「三つの軌跡」
シゲルの集落を出て、二日が経った。
蓮はホログラム端末のマップを確認しながら、北東への帰路を歩いていた。ゴーストタウン——ローレンの拠点まであと推定一日。ナタリアへの届け物はゴーストタウンの中継経由でライアンに伝達される予定だった。
深層の通路は徐々に慣れた質感になっていた。岩肌の苔の色、空気の湿度、遠くで響く水滴の音——蓮の感覚はもう深層を異質な世界として認識していなかった。自分の足で歩く場所として、徐々に馴染んできていた。
だが奇妙な感覚が彼の中で続いていた。
誰かに近づいている。
それが誰なのかは分からない。ミオの気配は依然として遠い——南西の方向に薄く感じられる。クロは——感知できない。エマも——感知できない。
だがもう一人、別の誰かの気配が徐々に強くなっていた。
蓮はその感覚をしばらく無視していた。気のせい、と判断していた。だが十二時間歩き続けた頃、その「気のせい」は確信に変わっていた。
この方向に誰かがいる。
そしてその誰かは自分を待っている。
彼はホログラム端末のマップをもう一度確認した。
マップによれば、北東への道沿いに廃棄された前哨基地が一つあった。観測拠点ZERO-2——父のノートにもわずかに言及があった場所。
そこに誰かがいる。
蓮はパイルバンカーのセーフティを外し、慎重に足を速めた。
---
第九十九層、ミオの軌跡。
彼女は岩肌の細い通路をゆっくり進んでいた。
マナの濃度はもはや、中層の百倍を超えていた。普通の人間なら、数分で意識を失うレベル。だがミオは逆に力が満ちていた。
彼女の薄紫の瞳は今、淡く発光し続けていた。
マナ・ネットワークが彼女の内部に直接流れ込んでいる。彼女がネットワークの一部になりつつあった。
コアが近い。
その感覚は鼓動のように彼女の中で響いていた。
通路を五百メートルほど進んだ頃、彼女は足を止めた。
目の前に広い空間が広がっていた。
第九十九層の、中心部。
広間の大きさは推定直径五百メートル。天井は見えないほど高い。中央には地面から巨大な水晶のような結晶が無数に立ち上がっていた。アテロイドの、純粋な結晶——その規模と純度は彼女の知る、どんな精製品をも凌駕していた。
そして——結晶の中心部で何かが鼓動していた。
コア——その入り口。
ミオの心臓が激しく跳ねた。
ここまで来た。
彼女はしばらくその光景を見つめていた。
振り返って、クロを助けに戻るべきだろうか——その問いが彼女の中で何度も浮かんだ。
約束——「コアに辿り着いたら、必ず一緒に戻れ」——を守るためにはまだコアに入ってはいけない。
だがコアの中の何かが彼女を呼んでいた。
「来い」
「お前はここに戻るべきだ」
「ここでお前はお前自身を見つけられる」
その声は言葉ではなかった。マナ・ネットワークそのものが彼女に直接語りかけていた。
ミオはしばらく迷った。
そして——深呼吸をした。
「……まず、クロを確認します」
彼女は自分自身に向かって、低く呟いた。
「約束は守ります」
彼女は振り返って、来た道を戻り始めた。
コアは待っている。
だが自分は独りではここに来ない。
それが彼女が初めて自分の意志で自分に対して下した、重要な決断だった。
---
第九十八層、クロの場面。
棘の生物との戦闘から四日が経過していた。
クロは岩肌の影に身を伏せていた。
体の右半身は血で固まっていた。棘の生物の前脚に削られたような重傷。骨折はないようだが深い裂傷が肩から腰まで走っていた。
彼女は自分の手当てを自分で行っていた。深層育ちの彼女は応急手当の知識は誰よりも豊富だった。苔の特殊種を傷口に当てて、出血を止め、消毒する。原始的だが効果的な処置。
生きている。
その事実を彼女は自分に確認した。
棘の生物は戦闘の最後で何かに引っ張られて、奥の通路へ消えた。クロを倒したわけではない。捕食対象が別の方向に現れた——その可能性が最も高かった。
ミオは無事だろうか。
その問いが彼女の中で何度も回っていた。
彼女がワイヤーで足止めしている間にミオは奥の通路に逃げた。コアの方向へ。本来の予定通りなら、二人で進むべきだったがクロは生き残りを優先した。
ミオがコアに辿り着いてくれれば——
自分の役割は果たせる。
そう、彼女は自分に言い聞かせていた。
その時——
通路の奥から足音が聞こえた。
クロは即座にワイヤーグローブの一基を構えた。右腕は使えない。左手だけで何ができるか。
足音が近づいてきた。
慎重な、しかし急いでいる足音。深層生物の足音ではない——人間の足音。
クロは息を止めた。
通路の角から人影が現れた。
銀白色の髪——
「クロ……!」
ミオの声だった。
クロはワイヤーを下ろし——深く長く息を吐いた。
「……戻ってきたか」
「約束を守りました」
ミオはクロに駆け寄り、彼女の傷の状態を確認した。
『……右半身、深い裂傷。出血は止まっています。骨折なし。回復可能なレベルです』
「ふん」
クロはわずかに微笑んだ。
「お前のおかげだ、ミオ」
ミオはしばらくクロを見つめてからゆっくり彼女を抱きしめた。
人間が人間を抱きしめる——その動作を彼女は初めて自分から行った。
クロはその腕の中で低く呟いた。
「……お前、いい子だな」
「クロも生きていて、嬉しいです」
二人の少女はしばらく無言で抱き合っていた。
---
ジェイクの場面、観測拠点ZERO-2。
ジェイクとエマはエマの体力が回復してから深層の北東——蓮の帰路の方向へ移動していた。エマの身分証とジェイクの深層人脈を組み合わせれば、安全な合流点はほぼ一つに絞られていた。
観測拠点ZERO-2——崩落直後に企業が設置し、放棄した観測施設。父のノートにもわずかに言及されている場所。蓮がZERO-3とZERO-4を経由した後、北東への帰路で必ず通過する地点だった。
ジェイクはZERO-2の扉の前で足を止めた。
「ここで待つ」
彼はエマに言った。
「蓮は必ずこの地点を通る。深層のネットワーク経由で彼に合流地点として伝わるよう、連絡を回した」
「彼がここに来てくれるか——確信は」
「ある」
ジェイクは頷いた。
「俺の名前を彼が知っていれば——彼は必ず来る」
エマはその言葉の意味を深く読み取った。
ジェイクはただの深層住民ではない。蓮の父・工藤透の同僚だった。蓮にとって、ジェイクの名前は重要な意味を持つはずだった。
二人はZERO-2の中で蓮を待った。
ジェイクはエマに温かい飲み物を淹れていた。深層産のお茶——苔と地下水脈の水で作られた、土の香りのする飲み物。
エマはお茶を啜りながら、低く言った。
「ジェイクさん」
「ん」
「蓮さんは——あなたの存在を知らない、可能性が高いですが」
「ああ」
「彼があなたを敵と判断したら、どうします」
「その時はその時だ」
ジェイクは肩をすくめた。
「俺は彼に戦いを挑まない。彼の判断を尊重する」
「——」
「俺は彼の父親に借りがある」
ジェイクは低く続けた。
「それを返すためにここにいる。彼が俺を——信用しなくても構わない」
エマはその覚悟の重みを深く感じた。
贖罪のための覚悟——それはこの旅の中で最も重い感情の一つだった。
---
その時——
ZERO-2の入り口の方向から足音が聞こえた。
ジェイクとエマは同時に振り返った。
扉がゆっくり押し開けられた。
外から——蓮が入ってきた。
彼はパイルバンカーを構えたまま、警戒した目で二人を見ていた。
まず、エマを見た。生きている——その安堵が彼の目にわずかに浮かんだ。
そしてジェイクを見た。
ジェイクの顔を蓮はじっと観察した。
数秒、彼の中で何かが計算された。
そして彼は低く言った。
「……あんた、親父の同僚か」
ジェイクはわずかに微笑んだ。
「——よく、分かったな」
「目で分かる」
蓮はパイルバンカーをゆっくり下ろした。
「親父と似た目をしている」
ジェイクは立ち上がった。
「お前を待っていた」
彼は両手を広げた。
「ジェイクだ——お前の父と二十年前まで同じ部署にいた研究員だ」
蓮はしばらく彼を見つめた。
そして短く頷いた。
「……分かった」
彼はZERO-2の中に入ってきた。
三人——蓮、エマ、ジェイクがようやく一つの場所に集った。
---
第32話 完




