「父の最後の手記」
ZERO-4を出てから十二時間が経った。
蓮は地下湖の北側を岩の壁伝いに歩き続けていた。深層クラゲの活動範囲を完全に避けるため、湖から約三十メートルの距離を保ちながら、東へ進んでいた。
ホログラム端末のマップによれば、地下湖の東端を抜けると第八十八層への登り通路がある。そこから徒歩で約二日——順調にいけば、深層中央部のゴーストタウンに到達できる。
ローレンに会えれば、まずチップの解読を依頼できる。同時に仲間の消息を深層のネットワーク経由で確認できるかもしれない。
ここまで仲間の生死はまだ確認できていない。
蓮の中でそれは焦りとして蓄積されていた。だが彼は知っていた——焦りで動けば、判断を誤る。だから彼は意識的に冷静さを保っていた。
一歩ずつ。
彼は岩の壁伝いをただ淡々と歩き続けた。
---
地下湖の東端を抜けた時、蓮は遠くに光を見た。
人工の光——青白いLEDの、小さな点滅。距離、約二百メートル。岩肌の影に何かの集落らしきものがあった。
蓮は即座にパイルバンカーのセーフティを外し、岩陰に身を伏せた。
深層住民の集落——その可能性は十分にあった。
ガラスやローレン以外にも深層には散在する小集落があると聞いていた。地下水脈の縁は水が確保できるため、特に小集落が形成されやすい地点だった。
彼はホログラム端末で光の方向をズーム観察した。
光源は岩肌の中に作られた人工の窪み——洞窟の中の小さな村。テントの代わりに岩を彫り込んで作られた住居が五軒ほど並んでいた。煙突もある。煮炊きの煙がわずかに天井に立ち昇っている。
人が生活している。
蓮は考えた。
接触するか、迂回するか。
迂回した場合——時間の節約と安全の確保。だが深層の情報を得られない。 接触した場合——情報を得る可能性、しかし敵対される可能性もある。
蓮はコートの内ポケットに父の手紙を確認した。
ナタリアに届ける前に父の名を出して、情報を集める価値は十分にあった。
彼は岩陰から出て、集落の方向へゆっくり歩き出した。
---
集落の入り口で一人の老人が椅子に座っていた。
七十代と思しき男性。深層住民らしい、薄い肌の色と栄養状態の良くない細い体。だが目だけは——鋭い金色。ガラスやローレンと同じ、機械化された義眼だった。
彼は蓮が近づくのをじっと観察していた。
蓮は十メートルの距離で足を止めた。
「——失礼する」
彼は低くしかしはっきりとした声で言った。
「俺は工藤の息子だ」
老人の動きが止まった。
数秒、彼は蓮を見つめてからゆっくり立ち上がった。
「……工藤」
声は嗄れていた。
「工藤透の、息子か」
「ああ」
「証拠は」
蓮はコートの内ポケットから父の手紙を取り出した。筆跡が見える部分だけを老人に見せた。中身は見せなかった。
老人は義眼を細めて、筆跡を確認した。
「……ふん」
彼はわずかに頷いた。
「入れ」
短くそれだけ言った。
---
集落の中心の住居に蓮は通された。
岩を彫り込んだ部屋の中央に小さな焚き火が燃えていた。煙は天井の小さな穴から上方へ抜けている。蓮の入った時、室内にはもう二人の住民——若い男と中年の女——が座っていた。彼らは無言で蓮を観察した。
老人は焚き火の傍に座り、蓮にも同じく座るよう、指で示した。
「俺の名前はシゲル」
老人は低く言った。
「この集落の、長老だ。住民は十二人。生存中、十一人」
「一人、最近、亡くなったのか」
「死んだのではない」
シゲルは首を振った。
「消えた」
蓮は眉を上げた。
「消えた?」
「三日前、住民の一人が深層生物の探索に出かけた。戻ってこなかった。生存の痕跡もない」
「行方不明、ということか」
「深層ではよくあることだ」
シゲルは肩をすくめた。
「死体を見つけないと確定はできない。だが戻る確率はほぼゼロだ」
蓮はその情報を頭の片隅に保留した。深層の厳しさはこうした日常の喪失と共にある。
「俺は長居はしない」
蓮は率直に言った。
「北東に向かって、ゴーストタウンを目指している。ローレンに会う必要がある」
「ローレン、か」
シゲルが目を細めた。
「彼女とは長い付き合いだ。お前のことを伝言してやろう」
「ありがたい」
「ただし——」
シゲルは視線を上げた。
「伝言の前にお前にも伝えたい情報がある」
---
「三日前」
シゲルは焚き火の薪をゆっくり並べ直しながら言った。
「この集落の南西、約十キロの地点で奇妙な光景が目撃された。住民の一人がたまたま狩りに出ていて、見ていた」
「光景?」
「地下水脈に沿って、二人の女が歩いていた。一人は少女——深層育ちの動き。もう一人は少女よりも年下の、外見はもっと幼い少女。だがマナ波形が異常だった、と」
蓮の心臓が一瞬跳ねた。
深層育ちの動き——クロ。 外見が幼い、マナ波形が異常——ミオ。
「……二人は生きていたのか」
「ああ。二人とも自分の足で歩いていた」
シゲルは淡々と続けた。
「だが少女のうち、片方が重傷を負っていたらしい。深層育ちの方がもう片方を支えていた」
蓮は強く拳を握った。
ミオが重傷を負っている——可能性が高かった。ゼノンとの最後の戦いで彼女はマナ干渉の限界を超えた。落下中、生身の人間と同様の負荷を受けた可能性がある。
「方向は」
「南西。深層の更に深い領域——第九十八層の方向だ」
「第九十八層」
蓮はその数字を反芻した。
コア層に極めて近い。レイヤー・ゼロまでわずか二層。深層住民すら、滅多に立ち入らない、極めて危険な領域だった。
「なぜ、そんな場所へ」
「俺には分からない」
シゲルは率直に言った。
「だが推測はできる。——マナ波形が異常な少女はおそらく自分の本能でコアに向かおうとしている」
「本能?」
「あの種の存在は自分の起源に引き寄せられるものだ」
シゲルは義眼を細めた。
「ミオ計画の試作体、なんだろう? お前の連れていた少女は」
蓮は息を止めた。
深層の老人がミオの正体をここまで推測している——その情報網の広さに改めて驚いた。
「……どうして、知っている」
「ローレンから聞いている。彼女はお前たちの旅を定期的に俺に共有していた。——緊急時の、相互救援のためにな」
蓮は短く頷いた。
深層住民の情報ネットワークは想像以上に密だった。
---
「もう一つ伝えておく」
シゲルは続けた。
「この集落から東に向かう道は現在、危険だ。三日前から地震が続いている。地下水脈の流れが乱れ、何かの大きな存在が深部で動き始めているらしい」
「何か——とは」
「分からん」
シゲルは首を振った。
「だが深層生物が皆、騒いでいる。普段は静かに眠っている生物まで徘徊を始めている。これは良くない兆候だ」
「良くない兆候、とは」
「地下が目覚めようとしている。——それが何を意味するのかは俺にも分からん」
蓮はしばらく沈黙した。
地下が目覚める。
その表現は父のノートの仮説——アテロイドが思考している——と不気味に符合した。
もしかするとミオが第九十八層に向かっていることと地下が目覚めようとしていることは無関係ではないのかもしれない。
「……シゲル」
蓮は低く言った。
「ローレンへの伝言を頼みたい」
「言ってみろ」
「俺は生きている。父のノートと最後のチップを確保した。ナタリアに渡したい。——可能なら、ライアンに連絡を取って欲しい」
「了解した」
「それと——」
蓮は短く息を吸った。
「ミオは南西の第九十八層に向かっている。クロが同行している。俺はナタリアへの届け物を済ませた後、ミオを追う」
「分かった。そう、伝える」
シゲルは義眼で何かを記録するように瞬いた。
「お前はこれからどうする」
「集落で一晩、休ませてほしい。明朝、東への帰路を再開する」
「いいだろう」
シゲルは奥の若い男に視線を送った。
「ジン、客人に寝床を用意してやれ」
若い男は無言で立ち上がり、奥の小部屋へと蓮を案内した。
---
夜——深層に「夜」と呼ぶべき時間が訪れた。
蓮は小部屋の硬い寝台に身を横たえた。久しぶりの、屋根のある場所での休息。安全が確保された場所で彼は意識的に深い睡眠を取る必要があった。
眠りに落ちる前、彼は父の手紙をもう一度確認した。
「お前一人だけがここに辿り着ける人間だった」
その一文を何度か読み返した。
なぜ、自分だけがと——蓮は何度も自問した。
その答えはまだ得られていない。
だが彼の中で何かが繋がり始めていた。
父の計画、ミオの起源、自分自身の存在——それらがまだ全て見えない糸で繋がっている。
蓮は目を閉じた。
眠りに落ちる直前、彼の意識の中で——
遠く、深い場所でミオの薄紫の瞳がこちらを見ているような、そんな感覚があった。
気のせい、だろう。
彼はそう判断し、眠りに落ちていった。
---
その頃——
深層、第九十八層。
地下水脈の終端の、広大な岩窟の中で——
一人の少女が苔に覆われた岩の上に横たわっていた。
ミオ。
彼女の意識はまだ戻っていなかった。
その傍らにもう一人の少女が座っていた。
クロ。
彼女は両手でミオの手を握りしめていた。
「……起きろよ、ミオ」
クロは低く呟いた。
「俺はお前を守ると約束した。——だから起きろ」
返事はなかった。
地下水脈の音だけが岩窟の中で低く響いていた。
---
第28話 完




