
三人は岩窟の中に足を踏み入れた。
通路の奥は淡く、青白く発光していた。コアが近い。ミオの体内に再び、強いマナの流れが流れ始めた。
彼女の薄紫の瞳がゆっくり強く光った。
第九十九層、そしてコア層——その最後の道のりが始まろうとしていた。
---
第39話 完




