「クロの覚悟」
翌朝——岩窟に「朝」と呼べる時間はないがミオの体内時計はおよそ十時間の睡眠の後をそう判定した。
目を開けるとクロが岩肌の前で簡素な食事を温めていた。深層住民が常備している、乾燥した苔と動物性タンパクの混合食。匂いは強かったが栄養価は高いらしい。
「食え」
クロが無言でミオに皿を渡した。
ミオは両手で皿を受け取り、観察した。これまで食べてきた中層の保存食とは質感がまるで違う——粘性のある、深い緑の塊。
「……食べたことの、ない食べ物です」
「深層の食料だ。中層から運ぶ食事はもう底をついた。これから先はこいつで凌ぐ」
ミオは慎重に一口、口に運んだ。
苦い——舌の上で苦味と土の風味が広がった。だが嚥下した後、胃の底に温かさが広がる。栄養がゆっくり体に染み込んでいくのが内部感覚として分かった。
「……不味い、ですが体が必要としています」
「そうだろ」
クロは皮肉な笑みを浮かべた。
「深層の住民は皆、これで生きてる。お前も今は深層の住民の一員だ」
ミオはその言葉を心の中で繰り返した。
深層の住民の一員——というカテゴリーに自分が含まれることになる。それは彼女にとって、新しいアイデンティティの提案だった。
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食事の後、二人は装備を整え、第九十九層への進入路に向かった。
ガラスのマップでは第九十九層はほとんど空白だった。人類がほぼ未踏の領域。コア層への最後の境界。
通路の入り口は自然に形成された亀裂だった。岩肌がY字型に裂けて、その先が深く下方に伸びている。亀裂の幅は人間が一人通れる程度。クロが先頭に立ち、ミオが続いた。
亀裂の内部は完全な暗闇だった。
クロが発光石を取り出した。青白い光が岩肌をわずかに照らす。視界は約五メートル先までしか見えない。
「ミオ。——マナの流れ、分かるか」
「はい」
ミオは目を閉じて、自分の感覚を外側に開いた。
マナ・ネットワークの流れが彼女の意識の中に地図のように展開した。第九十八層よりも遥かに濃く、強いマナの流れ。地下から噴き上がる、根源的な力。
「……第九十九層はマナの濃度が中層の五十倍以上です」
「人間に害は」
「長時間滞在で頭痛、眩暈、最悪は意識喪失。普通の人間なら、数時間が限界でしょう」
「お前は」
「私はマナそのものを処理できる存在です。——影響、ありません」
「じゃあ、俺一人だけが限界があるということだな」
クロは肩をすくめた。
「了解した。可能な限り、急ぐ」
二人は亀裂の中を慎重に進み始めた。
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二十分歩いた頃、クロがふと口を開いた。
「ミオ。ちょっと聞きたいことがある」
「何ですか」
「お前——親って、いた?」
ミオの足がわずかに止まった。
親。
その概念は彼女の辞書に登録されている。生物学的な親——遺伝子の提供者。社会的な親——養育者。精神的な親——アイデンティティの源。
だがミオにはそのどれも明確には存在しなかった。
「……いません、と思います」
彼女は率直に答えた。
「私は複数の人物の意識データから合成された存在です。基材の一人一人を『親』と呼ぶことは可能ですが——私を私として育てた人物はいません」
「寂しいか」
「寂しい——その感情をまだ完全には理解していません」
「……ふん」
クロはしばらく沈黙した。
そして低く続けた。
「俺の母は五歳の時に死んだ」
ミオは彼女を見た。
「クロ——」
「深層生物に襲われて、目の前でね」
クロは淡々と語った。
「母は元プラチナ・ダイバーだった。だから戦った。深層生物を何匹も倒した。だが最後の一匹に腹を裂かれた。俺は岩陰に隠れて、それをずっと見ていた」
「……」
「母は自分の死を悟って——俺に一つだけ、言葉を残した」
クロは岩肌に手を当てて、足を止めた。
「『生き残れ』」
彼女は低くその言葉を反芻した。
「『お前が生き残れば、それでいい。理由は後で自分で見つけろ』——それが母の、最後の言葉だった」
ミオはその話を深く深く聞いていた。
親の死——という体験をミオ自身は持っていない。だがクロの語る話を聞きながら、彼女の中で何かが共鳴していた。
親を失うということ。 親の、最後の言葉を自分の中に持つということ。
それはミオの基材の人物たちの、誰かが経験したかもしれないことだった。彼女の中にもしかすると母を失った誰かの記憶が眠っているのかもしれない。
「クロ」
『ん』
「お母さんは誇らしかったでしょう」
「……ふん」
クロは岩肌に当てた手をゆっくり下ろした。
「そう、信じてる」
彼女は再び、歩き出した。
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第九十九層に接近していた。
亀裂は徐々に広がっていた。やがて二人は岩窟のような広間に出た。広さは約五十メートル四方。天井の高さも十五メートル以上。
そして広間の中央に——何かが蹲っていた。
深層生物。
全長、約六メートル。四足歩行、全身が鋭い棘に覆われている。頭部には赤い目が六つ並んでいた。ミオの観察記録に存在しない種類の生物だった。
クロが即座にワイヤーグローブを起動した。
「マズいな」
彼女は低く呟いた。
「こいつ、見たことがない。深層生まれの俺でも知らない種類だ」
「私の記録にもありません」
『……だがこいつ、マナを急速に吸収している』
ミオは即座にその異常を検出した。
『広間全体のマナがこの生物の体内に流れ込んでいる。——マナを捕食している?』
「そんな生物がいるのか」
「……可能性はあります。コア層に近づくほど、マナを直接エネルギー源にする生物が進化していた——という、父のノートの仮説と一致します」
クロは奥歯を噛んだ。
「ワイヤーで足を縛れるか」
「やってみる。だがこいつ、俺たちのマナにも興味があるかもしれない」
ミオは岩肌に背を預け、自分のマナ波形を最小限まで抑え込んだ。
『私のマナを抑えました。——この生物の興味を引かないようにします』
「了解。ゆっくり後退する」
二人は岩肌を背にして、そろりと後ろに動き始めた。
棘の生物はまだ二人に気づいていない。あるいはマナを吸収するのに夢中になっていた。
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しかし——
ミオが後退する一歩を踏み出した、その瞬間——
広間全体のマナの流れが一瞬揺らいだ。
ミオ自身が無意識のうちに周囲のマナを僅かに動かしていた。彼女の本能的な、マナ調整機能。
その揺らぎを棘の生物が捉えた。
生物の六つの赤い目が一斉にミオの方を見た。
「——マズい」
クロが即座にワイヤーを放った。
棘の生物の前足二本にワイヤーが絡みつく。クロは岩肌に向けて、ワイヤーを引いた——生物の体を強引に岩肌に縛り付ける。
生物は激しくもがいた。だがワイヤーは強い。数秒は足止めできる。
「ミオ! 急いで逃げろ!」
「クロは——」
「俺は後から行く! 先にコアへの道を確認しろ!」
ミオは一瞬迷った。
約束——「コアに辿り着いたら、必ず一緒に戻れ」——その言葉を忘れてはいない。
だがクロが今、自分を逃がすために命を張っている。
ミオは走り出した。
広間の奥の通路へ——コアの方向へ。
走りながら、彼女は後ろを振り返らなかった。振り返ったら、戻ってしまう——それを彼女は自分の心の弱さで知っていた。
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通路の中に飛び込んで十秒後——
広間で激しい音が響いた。
衝撃音、岩の破壊音、そして——クロの、短い悲鳴。
ミオの足が止まった。
振り返ろうとしたが彼女の本能が前へ進めと言っていた。
約束を守るために生き残れ。
生き残れば、それでいい。
クロの母の、最後の言葉——それをクロ自身がミオに伝えた言葉。
ミオは奥歯を噛んで前進した。
通路の奥はゆっくり青白く発光していた。コアに近づいている——彼女の感覚がそう告げていた。
彼女は走り続けた。
涙が頬を伝っていることに自分でも気づかなかった。
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その頃——
遥か東——地下水脈の上流で。
金色の長い髪の女が地下水脈の岸辺に横たわっていた。
エマ・クロフォード。
彼女の体は冷たい水に半分浸かっていた。意識はまだ戻っていない。だが呼吸は規則的に続いていた。
彼女の傍に一人の人物が立っていた。
フードを被った、長身の男。
男はエマの体を見下ろし、低く呟いた。
「……国際機関の女、か」
彼の声には冷たい興味が混じっていた。
「面白い。——使えそうだ」
彼はエマの腕を掴み、ゆっくり持ち上げ始めた。
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第30話 完




