「ミオの目覚め」
意識が戻ってきた。
最初に感じたのは手の温もりだった。
誰かの手が自分の手を握りしめている。指の細さ、わずかな汗、強い握力——人間の手だった。情報として処理する前に感覚そのものがミオの中に流れ込んできた。
次に光。
瞼の裏側に淡い青白い光が滲んでいた。深層特有の、生物発光の光。瞼を開けるのに彼女は数秒、躊躇した。瞼を開けるという動作の感覚すら、今まで意識したことがなかったものだった。
意識する——という、それ自体が新しい体験。
彼女はゆっくり瞼を開けた。
最初に視界に入ったのは苔に覆われた岩の天井だった。鍾乳石の影が青白い光に照らされて、彼女の上に揺らいでいた。広い空間——岩窟の中。
視界の左側に人の顔があった。
クロ——彼女の名前をミオの記憶が即座に告げた。
深層育ちの少女。蓮の協力者。自分を守る役割を引き受けてくれた者。
クロはミオの手を握ったまま、眠っていた。岩肌に背中を預け、頭を膝の上に乗せた姿勢で浅い呼吸を繰り返している。疲れていた——その状態は明らかだった。
ミオはゆっくり自分の体の状態を確認した。
右肩、激痛。落下時に何かに強打したらしい。骨に異常はないが筋肉の損傷が深い。 頭部、軽度の眩暈。 胸部、息苦しい——マナ干渉の反動による、内的損傷。 全体としては生存可能なレベル。
彼女は自分の体をまるで他人のもののように観察した。
この体は誰のものなのか——その問いが彼女の中で新しく形成された。
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「……ミオ?」
クロの目が開いた。
彼女はミオが目を開けているのを見て、一瞬で完全に覚醒した。
「起きたか」
クロはミオの手をさらに強く握った。
「生きてて、よかった」
『……クロ』
ミオの声は嗄れていた。意識を失っていた期間が長かったらしい。
『私はどれくらい、眠っていましたか』
「三日と半分」
クロは即答した。
「意識を失ったまま、お前は俺の背中で運ばれていた。ここまで降りてきたのはお前自身の意志だった」
「……私の、意志?」
「ああ。お前は意識を失ったまま、何度も寝言で『下へ』と言っていた。だから俺はお前を背負って、深い方向へ向かった。——お前の本能を信じた」
ミオはその情報を頭の中で整理した。
意識を失ったまま、自分の意志で深部に向かっていた。
コアの方向に。
その事実は彼女の中で重要な何かとして、記録された。
「ここは——」
『地下水脈の終端の、岩窟だ。第九十八層だと地下マップでは表示されてる。コアまであと二層だ』
ミオは岩窟の天井をもう一度見上げた。
第九十八層——彼女自身が辿り着くべき場所だと本能で選択した場所。
「クロ」
『ん』
「装備の状態は」
「お前の装備は半分以上、損傷した。マナ波形隠蔽機能はもうない。——だがお前の本来の能力は消えていない」
「私自身の、能力で——マナを感知できる」
「それで俺を守ってきたね」
クロは皮肉な笑みを浮かべた。
「お前が無意識のうちに周囲のマナを操作して、深層生物を遠ざけてた。——でなければ、俺たちはとっくに捕食されてる」
ミオはその情報を自分の中で確認した。
意識を失っている間にも自分は機能を続けていた。
自分の存在は思っていたよりも深く世界と繋がっている。
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「蓮は?」
ミオがふと聞いた。
「分からん」
クロは率直に答えた。
「俺たち、転落で散らされた。蓮の落ちた方向は南東。エマの方向は東。俺とお前は南西だ。——三人、別々に落ちた」
「彼らの、生死は」
「確認不能」
クロはしばらく沈黙した。
「だが——蓮は絶対に生きてる。あいつは地下のどこに落ちても生き残るタイプだ。エマは——分からない。地上人だから深層の環境に耐えられたかどうか」
『……分からない、ですね』
「ああ」
二人はしばらく無言だった。
会話の沈黙——ミオはその重さを初めて感覚として理解した。情報の伝達がない時間。だがそれは空白ではなく、何かが二人の間で確実に共有されている時間だった。
人間はこうして、沈黙の中で繋がるのだ、と彼女は学んだ。
数分後、ミオは低く言った。
『クロ。——私はなぜ、ここに来たのでしょうか』
「お前の、本能だ」
「本能——その言葉、私の辞書には登録されています。ですが意味をまだ完全には理解できない」
「ふん」
クロは肩をすくめた。
「俺にも人間の本能はよく分からん」
彼女は岩肌に背を預け、天井を見上げた。
「でもお前の本能はある意味で人間より純粋だと思う。——お前は自分の起源に引き寄せられている。それは生物として、当たり前のことだ」
「私の、起源——」
「コアの中の、何かだろう?」
クロが淡々と言った。
「お前の基材は複数の人物の意識データだとローレンが言っていた。だがお前自身の核——お前をお前として存在させている根源はおそらくコアにある」
ミオはその推測を頭の中で検証した。
自分の核——という概念は彼女にとって新しいものだった。これまで彼女は基材の人物たちの集合体として、自分を認識してきた。だがクロの言うことが正しければ、もう一つ別の根源が彼女の中に存在することになる。
何か——名前のない、しかし強い、引力の中心。
彼女が無意識のうちにここまで降りてきた理由。
コアに近づきたい——その感覚は彼女自身が説明できないほど、強かった。
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『……クロ』
「ん」
「もう少し降りてみてもいいですか」
クロはミオを見た。
深層育ちの少女は深層の危険を誰よりも知っている。第九十八層から先、第九十九層、そしてコア層——その領域は人間が踏み込むべき場所ではない。彼女自身、ここまで来たのは生まれて初めてだった。
だがクロは数秒考えた後——頷いた。
「ああ。——お前が行きたいなら、行く」
「危険ではないですか」
「危険だ」
クロは即答した。
「だがお前がお前自身の真実を知る権利がある。俺はその権利を守る役割だ」
『……クロ』
「ただ、一つ条件がある」
クロは視線を強く向けた。
「コアに辿り着くなら、戻ってくる時に必ず俺を一緒に連れて帰れ。お前一人でコアに残るような選択は絶対にするな」
『……はい』
「約束、できるか」
『約束、します』
ミオは初めて人と約束を交わした。
その感覚は彼女の中で重要な何かとして、刻まれた。
約束——という概念が彼女の辞書の、新しい項目に加わった瞬間だった。
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その夜——
ミオは再び、目を閉じた。
体力の回復のためにはまだ睡眠が必要だった。クロはミオの傍に座り、見張りを続けていた。
眠りに落ちる前、ミオは岩窟の天井を見上げた。
遠く、岩肌の遥か向こうに——何かが彼女の意識を呼んでいるような感覚があった。
コア。
自分の、起源。
彼女の心臓はわずかに速く鼓動していた。
初めての、自分への、純粋な好奇心。
「私は誰なのか」——その問いの答えを彼女は自分の足で確認したかった。
眠りに落ちる直前——
彼女の意識の中で遠く、別の方向から誰かの気配が感じられた。
蓮——その名前が彼女の中で自然に浮かんだ。
彼も生きている。
彼も何かを進めている。
会いたい——その感情が彼女の中で初めて明確な形で認識された。
会いたい。
その言葉が彼女の中の、最後の意識として、響いていた。
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第29話 完




