「水脈を辿って」
巨大な何かが水面のすぐ下まで近づいていた。
蓮は岸辺から十メートル後退し、岩陰に身を寄せた。動かない——という選択。深層生物は視覚よりも振動で獲物を探知することが多い。クロがそう教えてくれていた。
走るな。動くな。気配を消せ。
彼は外骨格のブースターを完全に停止させ、呼吸を浅く整えた。
水面の発光が岸辺の手前約五メートルで止まった。
ぼんやりと青白い光の塊——水中にその輪郭が浮かび上がる。全長十メートル以上、円筒形の体に無数の触手が四方に伸びている。頭部らしき部分はなかった。全身がひとつの感覚器官として機能している、深層特有の進化形態。
深層クラゲ——クロのアドバイスの中で名前だけ聞いた覚えがあった。直接の捕食者ではないが触手に毒がある。接触すれば、人間は数分で麻痺し、水中に引きずり込まれる。
巨大クラゲは蓮の方向にゆっくり触手を伸ばした。
蓮の心拍がひとつ、跳ねた。
しかし彼は動かなかった。
触手は岸辺からわずか一メートルの位置で止まった。
数秒、空気が静止した。
そして——触手はゆっくり水中に戻った。
巨大クラゲは蓮を感知しなかったらしい。あるいは感知したが獲物として認識しなかったのかもしれない。岩陰の冷たさと彼自身の体温の低下が周囲の岩肌と一体化させていたのだろう。
水中の発光が徐々に遠ざかっていく。
蓮は一分間、岩陰で動かなかった。
二分後、ようやくゆっくり岩陰から出た。深層クラゲは湖の中央まで戻っていた。
「……」
彼は長く息を吐いた。
戦って勝てる相手ではなかった。クロのワイヤーがあってもミオのマナ干渉があってもこの生物は深層の自然そのものだった。人間が立ち向かう対象ではない。
回避すること——それが唯一の答えだった。
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蓮は岸辺を慎重に東へ歩き出した。
観測拠点ZERO-4まで約二キロ。深層クラゲの活動範囲を避けながら、岸辺の岩陰を縫って進む必要があった。
歩きながら、彼は——独白を始めていた。
独りでいる時間が長くなると人は自分自身に話しかけ始める。蓮はそれを知っていた。
ミオは無事だろうか。
彼女の最後の言葉——「私の意志で」——は彼の中でまだ鮮明だった。マナ干渉の反動が大きい技を彼女は使った。落下中、意識を保てたかどうかすら、分からない。生きていてくれ、と蓮は静かに祈った。
クロはどうしているか。
深層育ちの彼女は深層での生存能力が誰よりも高い。地下水脈の岸辺に落ちたとしても生き延びる方法を知っているはずだった。だが装備を全て失った場合——彼女が頼る素手の戦闘では限界がある。
エマは——
彼女は地上人だ。深層の環境は彼女にとって致命的に過酷だった。マスクなしで酸霧の領域に落ちていたら、数時間で意識を失う。
全員、無事である保証は何もなかった。
しかし——
それでも進むしかない。
蓮は自分の頬を軽く叩いた。落ち込んでいる時間が贅沢だった。生き延びて、彼らを見つけて、全員を地上の証言台に連れて行く——それが今の彼の役割だった。
「……親父」
蓮は誰もいない地下湖に向かって、低く呟いた。
「あんたの計画、俺はまだ全部を理解していない。だが——ここまで来たんだ。あんたが残した手がかりを全部、拾わせてもらう」
返事はもちろん、なかった。
ただ、地下湖の水面がわずかに揺れただけだった。
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二時間後、蓮は観測拠点ZERO-4に到達した。
地下湖の対岸の、岩肌の中に埋め込まれた、ZERO-3よりも一段と古い施設だった。扉は半分崩れ落ち、内部はZERO-3よりも荒れていた。だが奥の部屋にはデスクと棚がかろうじて残っていた。
蓮は慎重に内部に入り、装備を点検した。
外骨格Mk.IIのブースター燃料——あと十パーセント。ZERO-4から先の移動はほぼ徒歩になる。 ホログラム端末——バッテリー残量、五十パーセント。
彼はデスクに近づき、引き出しを順番に確認した。
最初の引き出し——空。 二番目の引き出し——錆びた工具が数本。 三番目の引き出し——封筒が一通。
蓮は封筒を取り出した。
表には手書きでこう書かれていた。
「子へ」
父の筆跡。
蓮の指がわずかに震えた。
この封筒は父が息子の到着を予期して、置いていったものだった。
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彼は封筒を慎重に開けた。
中には手紙が一通と金属製のチップが一枚、入っていた。
手紙をまず読んだ。
「もし、お前がこれを読んでいるなら——お前はZERO-4まで辿り着いたということだ。
ここから先、俺の手記はもうない。
だがレイヤー・ゼロの真実はこのチップに収めた。
チップはジャンク・ギルドのナタリアか、深層のローレンに渡せ。
彼らが解読できる。
最後にお前に一つだけ謝らせてくれ。
お前を一人で来させて、すまない。
だがお前一人だけがここに辿り着ける人間だった。
——透」
蓮は手紙を二度、三度、読み返した。
父は息子の到着を確信していた。
そして息子だけがこの場所に辿り着けると信じていた。
その確信の根拠がどこから来ていたのかはまだ分からない。だが父は息子が自分の足跡を辿ることを絶対のものとして、計画していた。
蓮は金属チップを手のひらに乗せた。
チップは小型の記憶媒体。アテロイド合金で作られた、特殊な暗号化方式。これは確かにナタリアの専門領域だった。
ジャンク・ギルドへの帰還が急務になった。
だが現状、ライアンとの連絡は不可能。深層から中層への帰還には最短でも一週間かかる。その間仲間の安否を確かめながら、深層を抜ける必要がある。
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蓮は封筒の中をもう一度確認した。
もう一枚、小さな紙が底に残っていた。
「P.S. 妹のことは後悔している。彼女を守れなかった。
——だが彼女は生きている。
信じてくれ」
蓮は息を止めた。
妹は生きている。
父からの、直接の証言。
ジャンク・ギルドのコウキが「藤原灯として再登録された記録あり」と言った時、蓮はまだ確信できなかった。別人の可能性もあった。だが父自身が生存を確信していたのなら——その情報の重みは桁違いだった。
妹は生きている。
そしておそらく藤原灯として、浮遊居住区の研究員になっている。
蓮は手紙とチップをコートの内ポケットの最も奥にしまった。父のノートと並べて、収納する。最重要の証拠品だった。
彼はZERO-4の扉から外に出た。
地下湖の対岸の、深い暗闇が目の前に広がっていた。
ここから先——蓮はジャンク・ギルドのナタリアにこのチップを届けることを最優先の目標とした。仲間の捜索もゼノンとの対決もこの情報の重みに比べれば、後回しだった。
父が残した、レイヤー・ゼロの真実——それが世界を変える可能性を持っていた。
「……親父」
蓮はもう一度、誰もいない深部に向かって、低く呟いた。
「信じる。——妹もあんたの計画も全部、信じる」
彼は暗闇の中に再び、歩き出した。
地下湖を後にして、北東——地上への、長い帰り道が始まろうとしていた。
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第27話 完




